2016年、大阪市に日本初の民間小児ホスピス「TSURUMIこどもホスピス」が誕生した。「TSURUMIこどもホスピス」では、難病の子供に苦しい治療を強いるのではなく、短い時間であっても治療から離れ、家族や友人と笑い合って生涯忘れえぬ思い出を作る手助けをしている。そしてこの施設の立ち上げには、命に限りのある子供たちの尊厳を守るために、多くの人々が携わっていた。
【写真】この記事の写真を見る(5枚) ここでは、民間の小児ホスピスをつくるために奮闘した人々の記録を綴ったノンフィクション作家・石井光太氏の著書『こどもホスピスの奇跡』(新潮文庫)より一部を抜粋。ホスピスの設立に尽力した医師・原純一氏が、若き日に小児科医として直面していた現実を紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)◆◆◆医学が進んでも小児がんの子供の3割は命を落としている 原が医師になったばかりの頃、小児がんの生存率は5割ほどと言われていた。現在は抗がん剤や副作用を抑える抗生剤が良くなったことで、7割にまで上がったものの、逆に言えば3割の子供は命を落としているのが現状だ。写真はイメージです iStock.com ある程度の症例数をこなした医師であれば、どこかの段階でこの患者は治らないとわかるものだ。手術で腫瘍(しゅよう)をすべて取り除くことができず、抗がん剤や放射線治療でも期待していた効果が現れない。こうなれば、がんが転移し、子供が衰弱していくのを見守るしかない。患者を助けられないのは恥ずべきことだと思い込んでいた 原は言う。「医者をやっていると、打つ手がなくなって患者さんの命がどうにもならない領域に入ったことがわかります。医者の手から離れて、どんどん死に向かって流されていく。医学の力でもどうにもできません。 僕は若い頃、医者が患者を助けられないのは恥ずべきことと思い込んでいました。どれだけ手を尽くしたかなんて関係ない。助けられなければ、医学的には負けなんです。結局は医者に力がなかったということにしかならない。 医者はそういう容態になったのを見ると、敗北感に打ちひしがれたものです。患者さんや家族に申し訳なくて顔を合わせるのが怖かった。病室に入れなくなったこともあった。それでも公然と負けを認めるわけにはいかないので、最後まで延命治療をつづけるより仕方がないのです」緩和ケアという言葉すらなく延命させるしかなかった頃 治療が八方ふさがりになっても、医師が白旗を揚げることは許されず、命の炎が消えるまで手を尽くさなければならなかった。余命宣告はせず、全身にチューブをつけて栄養や薬品を大量に注入し、せん妄(意識障害)が現れても「がんばれ!」と言いつづける。「弱って飲食ができないのに無理やり点滴をすると、患者さんの体は水がたまって変形していくんですよ。栄養や薬を吸収することができないんです。体はむくみ、肌も変色します。 あの当時は緩和ケアという言葉すらなかったので、『痛みを極力抑えて静かに看取(みと)りましょう』なんて提言はできませんでした。だから、最期(さいご)の最期まで患者が苦しむのをわかっていながら、延命させるしかなかったんです」 緩和ケアには鎮痛剤等が必要だが、そうした薬もほとんどなかった。1989年になってようやくモルヒネ系の鎮痛剤である「MSコンチン」が発売されたが、2時間しか効果が持続しない上に、成人用の製品しか販売されていなかった。 日本で緩和用の薬が本格的に流通しだしたのは、2000年代以降で、小児用の薬はさらに後だった。小児用の薬が製造されなかった背景には、小児がんの発生数が少ないことがある。製薬会社からすれば開発したところでほとんど利益にならないため、後回しにされたのだ。また、子供にはモルヒネをつかってはいけないという風潮も根強かった。 こうした状況の中では、親の方も最後まであきらめずに治療を望むのが当然だった。親にしてみれば、医師から絶対に助からないとつげられない限り、なんとかわが子を治してもらいたいと思う。手術を受けても1、2カ月の命だった幼児 阪大病院時代のことで原が覚えているのは、白血病に侵された1歳の女の子だ。原は幼い女の子の体に鞭(むち)を打つように過酷な治療をつづけたものの、死が不可避なものとして面前に迫ってきた。治療をしてもしなくても、1、2カ月の命であることは明らかだった。 30代の両親は抗がん剤が効かないとわかると、最終手段として兵庫医科大学病院へ行って骨髄移植を受けさせたいと言いだした。