〈19歳で出産、生後9か月の息子が“脳性まひ”に…「お母さん、今まで何していたの?」母親が医者の言葉に絶句したワケ〉から続く
両親の反対を押し切って実家を飛び出し、19歳のとき結婚・出産した畠山織恵さん(44)。生まれた息子・亮夏さん(24)は、生後9か月で「脳性麻痺」と診断された。彼女は、障害とともに生まれたわが子を、どのように育ててきたのだろうか?
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ここでは、畠山さんが、23年間にわたる親子と家族の成長記録を綴った著書『ピンヒールで車椅子を押す』(すばる舎)より一部を抜粋。理想の母親像、幼い子どもの夜泣き…初めての育児に悩む彼女の苦悩とは――。(全2回の2回目/1回目から続く)
写真はイメージ iStock.com
脳性麻痺の診断を受けた亮さんと私は、診断後すぐに母子通園を開始した。母親と子どもがともにリハビリ施設に通園するというものだ。
私たちが縁あって通うことになった通園施設は、リハビリを先生が行うだけでなく、母親や子どもにとって身近な家族が学ぶことができ、通院せずとも自宅でいつでもリハビリができるというボイタ法だった。
母子通園はまず親子で登園し、朝の会の後、グループ分け。間に昼食をはさんで午前午後、ともに2回ずつ保育とリハビリを交互に受ける。
リハビリのときは担当の先生(理学療法士)の指導を受けながら親が行うのだが、保育の時間は保育士さんに子どもを預け、ママたちは自動販売機で好きなジュースを買い、同じ保育時間に当たった者同士で話をしたり、つかの間の貴重なお1人様時間を手にするのだった。
ここで私は、先輩ママたちから「障害児の母親像」を大きく覆されることになる。
ある日のこと、先輩ママさんグループの中でも一際にぎやかで、華やかな数人と保育の時間が重なった日があった。仲良さそうに話すママさんたちはそれだけで眩しかったのだが、さらにかっこよく煙草をふかし、その日も何やら楽しそうに話していた。
「ところで、次いつ飲みに行く?」
姉御的存在のママさんの声が飛び込んできた。
飲みに行く? え、子どもがいても飲みに行っていいの?
私は思わず二度見してしまった。母親が飲みに行くという選択肢が私の中にはまったくなかったからだ。
「この間さ、ミナミのバー行ったんやけど、面白かったでー。またみんなで行こうや」
「いいねえ。そしたら、日を決めよう」
バーも気になるところだが、何よりも母親が自由に自分の時間を楽しんでいることに衝撃を受けた。
私は亮さんが生まれたとき、自分の人生は終わったのだと思っていた。
それは、「脳性麻痺です」と言われたからではない。ただ出産をして母親になった。「母親になってしまった」というショックのほうが実は大きかった。
家を出るために、自分で妊娠したいと望んだのに、今さら何を無責任なことを、と自分でも呆れた。ただ実際に、亮さんが生まれて家に連れ帰ったとき、戸惑いや、ある種虚無感に近い感覚があった。
「私は人生で一度も自分にスポットライトが当たらないまま、また誰かのために人生をささげて、生きて、そして死んでいくんだな」
真剣にそう思っていたし、母親になるとはそういうことなのだと思っていたので、先輩ママたち(しかも障害がある子どもたちのママ!)が、自分の人生も大事にしている姿にただただ衝撃を受けた。
母親になっても、自分を楽しませていい!
自分の時間を作ってもいい!
自分を大事にしていい!
