2022年3月31日、札幌市内の三角山で、市民からの〈ヒグマの巣穴ではないか〉という通報を受けて当該穴の調査を行っていたNPO法人の職員が、穴から突然飛び出してきたヒグマに襲われて負傷する事故が起こりました。
【写真】この記事の写真を見る(2枚) 三角山は地元の方にとっては「庭」のようなものでジョギングや犬の散歩で、多くの人が行き交います。冬眠穴はその登山道から100メートルあまりのところにあり、中には2頭の子グマがいました。襲われた職員は後に新聞のインタビューで「(冬眠穴とは)違うだろう。違っていてほしい」と思いながら調査していたと答えています。

彼のようなヒグマの専門家の判断を鈍らせるほど、従来の常識から外れた場所にクマは冬眠穴を作っていたとも言えます。「春グマ駆除制度」を廃止後、クマの生息数が回復 札幌市においては2010年代以降、市街地にクマが出没するケースが増加し、私はこうした〈都市に隣接する森林で暮らし、一時的に市街地に出没するクマ、またはそうした可能性を持つクマ〉のことを「アーバン・ベア」と名付け、研究してきました。 ですから三角山近辺にクマが生息していることは分かっていたのですが、「まさかあそこで冬眠までしていたとは」と改めて衝撃を受けたのも確かです。このクマはまさに「アーバン・ベア」であり、こうした事故は今後も起こり得ると言わざるを得ません。北海道・知床半島のヒグマの親子 共同通信社 そもそも、なぜ近年「アーバン・ベア」が増えてきたのでしょうか。 理由は様々あるのですが、ひとつにはこの2、30年で単純にクマの生息数が増えて、その分布域が人間の生活圏ギリギリまで広がったことが挙げられます。 その背景には、北海道においては、ヒグマを害獣と見做してその駆除を推奨する「春グマ駆除制度」を1990年に廃止し、「撲滅から共存へ」と180度方針を転換して以来、クマの生息数が回復してきたという経緯があります。「緑の基本計画」でヒグマも市街地まで来られるように 一方で、人間側の事情でいえば、クマが生息数を減らしている時期に札幌周辺では人口が急増、郊外にあった農地や果樹園が住宅地へと変貌しました。その結果、本来クマの生息地であった森林の際まで人間が住むことになったのです。 さらに、国土交通省が各地方自治体に策定を勧めている「緑の基本計画」も実はクマと人間の生息域を近づける方向に働いています。 これは都市の生物多様性保全を目標に、都市中心部と都市周辺の拠点となる緑地を緑のネットワークでつなぐ政策で、その成果として緑豊かで生きものの賑わいある街づくりが実現しつつあるのですが、同時にヒグマも緑地帯を「移動回廊(コリドー)」として利用して、市街地まで来られるようになりました。 2021年6月、札幌市東区の街中に突然現れ、4人に重軽傷を負わせた後、駆除されたクマ(♂・4歳)も、札幌北東部の石狩川河畔や茨戸川緑地から伏籠(ふしこ)川沿いのコリドーを通ってやってきた個体でした。クマにとっては街中よりも奥山のほうが暮らしやすいように思えますが、なぜ彼らは街中にやってくるのでしょうか。オスグマを避けて人里へ 実は、子グマを連れたメスグマや親離れしたばかりの若グマにとって最大の脅威はクマの社会で最も優位な「成熟したオスグマ」です。というのも若グマは繁殖期にメスをめぐる争いに巻き込まれる可能性が、また子育て中の母グマもオスグマによる「血縁関係のない子グマ殺し」にあう可能性があるからです。 子育て中の母グマは排卵が抑制され交尾ができないため、オスグマは自分と血縁関係のない子グマを殺すことで、自分と異なる遺伝子の継承を断ち、メスを交尾可能な状態に持って行くと考えられています。 メスグマや若グマにとっては、オスグマが闊歩する奥山に比べると、人里の方が安全でかつ農作物などが豊富で魅力的な場所なのかもしれません。アーバン・ベアは人里近くで暮らしながら人間を観察して、人間とはどういうものかを日々学習しているはずです。春グマ駆除などで人に追いかけられる経験もしていないので、オスグマよりも人間の方が怖くないと判断しているクマが増えてきている可能性はあります。 あらゆる外部環境の刺激に対して柔軟に対応するのがクマの特質であり、クマの気質が変わったというよりは、人の行動が変わったからクマの行動も変わったと考えるべきでしょう。「街にクマが出たら駆除」では限界がある では我々はどうやってアーバン・ベアに対処していけばいいのでしょうか。従来のような「街にクマが出たら駆除」という行政と捕獲技術者任せの対症療法では、いずれ限界が来ます。人里のすぐ近くでクマが暮らしているという現実をまず市民一人ひとりが理解して、自分にできることをすることが大事だと思います。 基本となるのは、ゾーニング(空間的な住み分け)管理です。つまり奥山の森林はクマの恒常的生息地(クマゾーン)として半永久的に個体群が存続できるように保全し、人間が立ち入る際はクマの存在を前提として徹底的に対策する。一方で人の生活圏である市街地や農地(人間ゾーン)では、人の生命や財産をクマから守ることを最優先し、ここに立ち入ってしまったクマは毅然として駆除する。 両ゾーンを分けるラインはクマには見えません。ですからクマが侵入しやすいポイントには電気柵を設置したり、クマが隠れられるヤブなどを刈って、クマにラインを意識させる。