京都府舞鶴市の関本長三郎さん(80)は、市民でつくる「戦争・空襲メッセージ編さん委員会」の代表を務め、戦争体験者から聞き取った証言を記録集としてまとめてきた。「軍の発表は信用できない。甚大な被害があった舞鶴空襲では、海軍舞鶴鎮守府は『我方の被害は僅少にして、戦力増強に何らの影響なし』などと虚偽の発表をした。直接、当事者から話を聞くことで初めて戦争の実相が見えてくる」と語る。これまでに聞き取りをした人は400人以上に上る。
【写真】被爆3日後の惨状…記者が撮った40枚 その原動力は「理不尽な戦争への怒り」であり、声なき声を集めることが平和を守ることにつながるという思いだ。「戦争体験者の話は尽きることがない。いくらでも、湧き出るように出てくる。戦後78年を迎えるが、時間が経過した今だから話せる人もいる。話したいという人が現れると、タイミングを逃すことなくすっ飛んでいきます」 海軍の第三火薬廠(しょう)があった舞鶴市朝来地区の出身。太平洋戦争の開戦直前に爆薬の製造を開始し、戦時中は5000人以上が働いていたとされる。 朝来地区は静かな農村だったが、火薬廠の建設で地区の46%の土地が強制的に海軍に買収され、住民の生活は一変した。建設地となった田畑や山林は生活の糧であり、多くの人が生業を失った。自身の父親もその一人だった。 記録集で、こんな証言を紹介した。「海軍の将校が突然、朝来村にやってきて、村人を集めて1年以内に神社仏閣も移転せよと命じた。村人が田畑がなくなったら暮らしていけないと訴えたら、『海軍が面倒を見てやる』と答えた」 敗戦後、火薬廠の跡地は放置され、草が生え放題の状態が長年続いた。関本さんはその光景を見るたび、やりきれない思いにとらわれたと振り返る。「海軍が朝来の村で土地の強制買収に乗り出した時、私たちの村では各戸が抱えた借金の返済をようやく終えた時期と聞いています。洪水を繰り返す地元の川を改修するため、20年ローンで村人は国に借金したのです」。そんな状況で土地を奪われた先祖の気持ちを思うと、今も胸が痛む。 府立東舞鶴高を卒業後、舞鶴市内にあった舞鶴海洋気象台などに勤務。60歳の定年を機に、本格的な戦争体験者の聞き取りを始めた。最初に刊行したのは「住民の目線で記録した旧日本海軍第三火薬廠」。200人以上から聞き取りをし、施設図や職員名簿も入手。海軍が使用した爆薬の半分を製造したとの指摘もある第三火薬廠の全体像を明らかにした。 現在、敗戦直前の舞鶴空襲で犠牲となった学徒の慰霊祭の事務局長をはじめ、「平和のための舞鶴の戦争展」の実行委員なども務めている。小中学校での講演も続けている。 「時間の経過とともに戦争を語り継ぐことが難しくなっていると言われるが、戦争の実相を伝える努力を続ければ、必ず人の心に届くと思っています。今後も舞鶴の戦争を記録し、語り続けていきたい」と語った。【塩田敏夫】
その原動力は「理不尽な戦争への怒り」であり、声なき声を集めることが平和を守ることにつながるという思いだ。「戦争体験者の話は尽きることがない。いくらでも、湧き出るように出てくる。戦後78年を迎えるが、時間が経過した今だから話せる人もいる。話したいという人が現れると、タイミングを逃すことなくすっ飛んでいきます」
海軍の第三火薬廠(しょう)があった舞鶴市朝来地区の出身。太平洋戦争の開戦直前に爆薬の製造を開始し、戦時中は5000人以上が働いていたとされる。
朝来地区は静かな農村だったが、火薬廠の建設で地区の46%の土地が強制的に海軍に買収され、住民の生活は一変した。建設地となった田畑や山林は生活の糧であり、多くの人が生業を失った。自身の父親もその一人だった。
記録集で、こんな証言を紹介した。「海軍の将校が突然、朝来村にやってきて、村人を集めて1年以内に神社仏閣も移転せよと命じた。村人が田畑がなくなったら暮らしていけないと訴えたら、『海軍が面倒を見てやる』と答えた」
敗戦後、火薬廠の跡地は放置され、草が生え放題の状態が長年続いた。関本さんはその光景を見るたび、やりきれない思いにとらわれたと振り返る。「海軍が朝来の村で土地の強制買収に乗り出した時、私たちの村では各戸が抱えた借金の返済をようやく終えた時期と聞いています。洪水を繰り返す地元の川を改修するため、20年ローンで村人は国に借金したのです」。そんな状況で土地を奪われた先祖の気持ちを思うと、今も胸が痛む。
府立東舞鶴高を卒業後、舞鶴市内にあった舞鶴海洋気象台などに勤務。60歳の定年を機に、本格的な戦争体験者の聞き取りを始めた。最初に刊行したのは「住民の目線で記録した旧日本海軍第三火薬廠」。200人以上から聞き取りをし、施設図や職員名簿も入手。海軍が使用した爆薬の半分を製造したとの指摘もある第三火薬廠の全体像を明らかにした。
現在、敗戦直前の舞鶴空襲で犠牲となった学徒の慰霊祭の事務局長をはじめ、「平和のための舞鶴の戦争展」の実行委員なども務めている。小中学校での講演も続けている。
「時間の経過とともに戦争を語り継ぐことが難しくなっていると言われるが、戦争の実相を伝える努力を続ければ、必ず人の心に届くと思っています。今後も舞鶴の戦争を記録し、語り続けていきたい」と語った。【塩田敏夫】