はじめて「母親としての自分」をポジティブにイメージできた瞬間だった。
しかしその一方で、残念なことにドラマティックではない日常生活も続いていた。
療育園に通い出しても、亮さんの夜泣きは止まらなかった。
人間、寝不足が蓄積すると、体の疲労だけでなく、だんだんと心もむしばまれていく。夫の頭を灰皿でかち割りたくなるどころのレベルではなくなっていた。
このころの私はまだ2歳にもならない亮さんに対して、
「うるさーい!!」
と叫んだり、亮さんの顔に枕を押し付けては、我に返って
「ごめんね、ごめんね」
と泣きながら謝ったり、とにかく普通の精神状態ではなかった時期だった。
こんな毎日が1年続いたころ、私はついに区役所に駆け込んだ。「私、これ以上この子と2人で1緒にいたら、この子、殺してまうかもしれません」 そう、きっとだいぶやばい顔で窓口の人に伝えたと思う。 だがこのときの私の判断は、亮さんの命と心を守るうえで、かなりナイスな判断だったと今でも思う。毎日のように流れているどこかで起きた悲しい親子のニュースは、決して他人事だとは思えない。私もいつニュースに出ていてもおかしくなかった。「昼寝なんかしなくても、亮夏は死にません!!!」 駆け込んだ翌年、地域の保育園に入園が決まり、亮さんは2歳児クラスから通い出した。 しかしホッとしたのもつかの間、彼は当初なかなか保育園に慣れることができず、他の子どもたちが、1、2週間で終える通称『慣らし保育』(保育園に慣れるために、一定期間短時間で帰るというもの)を半年経った時点でも彼だけ1人続けていた。 理由は2つだ。 ・なんしかずっと泣いている ・昼寝をしない「今日こそは昼寝して、他の子と一緒に4時まで遊んで帰ってくるんやで」 そう言い聞かせて送り出すのだが、そんな言葉もむなしく、大体13時ごろには「お母さん、亮夏くんがお昼寝をしません。迎えに来てください」と保育園から電話がかかってくるのだ。 そして、突然それはやってきた。私が切れたのだ。「今日もお昼寝をしないので……」 そのひまわりのように優しい先生の声を遮って、私は叫んだ。「昼寝なんかしなくても、亮夏は死にません!!!」 かの有名なドラマの名台詞「ぼくは死にません」を彷彿とさせたかどうかはわからないが、必死さはおそらく劣るまい、その勢いで叫び、気がつけば電話を切っていた。 先生、あのときはビックリさせてごめんなさい。でもその後、無事に亮さんも慣らし保育を終え、保育園生活を満喫できるようになっていった。保育園ママにおすすめされたA医院へ 亮さんが保育園に通い出したことを機に、風邪もよく引くようになり、保育園ママにどこか近くで良い小児科はないかと尋ねたところ、「ちょっと癖がある先生で、合わない人は合わないみたいだけど、私は信頼してるで」とおすすめされたのがA医院だった。 まさかそこで生きる術を1つ身につけられるなんて、そのときは夢にも思わずにいた。 ある日亮さんが風邪を引いた。早速車で10分ほどの距離にあるA医院に向かった。 ちなみに亮さんは1人で座る姿勢が保てないので、基本、移動はバギーか車移動になる。 到着したA医院は、大きめの一軒家を改築したような個人病院だった。初めての病院、初めての先生は緊張する。「優しい先生やったらいいな」 待っている間も次々と赤ちゃん連れや、保育園の帽子をかぶった4歳くらいの子を連れたママたちが入ってきたので、「人気がある病院なんだな。じゃあ心配ないかな」 と思った。「畠山さーん」 30分ほど待つと受付の女性が、きっと笑顔で呼んでくれたんだろうなとわかる声で名前を呼んでくれた。「こんにちは」と、椅子に腰かけた先生がこちらを向いた。短髪。歯切れのいい話し方。なんとなくゴルフ、好きそう。オシャレ。そう思ったのは、片手だけ焼けた手を見たからか、診察室なのに軽快なジャズが流れているからか。 先生の前に置かれた小さな丸椅子に、亮さんを抱いたまま座る。障害のことや、必要事項を伝えた。「私、見た目は若く見えますが、ちゃんとした賢いお母さんです」 昔から、賢く見せることだけは得意な私だ。 先生のリズムに合うよう、会話のスピードや話す内容、話し方にも気をつける。 ハキハキした端的な話し方に、ちょっとばかし強い印象はあるけれど、信頼でそうな先生だなと私は思った。 ただ、失敗しないか、不快な思いをさせないかとか、診察のたびにそんなことを考えていて、私はいつも緊張していた。「前もってボタンは外しておかないと」え? 私、今怒られてる? そんなある日、また鼻をぐずぐずいわせた亮さんを連れて、診察に訪れたときだった。「じゃあ、おなか見せて」 はい、と言い、亮さんのズボンを下げ、ロンパースの股ボタンをモゾモゾと外しにかかった、そのときだった。「お母さん」 先生に呼ばれた。「はい」 何? 今忙しいんですけど、と思いながらと顔を上げる。