20年ほど前に病院などの医療関係の世界で登場した「患者様」という言い方。例えば「患者様の立場に立った医療」とか「患者様の安全を守るために」といった使い方のことですが、この「患者様」について、私たち日本語研究者をはじめとする世間の批判を受けて随分減ってきたように思います・それでもまだ時々目にしたり、耳にしたりします。
金沢大学名誉教授で言語学者の加藤和夫さんが「患者様」を深掘りします。
日本語研究者に限らず、「患者様」という言い方に違和感を持つという人は少なくなく、当の医療関係者からも批判の声が聞かれました。例えば、著名な日本語学者、故・金田一春彦さんも著書の中で「患者様」という言葉の問題点を指摘していて、多くの日本語研究者の批判の根拠もほぼ同じです。
「患者様」という言い方が出てきた背景は、2001年11月に、厚生労働省の「医療サービス向上委員会」が『国立病院等における医療サービスの質の向上に関する指針』をまとめ、当時の国立病院に対して「患者の呼称の際、原則として、姓(名)に『様』を付ける」という通達を出したことが始まりとされます。
厚生労働省の通達では、患者の姓(名)を呼ぶときに「〇〇(名前)さん」ではなく「〇〇(名前)様」と呼ぶことを求めたのであって、「患者」に「様」を付けることを求めてはいなかったのです。
しかし、病院側の過剰な反応によって、「患者」にまで「様」を付けるようにしてしまったという訳です。病院側としては、医療サービス向上のために患者に対する応対や言葉遣いをできるかぎり改善しようと考えて「患者様」に改めたのだろうと考えられています。
また、接客のコンサルタントが病院に「患者様」の使用を勧めていたという事情などもあったといわれています。しかし、当時から「患者様」と呼ばれた患者さんたち自身からも、「患者様」は変な呼び方だ、違和感があるという意見も聞かれた訳です。それでは、どこが変なのでしょうか。
まず「患者」という呼び方は尊敬表現にはなじまないものだということがあります。この言葉自体に患っている人という良くない印象がありますから、いくら「様」を付けても相手の患者にとっては尊敬された感じがしない、かえって小馬鹿にされたような気持ちになる、というわけです。そういう点では「さん」も同じです。
「患者さん」は耳慣れてしまったから、あまり違和感がありませんが、相手に向かって「病人さん」「急患さん」「負傷者さん」とは言わないでしょう
病院関係以外の言葉でも、相手に向かって「犯人さん」「被疑者さん」「失業者さん」などと呼んだらやはり変です。こういう呼び方は、相手に対しては使わないものです。さらに言うと「患者さん」は違和感がないのに、「患者様」はどうして変なのか。これは「様」になると敬意が「さん」より一段と高くなるからです。敬語を尊敬の度合いだけで考えていてはいけないのです。
尊敬の度合いがより高いのは「患者様」の方ですが、それは相手との距離をより隔てるということでもあるのです。つまり「様」を付けると病院側と患者との距離をより隔てることになります。
それに対して「さん」は両者の隔たりがより少なく親しみの度合いが強くなります。患者は個人個人が病院を訪れているのですから、病院側から「さん」付けで呼ばれると、親しみを込めて尊敬されていると受け取れますが、「様」を付けて呼ばれると尊敬されているというよりも、公的にあるいは冷たく突き放されているように感じます。
この問題は新聞、雑誌などにも取り上げられ、日本語の専門家は先に挙げたような理由から、こぞって批判しましたので、あちこちの病院で「患者さん」に戻し始められています。しかし、いまだに「患者様」を病院、薬局のHPや掲示等で見かけることあります。「患者様」といった言い方に違和感を覚えずに簡単に使ってしまう裏に、実は「患者」の気持ちや日本語の意味を深く考えられていない鈍感さが見えてしまうのです。
・加藤和夫福井県生まれ。言語学者。金沢大学名誉教授。北陸の方言について長年研究。MROラジオで、方言や日本語に関する様々な話題を発信している。