京都を訪れる外国人にも人気が高い「保津川下り」の事故から2週間が経つ。亡くなった船頭二人は川を熟知した“プロ集団”に属していた。いにしえから水と運命を共にしてきた人々の知られざる日常とは。
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【写真を見る】転覆事故で亡くなった関雅有さん 父親も同じく事故で命を落としている 3月28日、京都府亀岡市から京都市嵐山までの16キロを結ぶ「保津川下り」で、乗客25人と船頭4人の計29人を乗せた全長12メートルの遊覧船が転覆した。乗客は全員無事だったが、それぞれ約20年の船頭歴を誇る田中三郎さん(51)と関雅有(まさくに)さん(40)が亡くなってしまったのだ。

関さんの父親も船頭を務めていたが、痛ましいことに、2015年に起きた保津川下りの転落事故で同じく帰らぬ人となっていた。事務所横の船着き場に供えられた花 事故直後から無線機の不備や救命胴衣の不具合が指摘されてはいるが、直接的な原因は船尾で舵を切る役目を担うキャリア9年の船頭が、バランスを崩してしまい落水したことだった。 保津川下りの船頭経験者が言う。「落水した船頭に代わり、果敢にも関さんが舵に手を伸ばし立て直そうとした。けれど、恐らく水圧が強くて舵を取り上げることができず、コントロールを失ったまま船は岩と衝突。ひっくり返ってお客さんも含め全員が投げ出されてしまったんだと思う」「メンバーも若くて体力もあったと思う」 関さん親子がそうであったように、難所の多い保津川下りの操舵技術は地縁血縁で受け継がれ、長らく外部から人が入ることはなかった。 ある船頭に話を聞くと、「保津川下りの船頭は110名前後ですが、祖父から親兄弟、いとこなど親族で担っているのは全体の3割程度。後継ぎ不足で徐々に世襲は減っています。きっかけは、1991年に保津川沿いを走るトロッコ列車の運行が始まったことですね。増加する観光客に対応しようと広く募集を始めて、今は全体の7割が一般採用の船頭です」 そのため未経験者には2年にわたり基礎から教え、ベテラン船頭を中心に3人一組の編成で運航する体制が取られていたというのだ。「人割りを年末年始に行い、例年3月10日に新チームとして動き始めます。今回、事故を起こしたチームは発足から2週間しか経っていませんが、コミュニケーションも良好でしたし、メンバーも若くて体力もあったと思うのですが……」(同)過去にはストライキも 90年代まで船頭は世襲を前提としていたことからも分かるとおり、保津川下りの歴史は古い。木材運搬のための筏(いかだ)を流し始めたのは1200年前で、400年ほど前からは、今の遊覧船の形をした木船が物流の主役となったという。 京都の歴史に詳しい郷土史家が解説する。「1606年に豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)が保津川を開削して以降、明治30年代までは丹波から京都への物資輸送のメインルートでしたが、鉄道開通で一気に衰退。観光客を乗せる川下りに活路を見いだしたのです」 欧州の王族が京都を訪れた際、急流を達者に下る船頭の操舵技術に感服し、世界にその名が広まったとか。「明治・大正期には上皇さまの母方祖父である久邇宮殿下や、皇太子時代の昭和天皇も乗船されました。戦後は阪急などの巨大資本が参入して船頭たちを管理下に置きましたが、待遇を巡りストライキが発生。阪急は撤退します」(同) そこで結成されたのが、今回の事故を受けて会見を開いた「保津川遊船企業組合」だった。「船頭の報酬は歩合制ですが、それを取りまとめているのが組合です。月の総売り上げの半分強を船頭の取り分として、乗船回数に応じて皆へ平等に振り分ける。売り上げの残りは船の修繕などの経費に充てています。基本的に休むのは年末年始だけですが、冬場はお客さんも少なく報酬が減るので、トラック運転手や土木作業などのアルバイトに従事する船頭も多い」(先の船頭) 桜が咲きほこり、ようやくシーズン本番を迎えた矢先の事故だったというのだ。遺族は「一番の被害者はお客さんたち」 船頭を務めた関さんの遺族にも話を聞いてみると、「たしかに収入は一切なくなってしまいましたが、もし、お客さんが亡くなっていたら、もっと大変なことになっていた。刑事事件ですよ。だから、僕たちは亡くなったのは船頭でまだよかったと思うしかないんです。彼は死んだけど、僕らは被害者ではなく加害者側。一番の被害者はお客さんたちですから……」 少なくとも国の運輸安全委員会が行っている事故調査の結果が出るまでは、運休が続くと見られる保津川下り。度重なる困難を乗り越え、伝統を守ってきた船頭たちの苦悩は絶えない。「週刊新潮」2023年4月13日号 掲載
