テレビや新聞に加え、SNSやネットニュースの隆盛で、私たちがふだん目にする情報は飛躍的に増えた。一方で、ネットに溢(あふ)れる情報を鵜呑みにして炎上したり批判を浴びたり、陰謀論に飲み込まれたりする人も散見される。
洪水のように大量に降り注ぐ情報と、我々はどのように向き合えばいいのか? 政治のメディア戦略をはじめ、幅広い分野に着目し、「論破王」西村博之(46)と舌戦を繰り広げたことでも注目を浴びた、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授の西田亮介氏(39)に聞いた。
――ネット上に氾濫する情報と正しく向き合うために、何が必要か。
ひとつ言えるのは、「人間なんて所詮そんなもの」と割り切る感覚でしょうか。考えがブレたり、偏ったり、怒ったり……。人間にはプリミティブ(原始的)な人間の感情の機微(きび)があることを受け入れることが、大切なんじゃないでしょうか。
今も昔も人間の最大可処分時間は1日24時間で、自由に何かできる時間はそれほど変化しておらず、人間の認知能力もそれほど進化はしていないでしょう。「昔の人のほうが情報の取捨選択に長けていた」なんてことはないはずで、数十年前の人にスマホやPCを渡しても、同じような悩みやハードルにぶち当たっていたはずです。
では、昔と何が変わったのか。みんながバラバラに「不安」を抱えながら情報を得て、さらにその不安に突き動かされて情報を求める時代になった気がします。昔は、流行りのテレビ番組や音楽を押さえておけば、明日の学校や職場での話題についていけました。新聞や雑誌もそういうものでした。でも、今はそういう「押さえておけば大丈夫」な情報が少なくなりました。
就職もそうです。「いい会社に入りたい」と思っても、どういう会社が「いい」のか、よくわかりません。昔の基準で見た「いい会社」に入ったところで潰れてしまうかもしれない。銀行とか、かつての家電メーカーとか、「この会社なら安泰」となんとなくわかっていて、実際にそれほど間違えずに済んだ時代は「安心の程度が高かった」社会といえます。まあ、そういう社会はいったん失敗すると大変なことになるのですが。
そして、ただ情報を摂取しているだけでは不安は解消しません。みなさんもSNSのタイムラインをせっせと眺めていらっしゃるでしょうけど、どうでしょうか。おそらく流れてくる情報も、入手できる情報も絶対量は増えているけれども、情報を咀嚼(そしゃく)して、活かせている人の割合はそれほど変わらないのではないでしょうか。
新しい情報を得たら、それが正しいか正しくないかだけでも判断しなくてはならないので、インプット量だけを増やしても手元に「不安なデータ」が溜まっていって、ますます不安に覆われるという悪循環に陥ってしまう気がします。
こうした状況の中で「客観的でありたい」「中立的でありたい」と考える若い人が増えている印象があります。でも僕は、「人間はもとから偏っている」ということを思い出すべきだと思います。中立であるということも、ひとつの立場の選択ですしね。
――「論破」という言葉がネット上に溢れている。その震源地は間違いなく、ひろゆきの言動にある。「ひろゆきフォロワー」が増えるのはなぜなのか、そして「論破」は実際に流行しているのか。
「論破芸」はいまの時代を象徴していると思っています。例えば僕が誰かを論破しても誰も喜ばないと思うんですよ。ひろゆきさんが論破するから、みんな喜ぶわけでしょう? 理由を考えてみくてください……ぼくはそれなりに有名な大学の教員ですから、なんとなく権威っぽい感じがするかもしれません。ついでにイヤミっぽくて感じも悪いし、にこやかでもありません(笑)。「モノ知りで当たり前」「議論に強くて当たり前」と多くの人が考えたとしてもおかしくありませんが、ひろゆきさんは違います。
ひろゆきさんは、今の時代に不満を抱えている若者たちの、ある種の成功譚(せいこうたん)なんですよ。権威はないけれど、ネットビジネスで成功して、もう働かなくてもいいくらいおカネがあって「好きなことだけやってればいい」とご本人は仰ってます。僕もちょっと羨ましい(笑)。そんな彼が、テレビに出てくる良識派やら権威やらをばったばったと薙ぎ倒していくように見える。
ちなみにですが、テクニカルな話をすると、彼は多くの場合、質問する立場に回っています。彼は回答を迫る側であって、迫られる側に回ることはほぼないんですよ。よく見ると議論にもなっていない。無意味な時間が流れているだけなんです。だけど、マトモな人ほどひろゆきの質問と向き合ってしまう。大学教員とか政治家とか。それでも、怒ったり不貞腐(ふてくさ)れたりした表情が少しでも録れたら「論破」、ひろゆきさんの勝ちなわけですよね。十分喝采なわけです。
あとテレビ界にはキビしいルールがあって、仮にうまく論破に至らなかったとしても、「MCがゲストに負けない」編集や演出になるんですよ。MCがボコボコにされてしまったら、番組として格好がつかないですからね。テロップやアングル等でどうにでもなります。
結論を言えば、「論破」ではなく「ひろゆきさんによる論破」が流行っているだけです。むしろ、世間的には「論破」は下火になっている印象です。
昔は「激論!」みたいに銘打った討論番組も盛んでしたが、今はほとんどないか、お年寄りが見るような時間帯か、BSなんかに動かされてしまいました。理由は簡単で、その手の企画で数字が取れなくなったからでしょう。
最近のネット番組の「討論」は、総じてリスペクトありきなのか「このアイディア、いいですよね」「そうですよね」とか、登壇者同士でコンセンサス(同意)を得るようなものが大半です。和気藹々(わきあいあい)と「そうだね」と言っているだけの番組は、平成の討論番組を観ていた身からしたら、眠くて仕方ないのですが、そういうものが流行っているわけですから、まさに時代が変わったということなのだと思います。論破ブームの対極です。