だが、女の子の年齢や病状を考えれば、手術を受けたところで快復の見込みはない。むしろ体力をムダに奪うだけだ。 原は両親に思い切ってそれを伝えた。両親にしてみれば、すんなり受け入れられるはずがなかった。「うちら、絶対にあきらめられません! 何としてでもこの子を救いたいんです。だから、移植手術をさせます!」 両親は女の子を兵庫医科大学病院へ移し、骨髄移植の手術を受けさせた。しかし、1カ月後に女の子はこの世を去った。子供たちは大人を恨んで死んでいった このように、重度のがんになった子供たちの多くは、息絶える直前まで体にメスを入れられ、抗がん剤を投与されるのが通例だった。原が担当した子供たちもそうだった。 原はこうした子供たちの話になると、天を仰ぐようにして語る。「子供たちは大人を恨んで死んでいきました……。うちは黙って言うことを聞いてがんばったのに、なぜ死ななければならんのや、なんでこんなになるまで『治る』『がんばれ』って言ってだましたんやって眼差(まなざ)しで医者を見つめてくる。親に対してもそうです。 子供にしてみれば、そりゃそうですよね。あれだけ真実を隠されて、あれこれ規則でがんじがらめにされて、何年にもわたって苦しい思いをさせられたのに、病名さえつげられないまま助けてもらえない。恨むのは当たり前なんです。 あの子たちの恨みがましい目は今でも脳裏に焼きついています。一生離れないでしょう。僕としてはそれが悔しくて、今度こそ絶対にがんを治すと心に誓って治療に励むんですが、やっぱりどうやっても助けられない子が出てくる。2、3人のうち1人はそうなんです。 僕は医者っていうのはなんて孤独な仕事なんだろうと思っていました。これが医者の役割なんやろうか。ほんまに家族にとっていいことをしているんやろうか。ずっとそう自問自答していました」親にとって医者は「子供を殺した人間」だった 病室で原に恨めしそうな目を向けたのは、死んでいく子供だけではなかった。医師を信じてついてきた両親やきょうだいも同じだった。 彼らは24時間付き添いを強いられ、夫婦仲が壊れても、親子関係が悪くなっても、貯金が底をついても、子供の命を救ってもらいたいという一心で治療に協力した。 それなのに、子供は苦しむだけ苦しんで息を引き取る。遺体を抱きかかえて家に帰ったところで、日常にもどれるわけなどない。闘病に明け暮れたので、子供との楽しい記憶さえない。 家族の中には医師に怒りをぶつける者もいた。ある親はこう叫んだ。「先生が、治してくれるんやなかったんですか! なぜ死なせたんですか!」 原は返す言葉が見つからず、逃げるようにその場を離れることしかできなかった。 彼は言う。「あの時代は、医者が遺族と連絡をとったり、会ったりということはありえませんでした。患者が亡くなった時点で、親は医者を『子供を殺した人間』という目で見てきましたし、医者の方も力不足で死なせてしまったという罪悪感でいっぱいでした。医者は敗北者なんです。だから、遺族に顔向けできず、関係を断ち切るというのが普通だったんです」 安道照子はNPO法人エスビューローを立ち上げる際、原の協力を得ることになる。その時、後に離婚する夫からは「なんで息子を殺した医者と仲良くするんや!」と非難されたという。遺族にとって、医師は憎むべき相手だったのである。(#2へ続く)3歳男児が“小児がん”で入院、医者は「数カ月の命やと思います」と…息子の余命宣告を受けた両親が、自宅で子供を看取った理由 へ続く(石井 光太/Webオリジナル(外部転載))
ここでは、民間の小児ホスピスをつくるために奮闘した人々の記録を綴ったノンフィクション作家・石井光太氏の著書『こどもホスピスの奇跡』(新潮文庫)より一部を抜粋。ホスピスの設立に尽力した医師・原純一氏が、若き日に小児科医として直面していた現実を紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)
◆◆◆
原が医師になったばかりの頃、小児がんの生存率は5割ほどと言われていた。現在は抗がん剤や副作用を抑える抗生剤が良くなったことで、7割にまで上がったものの、逆に言えば3割の子供は命を落としているのが現状だ。
写真はイメージです iStock.com
ある程度の症例数をこなした医師であれば、どこかの段階でこの患者は治らないとわかるものだ。手術で腫瘍(しゅよう)をすべて取り除くことができず、抗がん剤や放射線治療でも期待していた効果が現れない。こうなれば、がんが転移し、子供が衰弱していくのを見守るしかない。