「これから診察するんだから、おなか診ることわかるでしょ。前もってボタンは外しておかないと」 真顔の先生と目が合った。 え? 私、今怒られてる? ロンパースのボタンを外しているだけで? 驚き、ショック、悲しみ、怒り。これか。これが「ちょっと癖がある」というやつか。「失敗した! 否定された! この人嫌い!」『優等生』を演じてきた私が、頭の中で泣きながら紛糾している。「だが、待てよ」 頭の反対側から声が聞こえた。ここで先生を嫌いになることもできる。 でも、ホントにそれでいいのか?よし! アホになろう!! 笑顔とお詫び、そして渾身のタメ口 私にも悪いところはある。もちろん言い分はあるが、悪いところがあるかないかでいえば「ある」。 それに、このまま「傷つけられた」と言って拒否をする、そんな自分が嫌やな。 そして私はひらめいた。 よし! アホになろう!! モデルは学生時代の愛されキャラ「くり子」だ。名誉のためにお伝えするとくり子はアホではない。いい意味で彼女は「アホになれる」天才なのだ。例えばどうしてもその日に出さなければならない提出物を彼女が忘れたとき。彼女は、満面の笑顔で、こう言った。「やーん、ごめん先生、忘れてた! 今度ご飯一緒に行ってあげるから来週まで待ってー」 それを受けた先生が、「何をゆーてるんや。こっちからお断りや」 と言いながらも、「明日には必ず提出せえよ」 と笑って答えたときには、度肝を抜かれた。こちらを見てペロッと舌を出す彼女にカルチャーショックを受けたとともに、アホの力を目の当たりにしたのだった。 くり子ならこんなとき、どう返すだろう。私は考えた。そしてにっこり笑ってこう伝えた。「ほんまですね! もー、気がつきませんでした! 先生ほんまごめん!」 笑顔とお詫び、そして渾身のタメ口だ。 すると先生は「はい。たのむよ」 と、笑ってくれた。「勝った」 そう思った。その日を境にまったく緊張しなくなった そのときは何に勝ったのかはわからなかった。 でも今ならわかる。私は、私に勝ったのだ。私の中の、ただ傷つくことを恐れて、相手を批判し逃げ出すだけの弱い私に勝ったのだ。 A先生の前でアホになると決めた私は、その日を境に先生に会うときに、まったく緊張しなくなった。 あれから20年経つが、亮さんだけでなく、亮さんの妹のつかさも今だにお世話になっている。何かあったときは親身になって私の相談にも乗ってくれる最高の先生だ。「人との出会い」は、「新しい価値観との出会い」ともいえる。新しい価値観に触れることで成長できたり、時に囚われていたものに気づかされることもある。 私にとって、そしてきっと亮さんにとっても大きなターニングポイントとなる出来事も、ある出会いによってもたらされる。それは3年後の運動会の日だった。(畠山 織恵/Webオリジナル(外部転載))
こんな毎日が1年続いたころ、私はついに区役所に駆け込んだ。
「私、これ以上この子と2人で1緒にいたら、この子、殺してまうかもしれません」
そう、きっとだいぶやばい顔で窓口の人に伝えたと思う。
だがこのときの私の判断は、亮さんの命と心を守るうえで、かなりナイスな判断だったと今でも思う。毎日のように流れているどこかで起きた悲しい親子のニュースは、決して他人事だとは思えない。私もいつニュースに出ていてもおかしくなかった。
駆け込んだ翌年、地域の保育園に入園が決まり、亮さんは2歳児クラスから通い出した。
しかしホッとしたのもつかの間、彼は当初なかなか保育園に慣れることができず、他の子どもたちが、1、2週間で終える通称『慣らし保育』(保育園に慣れるために、一定期間短時間で帰るというもの)を半年経った時点でも彼だけ1人続けていた。
理由は2つだ。
・なんしかずっと泣いている
・昼寝をしない
「今日こそは昼寝して、他の子と一緒に4時まで遊んで帰ってくるんやで」
そう言い聞かせて送り出すのだが、そんな言葉もむなしく、大体13時ごろには
「お母さん、亮夏くんがお昼寝をしません。迎えに来てください」と保育園から電話がかかってくるのだ。
そして、突然それはやってきた。私が切れたのだ。
「今日もお昼寝をしないので……」
そのひまわりのように優しい先生の声を遮って、私は叫んだ。
「昼寝なんかしなくても、亮夏は死にません!!!」
かの有名なドラマの名台詞「ぼくは死にません」を彷彿とさせたかどうかはわからないが、必死さはおそらく劣るまい、その勢いで叫び、気がつけば電話を切っていた。
先生、あのときはビックリさせてごめんなさい。でもその後、無事に亮さんも慣らし保育を終え、保育園生活を満喫できるようになっていった。
亮さんが保育園に通い出したことを機に、風邪もよく引くようになり、保育園ママにどこか近くで良い小児科はないかと尋ねたところ、
