大学生のときに異母きょうだいの存在を知った芽衣さん(仮名)(写真:筆者撮影)
いつの間にか自分にきょうだいが生まれていたとわかったら、あなたならどう思うでしょうか。“同じ敵をもつ仲間”と思い、同情すらしていた父親に、実は前から女性がいて、子どもまでいたと知ったら。
ヒステリックな母親のもと、いつも親の顔色をうかがいながら過ごしてきた芽衣さん(仮名)は、大学生のときに異母きょうだいの存在を知りました。これまで20年あまり信じてきたものは何だったのか? 「すべてが崩れた」ように感じられたといいます。
友人が多く、勉強もでき、数年前には新卒で希望の仕事に就いた自身を「恵まれている」と感じながらも、芽衣さんは「いつまでも暖簾に腕押ししているような感覚」だといいます。心に空いた穴はいまもふさがりません。
日曜の午後、買い物客で賑わう都心の喫茶店で、お話を聞かせてもらいました。
毎晩、リビングからは怒鳴り声が聞こえていました。両親の仲が悪くなったのは、芽衣さんが小学校にあがった頃からだったと記憶しています。芽衣さんは、双方から互いの悪口を聞かされて育ちました。
「養っているのは俺だ」と父が言えば、「あなたが言ったから会社を辞めたのに、なんでそんなに偉そうなのか」と母が言い返す。不仲の根っこには、結婚時に父が母に押しつけた性別役割分業もあったようです。
「母も自分の非を認めない性格だし、父も家のなかのことを取り仕切っている母親を認める姿勢を見せることなく、ただお互いに罵りあっているので、なんだかなって思っていました。言いたいことだけ言って解決に進まない、みたいな喧嘩でした」
母親はつねに不機嫌でした。芽衣さんが自分の思いどおりにならないと「なんでこんなことができないの?」と怒鳴り続け、ときには手をあげることも。真冬なのに、薄着のまま1時間外に出されたときは、近所の人たちに心配されてちょっとした騒ぎになりました。
「ストレスのはけ口に私を使っている、みたいな感じです。姉もたぶん詰められたり、理不尽に怒られたりしていたと思うんですけれど、手をあげられているのは見たことがない。姉は割と気が強くて、たぶん私が一番おとなしいからターゲットになっていました」
一方の父親は、母親の悪口は言うものの「芽衣も大変だよな」という態度でした。助けてくれることもなかったのですが、「父と私は母が嫌い」という共通認識のもと、「なんとなく連帯していた」といいます。
父親がときどき家に帰らなくなったのは、芽衣さんが中学生になった頃でした。「残業で終電に間に合わないから、カプセルホテルに泊まる」と連絡を入れてくる父の言葉をそのまま信じ、「すごく忙しいんだな」と当時は思っていたそう。
高校時代、母からの八つ当たりが減ったのは、祖父との同居がきっかけでした。故郷で一人暮らししていた病気の父親を呼び寄せてから、母があまり怒鳴らなくなったのです。でも、芽衣さんの居心地がよくなったわけではありませんでした。
「家にいると、みんなイライラしているんです。両親は仲が悪くて、母はパートの仕事と祖父の介護で疲れているし、姉も当時は進路が決まらなくてイライラしている。だから家事は私もかなりやっていました。友達はいたけど、学校は遠かったしあまり面白くなくて。家にいても学校に行ってもしんどい、みたいになっちゃって……」
高2になると、学校に行かない日が増えました。朝、家を出ると隣駅のマックで時間をつぶし、両親が出かけた頃に帰るのです。祖父はこの頃入院していたため、芽衣さんは家で一人に。その時間が「すごく息抜きだった」といいます。
「高校をやめたい」と伝えたところ、母親は「絶対にやめさせない」「やめるなら死ね」と反対しました。「こんなにいい学校に通わせてやっているのに、やめるなんてバカじゃないか」と腹を立て、なぜ彼女がそこまで思い詰めたのか耳を傾けることはなかったそう。