原は言う。
「医者をやっていると、打つ手がなくなって患者さんの命がどうにもならない領域に入ったことがわかります。医者の手から離れて、どんどん死に向かって流されていく。医学の力でもどうにもできません。
僕は若い頃、医者が患者を助けられないのは恥ずべきことと思い込んでいました。どれだけ手を尽くしたかなんて関係ない。助けられなければ、医学的には負けなんです。結局は医者に力がなかったということにしかならない。
医者はそういう容態になったのを見ると、敗北感に打ちひしがれたものです。患者さんや家族に申し訳なくて顔を合わせるのが怖かった。病室に入れなくなったこともあった。それでも公然と負けを認めるわけにはいかないので、最後まで延命治療をつづけるより仕方がないのです」
治療が八方ふさがりになっても、医師が白旗を揚げることは許されず、命の炎が消えるまで手を尽くさなければならなかった。余命宣告はせず、全身にチューブをつけて栄養や薬品を大量に注入し、せん妄(意識障害)が現れても「がんばれ!」と言いつづける。
「弱って飲食ができないのに無理やり点滴をすると、患者さんの体は水がたまって変形していくんですよ。栄養や薬を吸収することができないんです。体はむくみ、肌も変色します。
あの当時は緩和ケアという言葉すらなかったので、『痛みを極力抑えて静かに看取(みと)りましょう』なんて提言はできませんでした。だから、最期(さいご)の最期まで患者が苦しむのをわかっていながら、延命させるしかなかったんです」
緩和ケアには鎮痛剤等が必要だが、そうした薬もほとんどなかった。1989年になってようやくモルヒネ系の鎮痛剤である「MSコンチン」が発売されたが、2時間しか効果が持続しない上に、成人用の製品しか販売されていなかった。
日本で緩和用の薬が本格的に流通しだしたのは、2000年代以降で、小児用の薬はさらに後だった。小児用の薬が製造されなかった背景には、小児がんの発生数が少ないことがある。製薬会社からすれば開発したところでほとんど利益にならないため、後回しにされたのだ。また、子供にはモルヒネをつかってはいけないという風潮も根強かった。
こうした状況の中では、親の方も最後まであきらめずに治療を望むのが当然だった。親にしてみれば、医師から絶対に助からないとつげられない限り、なんとかわが子を治してもらいたいと思う。
阪大病院時代のことで原が覚えているのは、白血病に侵された1歳の女の子だ。原は幼い女の子の体に鞭(むち)を打つように過酷な治療をつづけたものの、死が不可避なものとして面前に迫ってきた。治療をしてもしなくても、1、2カ月の命であることは明らかだった。
30代の両親は抗がん剤が効かないとわかると、最終手段として兵庫医科大学病院へ行って骨髄移植を受けさせたいと言いだした。だが、女の子の年齢や病状を考えれば、手術を受けたところで快復の見込みはない。むしろ体力をムダに奪うだけだ。
原は両親に思い切ってそれを伝えた。両親にしてみれば、すんなり受け入れられるはずがなかった。
「うちら、絶対にあきらめられません! 何としてでもこの子を救いたいんです。だから、移植手術をさせます!」
両親は女の子を兵庫医科大学病院へ移し、骨髄移植の手術を受けさせた。しかし、1カ月後に女の子はこの世を去った。
このように、重度のがんになった子供たちの多くは、息絶える直前まで体にメスを入れられ、抗がん剤を投与されるのが通例だった。原が担当した子供たちもそうだった。
原はこうした子供たちの話になると、天を仰ぐようにして語る。「子供たちは大人を恨んで死んでいきました……。うちは黙って言うことを聞いてがんばったのに、なぜ死ななければならんのや、なんでこんなになるまで『治る』『がんばれ』って言ってだましたんやって眼差(まなざ)しで医者を見つめてくる。親に対してもそうです。 子供にしてみれば、そりゃそうですよね。あれだけ真実を隠されて、あれこれ規則でがんじがらめにされて、何年にもわたって苦しい思いをさせられたのに、病名さえつげられないまま助けてもらえない。恨むのは当たり前なんです。 あの子たちの恨みがましい目は今でも脳裏に焼きついています。一生離れないでしょう。僕としてはそれが悔しくて、今度こそ絶対にがんを治すと心に誓って治療に励むんですが、やっぱりどうやっても助けられない子が出てくる。2、3人のうち1人はそうなんです。 僕は医者っていうのはなんて孤独な仕事なんだろうと思っていました。これが医者の役割なんやろうか。ほんまに家族にとっていいことをしているんやろうか。