「ちょっと癖がある先生で、合わない人は合わないみたいだけど、私は信頼してるで」とおすすめされたのがA医院だった。
まさかそこで生きる術を1つ身につけられるなんて、そのときは夢にも思わずにいた。
ある日亮さんが風邪を引いた。早速車で10分ほどの距離にあるA医院に向かった。
ちなみに亮さんは1人で座る姿勢が保てないので、基本、移動はバギーか車移動になる。
到着したA医院は、大きめの一軒家を改築したような個人病院だった。初めての病院、初めての先生は緊張する。
「優しい先生やったらいいな」
待っている間も次々と赤ちゃん連れや、保育園の帽子をかぶった4歳くらいの子を連れたママたちが入ってきたので、
「人気がある病院なんだな。じゃあ心配ないかな」
と思った。
「畠山さーん」
30分ほど待つと受付の女性が、きっと笑顔で呼んでくれたんだろうなとわかる声で名前を呼んでくれた。
「こんにちは」と、椅子に腰かけた先生がこちらを向いた。短髪。歯切れのいい話し方。なんとなくゴルフ、好きそう。オシャレ。そう思ったのは、片手だけ焼けた手を見たからか、診察室なのに軽快なジャズが流れているからか。
先生の前に置かれた小さな丸椅子に、亮さんを抱いたまま座る。障害のことや、必要事項を伝えた。
「私、見た目は若く見えますが、ちゃんとした賢いお母さんです」
昔から、賢く見せることだけは得意な私だ。
先生のリズムに合うよう、会話のスピードや話す内容、話し方にも気をつける。
ハキハキした端的な話し方に、ちょっとばかし強い印象はあるけれど、信頼でそうな先生だなと私は思った。
ただ、失敗しないか、不快な思いをさせないかとか、診察のたびにそんなことを考えていて、私はいつも緊張していた。
そんなある日、また鼻をぐずぐずいわせた亮さんを連れて、診察に訪れたときだった。
「じゃあ、おなか見せて」
はい、と言い、亮さんのズボンを下げ、ロンパースの股ボタンをモゾモゾと外しにかかった、そのときだった。
「お母さん」
先生に呼ばれた。
「はい」
何? 今忙しいんですけど、と思いながらと顔を上げる。
「これから診察するんだから、おなか診ることわかるでしょ。前もってボタンは外しておかないと」
真顔の先生と目が合った。
え? 私、今怒られてる? ロンパースのボタンを外しているだけで?
驚き、ショック、悲しみ、怒り。これか。これが「ちょっと癖がある」というやつか。
「失敗した! 否定された! この人嫌い!」
『優等生』を演じてきた私が、頭の中で泣きながら紛糾している。
「だが、待てよ」
頭の反対側から声が聞こえた。ここで先生を嫌いになることもできる。
でも、ホントにそれでいいのか?
私にも悪いところはある。もちろん言い分はあるが、悪いところがあるかないかでいえば「ある」。
それに、このまま「傷つけられた」と言って拒否をする、そんな自分が嫌やな。
そして私はひらめいた。
よし! アホになろう!!
モデルは学生時代の愛されキャラ「くり子」だ。名誉のためにお伝えするとくり子はアホではない。いい意味で彼女は「アホになれる」天才なのだ。例えばどうしてもその日に出さなければならない提出物を彼女が忘れたとき。彼女は、満面の笑顔で、こう言った。
「やーん、ごめん先生、忘れてた! 今度ご飯一緒に行ってあげるから来週まで待ってー」
それを受けた先生が、
「何をゆーてるんや。こっちからお断りや」
と言いながらも、
「明日には必ず提出せえよ」
と笑って答えたときには、度肝を抜かれた。こちらを見てペロッと舌を出す彼女にカルチャーショックを受けたとともに、アホの力を目の当たりにしたのだった。
くり子ならこんなとき、どう返すだろう。私は考えた。そしてにっこり笑ってこう伝えた。
「ほんまですね! もー、気がつきませんでした! 先生ほんまごめん!」
笑顔とお詫び、そして渾身のタメ口だ。
すると先生は
「はい。たのむよ」
と、笑ってくれた。
「勝った」
そう思った。
そのときは何に勝ったのかはわからなかった。
でも今ならわかる。私は、私に勝ったのだ。私の中の、ただ傷つくことを恐れて、相手を批判し逃げ出すだけの弱い私に勝ったのだ。
A先生の前でアホになると決めた私は、その日を境に先生に会うときに、まったく緊張しなくなった。
あれから20年経つが、亮さんだけでなく、亮さんの妹のつかさも今だにお世話になっている。何かあったときは親身になって私の相談にも乗ってくれる最高の先生だ。
「人との出会い」は、「新しい価値観との出会い」ともいえる。新しい価値観に触れることで成長できたり、時に囚われていたものに気づかされることもある。
私にとって、そしてきっと亮さんにとっても大きなターニングポイントとなる出来事も、ある出会いによってもたらされる。それは3年後の運動会の日だった。
(畠山 織恵/Webオリジナル(外部転載))