退学せずに済んだのは、担任の先生のおかげだったようです。三者面談で家庭環境を話したところ、ひどく心配した担任が「1週間学校を休んでいい。欠席扱いにしないので、ゆっくりしてからまた考え直して」と言ってくれたのです。高3のとき「明らかに自分が仲のいい子しかいないクラス」になったのも、担任のはからいだったのでしょう。
「私の状況を把握してくれた、ということが大きくて。近くに寄っては来ないけど、そういう、ふんわりと優しい対応をしてくれたので。『学校行くか』みたいになって、ときどきは休んでましたけど、一応ふつうに卒業はしました」
父親がついに家に帰らなくなったのは、大学1年の秋でした。母親との暮らしが限界だったのだろうと当時は思っていたのですが、後でわかったところ、それは不倫相手に子どもが生まれた時期でした。
でも当時はそんなことは思いもよらず、芽衣さんは父親と連絡を取り合い、ときどきご飯を食べに行ったり、スポーツの試合の観戦に行ったりしていたそう。
大学4年の夏、母親から「ちょっと話がある」と呼び出され、真剣な顔で見せられたのは父親の戸籍の写しでした。離婚調停を申し立てるために、母親が取り寄せたものです。そこには「認知」という文字とともに、知らない子どもの名前が書かれていました。
「『え?』みたいな感じです。母は不倫には薄々気づいていたと思うんですけれど、子どもの存在は、母も知らなかったみたいです」
このとき、もう一つ衝撃を受けたことがありました。用紙に記載された子どもの名前が、芽衣さんと一字違いの、一目できょうだいとわかるものだったことです。
「嫌でしたね。子どもが生まれちゃって、そういうことになったのはどうしようもないとしても、なんでそんな名前をつけたんだろうって。私たちに言えない子どもに、こんなそっくりの名前をつけて、どういうマインドなのかまったく理解できない。どういう気持ちで、この子の名前を呼んで暮らしているんだろう、というのが衝撃でした」
それはおそらく父親としては、いつか事実が露呈したときのせめてもの罪滅ぼしというか、芽衣さんに愛情を示したくての命名だったのでは……と筆者は思うのですが。以前取材で、やや似た話を聞いたからです。でも芽衣さんは「それは絶対ない」とのこと。
不幸中の幸いだったのは、このときすでに、芽衣さんの就職活動が終わっていたことでした。原因ははっきりしないのですが、芽衣さんはその後まもなく、外に出られなくなってしまったからです。
「知ってからしばらくは何ともなかったんですが、翌月くらいから急に肩が凝るし、挙動不審になっちゃって。電車に乗ると、周りの人がみんな自分より優れて見えて、乗っている人全員が私のことをバカにしているように思えてしまう。人としゃべっていても、相手が自分のコンプレックスを見ている、みたいに感じる。とにかく怖くなっちゃって、バイトも行けなくなり、内定式があった秋口まで本当に引きこもっていました」
おそらく父親のことで受けた衝撃が大きすぎて、体調に影響が出たのではないか、といまでは思っているそう。
父親への怒りが大きすぎたのでは? と尋ねたところ、怒りとは少し違う感情だったといいます。
「腹が立つというか、(異母きょうだいのことを)知るまでの20年間、ずっと父のことはなんとなく『同じ敵を持つ仲間だ』みたいな感情だったので、その全体が崩れてしまった。異母きょうだいがいた事実にショックを受けたというよりは、父がそんな巨大なうそをついていたことに対する悲しい気持ち。家族ってなんだろう? 信じてたものってなんだろう? という感じです」
その後、父親と会ったのは一度きりです。就職が決まったお祝いで、いっしょに食事に行ったのですが、芽衣さんは何も知らないふりをしつつ「この人はいま、どういう感情で自分と会っているんだろう?」と、ずっと考えてしまったそう。
「(父の不倫を知っても)母への同情はまったくないです。私が小さい頃から父は離婚したがっていたのに、母は子どもをタテマエに離婚に応じなかったですし、何より私にずっときつく当たってきたことを今でも許せていないので。若干自業自得、と言ったらひどいですが、『もっと早めに手を打っておけばよかったじゃん』とは思います」