ずっとそう自問自答していました」親にとって医者は「子供を殺した人間」だった 病室で原に恨めしそうな目を向けたのは、死んでいく子供だけではなかった。医師を信じてついてきた両親やきょうだいも同じだった。 彼らは24時間付き添いを強いられ、夫婦仲が壊れても、親子関係が悪くなっても、貯金が底をついても、子供の命を救ってもらいたいという一心で治療に協力した。 それなのに、子供は苦しむだけ苦しんで息を引き取る。遺体を抱きかかえて家に帰ったところで、日常にもどれるわけなどない。闘病に明け暮れたので、子供との楽しい記憶さえない。 家族の中には医師に怒りをぶつける者もいた。ある親はこう叫んだ。「先生が、治してくれるんやなかったんですか! なぜ死なせたんですか!」 原は返す言葉が見つからず、逃げるようにその場を離れることしかできなかった。 彼は言う。「あの時代は、医者が遺族と連絡をとったり、会ったりということはありえませんでした。患者が亡くなった時点で、親は医者を『子供を殺した人間』という目で見てきましたし、医者の方も力不足で死なせてしまったという罪悪感でいっぱいでした。医者は敗北者なんです。だから、遺族に顔向けできず、関係を断ち切るというのが普通だったんです」 安道照子はNPO法人エスビューローを立ち上げる際、原の協力を得ることになる。その時、後に離婚する夫からは「なんで息子を殺した医者と仲良くするんや!」と非難されたという。遺族にとって、医師は憎むべき相手だったのである。(#2へ続く)3歳男児が“小児がん”で入院、医者は「数カ月の命やと思います」と…息子の余命宣告を受けた両親が、自宅で子供を看取った理由 へ続く(石井 光太/Webオリジナル(外部転載))
原はこうした子供たちの話になると、天を仰ぐようにして語る。
「子供たちは大人を恨んで死んでいきました……。うちは黙って言うことを聞いてがんばったのに、なぜ死ななければならんのや、なんでこんなになるまで『治る』『がんばれ』って言ってだましたんやって眼差(まなざ)しで医者を見つめてくる。親に対してもそうです。
子供にしてみれば、そりゃそうですよね。あれだけ真実を隠されて、あれこれ規則でがんじがらめにされて、何年にもわたって苦しい思いをさせられたのに、病名さえつげられないまま助けてもらえない。恨むのは当たり前なんです。
あの子たちの恨みがましい目は今でも脳裏に焼きついています。一生離れないでしょう。僕としてはそれが悔しくて、今度こそ絶対にがんを治すと心に誓って治療に励むんですが、やっぱりどうやっても助けられない子が出てくる。2、3人のうち1人はそうなんです。
僕は医者っていうのはなんて孤独な仕事なんだろうと思っていました。これが医者の役割なんやろうか。ほんまに家族にとっていいことをしているんやろうか。ずっとそう自問自答していました」
病室で原に恨めしそうな目を向けたのは、死んでいく子供だけではなかった。医師を信じてついてきた両親やきょうだいも同じだった。
彼らは24時間付き添いを強いられ、夫婦仲が壊れても、親子関係が悪くなっても、貯金が底をついても、子供の命を救ってもらいたいという一心で治療に協力した。
それなのに、子供は苦しむだけ苦しんで息を引き取る。遺体を抱きかかえて家に帰ったところで、日常にもどれるわけなどない。闘病に明け暮れたので、子供との楽しい記憶さえない。
家族の中には医師に怒りをぶつける者もいた。ある親はこう叫んだ。
「先生が、治してくれるんやなかったんですか! なぜ死なせたんですか!」
原は返す言葉が見つからず、逃げるようにその場を離れることしかできなかった。
彼は言う。
「あの時代は、医者が遺族と連絡をとったり、会ったりということはありえませんでした。患者が亡くなった時点で、親は医者を『子供を殺した人間』という目で見てきましたし、医者の方も力不足で死なせてしまったという罪悪感でいっぱいでした。医者は敗北者なんです。だから、遺族に顔向けできず、関係を断ち切るというのが普通だったんです」
安道照子はNPO法人エスビューローを立ち上げる際、原の協力を得ることになる。その時、後に離婚する夫からは「なんで息子を殺した医者と仲良くするんや!」と非難されたという。遺族にとって、医師は憎むべき相手だったのである。(#2へ続く)
3歳男児が“小児がん”で入院、医者は「数カ月の命やと思います」と…息子の余命宣告を受けた両親が、自宅で子供を看取った理由 へ続く
(石井 光太/Webオリジナル(外部転載))