■安倍元首相 銃撃1年<上>
安倍晋三・元首相(当時67歳)が参院選の街頭演説中に奈良市で銃撃されて死亡した事件は、8日で発生から1年となる。
事件はこの国の社会や政治に何を突きつけたのか。今なお残る余波と課題を探る。
兵庫県川西市の戸建て住宅。その男は自室に引きこもり、ネットで「山上」と検索していたという。
男は、4月15日、岸田首相が訪れた和歌山市の選挙演説会場で爆発物を投げ込み、威力業務妨害容疑などで逮捕された無職木村隆二容疑者(24)(鑑定留置中)。定職につかず、爆発物を一人で作り、岸田氏を襲撃する機会をうかがっていた。
「山上」とは、昨年7月8日、安倍氏に凶弾を放ち、社会を震撼(しんかん)させた無職山上徹也被告(42)のことだ。
山上被告は、母親(70)が1億円もの献金を重ねた宗教団体「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」に恨みを抱き、教団と「つながりがあると思った」という安倍氏に矛先を向けたとされる。困窮した生活を送り、大学進学を断念、非正規の仕事を転々としていた。教団に翻弄(ほんろう)され、孤立した生い立ちが明らかになると、教団に批判が集まり、高額な寄付を規制する新法が成立した。教団との接点が問題視され、現職大臣が辞任する事態にも発展した。
捜査関係者によると、木村容疑者の携帯型端末には「山上」との検索履歴が残り、こうした社会の動きを追っていたという。逮捕後、黙秘しているが、選挙制度に不満を持ち、事件前には、国に損害賠償を求める訴訟を起こしていた。
わずか9か月間に、元首相と現職首相が相次いで襲われる異常事態。「暴力の連鎖」。そんな言葉が捜査幹部の脳裏に浮かんでいる。
◇ 関係者によると、山上被告は「旧統一教会の名を世に出し、教団をつぶしたかった」との趣旨の話をし、社会の変革を狙った「政治テロ」との見方には否定的な反応を示している。だが、「山上被告は社会を変えた英雄だ」との言説は、ネットの一部で今もくすぶり、暴力で社会に影響を与えようとする事件も続く。
昨年9月、「社会を変える」として米国大使館に火薬を投げ入れようとした男が警視庁に逮捕された。兵庫県警が今年2月に逮捕した男は「山上被告を参考にして作った自作銃で殺す」と明石市長(当時)を脅迫するメールを送っていた。
井上寿一・学習院大教授(日本政治外交史)は今の社会の空気を、要人テロが続いた戦前になぞらえる。
1921年、31歳の男が実業家を刺殺し、自殺した。当時、第1次世界大戦後の不況下にあり、男の遺書から格差是正を訴えたテロとして男を英雄視する見方が広がった。1か月後、事件に影響を受けた男により原敬首相が刺殺された。その後、5・15事件などのテロが続いた。
井上氏は「コロナ禍などで社会に閉塞(へいそく)感が続く中、安倍氏の事件は『暴力の連鎖』の発火点となる可能性がある」と危機感を抱く。
◇ 暴力を肯定することは、自由な言論を前提とした民主主義の否定につながる。
福間良明・立命館大教授(歴史社会学)は「事件と、その背景にある社会問題は分けて考える必要がある。事件を起こさなくても解決手段はあるからだ」と指摘する。その上で、山上被告と木村容疑者が社会的に孤立していた点に着目する。「事件が問いかけたものは、社会から疎外された人にどう向き合うかだ。雇用や教育、孤立の問題を解決する必要がある」と強調する。
安倍氏の事件は裁判員裁判で審理されるが、初公判の見通しはたっていない。
6月12日午後、奈良地裁で予定されていた山上徹也被告(42)(殺人罪などで起訴)の第1回公判前整理手続きが、中止となった。原因はこの日、山上被告の宛名で地裁に届いた段ボール箱。「不審物」として扱われたが、その中身は、山上被告の刑の減軽を求める約1万3600人分の署名の束だった。
送り主(59)も、山上被告と同じ、親が新興宗教を信仰する「宗教2世」だ。学校の活動を制限されるなど生きづらさを感じてきた。山上被告の境遇を知り、ネットで署名活動を始めたという。「暴力は賛成できないけど、事件で宗教2世の問題に光が当たったことも事実だと思う」と語る。
◇ 事件後、多くの2世が声を上げ始めた。「教義に反したら地獄に落ちる」と脅されたり、進学や就職を制限されたり、過酷な実態が認知されるようになった。
厚生労働省は昨年12月、宗教を背景とした児童虐待について、子どもの安全確保のため躊躇(ちゅうちょ)なく一時保護するよう児童相談所などに求める対応指針を初めてまとめた。2世らで結成した一般社団法人「スノードロップ」の代表、夏野ななさん(仮名)は、事件が対策のきっかけになったことに複雑な思いを抱きながら「2世が救われる社会になってほしい」と前向きにとらえている。
だが、2世の救済は容易ではない。子ども自身が被害に気づきにくく、第三者からも見えにくい。読売新聞が全国の児相を対象に実施した調査でも、宗教に関連した虐待の通告・相談は2022年度までの6年間で65件。児相は慢性的な人手不足で、宗教の知識がある職員も少なく、数字は氷山の一角とみられる。現場から「憲法で信教の自由が保障され、明確な暴力などがない場合、判断が難しい」との声が漏れる。
◇ 世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の問題も進んでいない。政府は昨年11月22日、解散命令請求を視野に宗教法人法に基づく質問権を初行使した。それから7か月余り、質問権の行使は6度に及び、長期化を余儀なくされている。
過去に解散命令に至ったのはオウム真理教など2例だけ。いずれも幹部らが刑事事件で摘発されたが、旧統一教会は民事訴訟で組織的な不法行為が認定された事例があるものの、幹部が刑事罰を受けたことはない。悪質性の見極めに時間がかかっているとみられ、6月30日の閣議後会見で、永岡文部科学相は「具体的な証拠、客観的な事実を明らかにするための対応を進める」と述べるにとどめた。
宗教団体などが不安をあおって寄付を勧誘することを禁じる「不当寄付勧誘防止法」も昨年12月に成立した。4月の罰則施行後、5月までに違法の疑いのある情報が48件寄せられた。だが、施行前の行為に適用できず、行政指導や刑事告発について、所管する消費者庁は「慎重な見極めが必要だ」とする。
旧統一教会を巡っては、1980年代に霊感商法などが社会問題化したが、十分な対策が取られず、その後も水面下で被害が続いてきた。全国霊感商法対策弁護士連絡会(全国弁連)の紀藤正樹弁護士は「風化すれば、また被害が繰り返される。『第2の山上被告』を生み出さないためにも、国は事件後に示した対策に実効性を持たせていく必要がある」と強調する。