母親とも、就職して家を出てからは一度も会っていません。しつこく連絡を受けたこともありましたが、「もう連絡をとるつもりはないので、放っておいてほしい」とはっきり伝えてからは「実害はない」といいます。
「ただ、最近また電話がかかってきて。『ずっと追いかけられるのか』みたいな気持ちもあります。『母が死ぬまで、怯えて暮らさなきゃいけないのかな』と。母に対しては『かかわらないでほしい』っていう気持ちが強いですね」
父に対しては「別にどうでもいい」とのこと。かかわってもいい? と筆者が尋ねると、否定はしなかったものの、
「でも、いまさらどうかかわるんですかね。謝ってほしいとは、まったく思っていないです。ただ、一生罪悪感を抱えて生きてほしいな、とは思います」
芽衣さんが謝ってほしいと思わなくても、父親は芽衣さんと姉に、全身全霊で謝らなければならないだろうと筆者は思います。
冒頭にも書いたように、芽衣さんの心はいまも満たされることがありません。
「行きたい学校にも行けたし、就活も第一希望に運よく決まって、友達もたくさんいるし、いろいろ『恵まれてるな』とは思うんですよね。自分で言うのも変ですが、苦労していろいろ手に入れてきたと思う。
でも、実感がないんです。自分が本当に欲しいものが、いつまでも手に入れられていない感じがする。失敗しても誰かが見てくれる、みたいなものが私はないから、たぶん安心していないんですよね」
小さい頃から人の顔色をうかがって生きてきたので、「自分がこういうことをしたら嫌われるだろうか」とつねに考えてしまう癖も抜けません。いつも気を張っているので、リラックスした気持ちでやりたいことに飛び込んでいける人が、すごくうらやましいのだそう。
あまりポジティブに「結婚したい」「子どもが欲しい」と思えないことも、これまで体験してきたことの影響です。結婚したい気持ちもあるものの、式に親を呼びたくないし、もし結婚しても子どもは欲しくない気がする、といいます。
この連載の一覧はこちら
「虐待されてきた子どもは将来虐待してしまう、みたいな言説があるじゃないですか。あれを見るたびに傷つきますね。わからんでもないなとは思うんですけれど。母の両親も離婚していて、母もたぶん『そうはならないぞ』と思って、結婚して子どもを育ててきたと思うんですけれど、私はその被害にあったわけで」
虐待されて育って、実際に虐待してしまう人もいれば、しない人も少なからずいる。そのことも取材者として伝えていかねばと感じます。
ちょっとほっとしたのが、お姉さんについての話です。
「私の場合、似た気持ちをずっと共有してきた姉がいたことはよかったと思います。姉がいなかったら本当に、いま生きていないと思う。子どもの頃は仲良くなかったんですが、大人になってからはめちゃくちゃ仲が良くて、いまも毎日連絡を取っています」
ただし、姉にもいま芽衣さんが住んでいる場所は教えていません。姉はいまでも母とよく会っているので、姉から母に芽衣さんの居場所が伝わることを避けたいからです。
傍目に恵まれた人生を送っていても、芽衣さん自身の気持ちが晴れないことには意味がない。もどかしいな。筆者のそんな思いを、彼女は察したのでしょう。
「友達にも、なんで芽衣はそんなに自信ないの? って言われます。もっと調子に乗ってもいいじゃんって」
そう、調子に乗ってくれたらどんなにいいか。本当にそう思います。
取材を終えて店を出ると、陽は少し傾いていました。楽しそうでもなく、ふさぎこむ風でもなく、芽衣さんは静かに東京の街を歩いていきました。
本連載では、いろいろな形の家族や環境で育った子どもの立場の方のお話をお待ちしております。周囲から「かわいそう」または「幸せそう」と思われていたけれど、実際は異なる思いを抱いていたという方。おおまかな内容を、こちらのフォームよりご連絡ください。
(大塚 玲子 : ノンフィクションライター)