3月28日、京都府亀岡市から京都市嵐山までの16キロを結ぶ「保津川下り」で、乗客25人と船頭4人の計29人を乗せた全長12メートルの遊覧船が転覆した。乗客は全員無事だったが、それぞれ約20年の船頭歴を誇る田中三郎さん(51)と関雅有(まさくに)さん(40)が亡くなってしまったのだ。
関さんの父親も船頭を務めていたが、痛ましいことに、2015年に起きた保津川下りの転落事故で同じく帰らぬ人となっていた。
事故直後から無線機の不備や救命胴衣の不具合が指摘されてはいるが、直接的な原因は船尾で舵を切る役目を担うキャリア9年の船頭が、バランスを崩してしまい落水したことだった。
保津川下りの船頭経験者が言う。
「落水した船頭に代わり、果敢にも関さんが舵に手を伸ばし立て直そうとした。けれど、恐らく水圧が強くて舵を取り上げることができず、コントロールを失ったまま船は岩と衝突。ひっくり返ってお客さんも含め全員が投げ出されてしまったんだと思う」
関さん親子がそうであったように、難所の多い保津川下りの操舵技術は地縁血縁で受け継がれ、長らく外部から人が入ることはなかった。
ある船頭に話を聞くと、
「保津川下りの船頭は110名前後ですが、祖父から親兄弟、いとこなど親族で担っているのは全体の3割程度。後継ぎ不足で徐々に世襲は減っています。きっかけは、1991年に保津川沿いを走るトロッコ列車の運行が始まったことですね。増加する観光客に対応しようと広く募集を始めて、今は全体の7割が一般採用の船頭です」
そのため未経験者には2年にわたり基礎から教え、ベテラン船頭を中心に3人一組の編成で運航する体制が取られていたというのだ。
「人割りを年末年始に行い、例年3月10日に新チームとして動き始めます。今回、事故を起こしたチームは発足から2週間しか経っていませんが、コミュニケーションも良好でしたし、メンバーも若くて体力もあったと思うのですが……」(同)
90年代まで船頭は世襲を前提としていたことからも分かるとおり、保津川下りの歴史は古い。木材運搬のための筏(いかだ)を流し始めたのは1200年前で、400年ほど前からは、今の遊覧船の形をした木船が物流の主役となったという。
京都の歴史に詳しい郷土史家が解説する。
「1606年に豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)が保津川を開削して以降、明治30年代までは丹波から京都への物資輸送のメインルートでしたが、鉄道開通で一気に衰退。観光客を乗せる川下りに活路を見いだしたのです」
欧州の王族が京都を訪れた際、急流を達者に下る船頭の操舵技術に感服し、世界にその名が広まったとか。
「明治・大正期には上皇さまの母方祖父である久邇宮殿下や、皇太子時代の昭和天皇も乗船されました。戦後は阪急などの巨大資本が参入して船頭たちを管理下に置きましたが、待遇を巡りストライキが発生。阪急は撤退します」(同)
そこで結成されたのが、今回の事故を受けて会見を開いた「保津川遊船企業組合」だった。
「船頭の報酬は歩合制ですが、それを取りまとめているのが組合です。月の総売り上げの半分強を船頭の取り分として、乗船回数に応じて皆へ平等に振り分ける。売り上げの残りは船の修繕などの経費に充てています。基本的に休むのは年末年始だけですが、冬場はお客さんも少なく報酬が減るので、トラック運転手や土木作業などのアルバイトに従事する船頭も多い」(先の船頭)
桜が咲きほこり、ようやくシーズン本番を迎えた矢先の事故だったというのだ。
船頭を務めた関さんの遺族にも話を聞いてみると、
「たしかに収入は一切なくなってしまいましたが、もし、お客さんが亡くなっていたら、もっと大変なことになっていた。刑事事件ですよ。だから、僕たちは亡くなったのは船頭でまだよかったと思うしかないんです。彼は死んだけど、僕らは被害者ではなく加害者側。一番の被害者はお客さんたちですから……」
少なくとも国の運輸安全委員会が行っている事故調査の結果が出るまでは、運休が続くと見られる保津川下り。度重なる困難を乗り越え、伝統を守ってきた船頭たちの苦悩は絶えない。
「週刊新潮」2023年4月13日号 掲載