あるいはクマを人里に引寄せる誘因になる生ゴミなどを放置しない。またライン付近の森に安心して生息できないようにクマを追い払うことも今後必要になっていくでしょう。 クマが暮らせるほどの豊かな緑ある日常を99%享受しながら、クマが人里に出没するという1%の可能性を、日々の生活の中でできるだけ低下させる「未然防除」の考え方が大事になります。 私はアーバン・ベアの存在が明らかになってきた今こそ、クマと人との共生に真剣に取り組む好機だと考えています。◆このコラムは、政治、経済からスポーツや芸能まで、世の中の事象を幅広く網羅した『文藝春秋オピニオン 2023年の論点100』に掲載されています。(佐藤 喜和/ノンフィクション出版)
三角山は地元の方にとっては「庭」のようなものでジョギングや犬の散歩で、多くの人が行き交います。冬眠穴はその登山道から100メートルあまりのところにあり、中には2頭の子グマがいました。襲われた職員は後に新聞のインタビューで「(冬眠穴とは)違うだろう。違っていてほしい」と思いながら調査していたと答えています。
彼のようなヒグマの専門家の判断を鈍らせるほど、従来の常識から外れた場所にクマは冬眠穴を作っていたとも言えます。
札幌市においては2010年代以降、市街地にクマが出没するケースが増加し、私はこうした〈都市に隣接する森林で暮らし、一時的に市街地に出没するクマ、またはそうした可能性を持つクマ〉のことを「アーバン・ベア」と名付け、研究してきました。
ですから三角山近辺にクマが生息していることは分かっていたのですが、「まさかあそこで冬眠までしていたとは」と改めて衝撃を受けたのも確かです。このクマはまさに「アーバン・ベア」であり、こうした事故は今後も起こり得ると言わざるを得ません。
北海道・知床半島のヒグマの親子 共同通信社
そもそも、なぜ近年「アーバン・ベア」が増えてきたのでしょうか。
理由は様々あるのですが、ひとつにはこの2、30年で単純にクマの生息数が増えて、その分布域が人間の生活圏ギリギリまで広がったことが挙げられます。
その背景には、北海道においては、ヒグマを害獣と見做してその駆除を推奨する「春グマ駆除制度」を1990年に廃止し、「撲滅から共存へ」と180度方針を転換して以来、クマの生息数が回復してきたという経緯があります。
一方で、人間側の事情でいえば、クマが生息数を減らしている時期に札幌周辺では人口が急増、郊外にあった農地や果樹園が住宅地へと変貌しました。その結果、本来クマの生息地であった森林の際まで人間が住むことになったのです。
さらに、国土交通省が各地方自治体に策定を勧めている「緑の基本計画」も実はクマと人間の生息域を近づける方向に働いています。
これは都市の生物多様性保全を目標に、都市中心部と都市周辺の拠点となる緑地を緑のネットワークでつなぐ政策で、その成果として緑豊かで生きものの賑わいある街づくりが実現しつつあるのですが、同時にヒグマも緑地帯を「移動回廊(コリドー)」として利用して、市街地まで来られるようになりました。
2021年6月、札幌市東区の街中に突然現れ、4人に重軽傷を負わせた後、駆除されたクマ(♂・4歳)も、札幌北東部の石狩川河畔や茨戸川緑地から伏籠(ふしこ)川沿いのコリドーを通ってやってきた個体でした。クマにとっては街中よりも奥山のほうが暮らしやすいように思えますが、なぜ彼らは街中にやってくるのでしょうか。
実は、子グマを連れたメスグマや親離れしたばかりの若グマにとって最大の脅威はクマの社会で最も優位な「成熟したオスグマ」です。というのも若グマは繁殖期にメスをめぐる争いに巻き込まれる可能性が、また子育て中の母グマもオスグマによる「血縁関係のない子グマ殺し」にあう可能性があるからです。
子育て中の母グマは排卵が抑制され交尾ができないため、オスグマは自分と血縁関係のない子グマを殺すことで、自分と異なる遺伝子の継承を断ち、メスを交尾可能な状態に持って行くと考えられています。
メスグマや若グマにとっては、オスグマが闊歩する奥山に比べると、人里の方が安全でかつ農作物などが豊富で魅力的な場所なのかもしれません。アーバン・ベアは人里近くで暮らしながら人間を観察して、人間とはどういうものかを日々学習しているはずです。春グマ駆除などで人に追いかけられる経験もしていないので、オスグマよりも人間の方が怖くないと判断しているクマが増えてきている可能性はあります。 あらゆる外部環境の刺激に対して柔軟に対応するのがクマの特質であり、クマの気質が変わったというよりは、人の行動が変わったからクマの行動も変わったと考えるべきでしょう。「街にクマが出たら駆除」では限界がある では我々はどうやってアーバン・ベアに対処していけばいいのでしょうか。従来のような「街にクマが出たら駆除」という行政と捕獲技術者任せの対症療法では、いずれ限界が来ます。人里のすぐ近くでクマが暮らしているという現実をまず市民一人ひとりが理解して、自分にできることをすることが大事だと思います。 基本となるのは、ゾーニング(空間的な住み分け)管理です。つまり奥山の森林はクマの恒常的生息地(クマゾーン)として半永久的に個体群が存続できるように保全し、人間が立ち入る際はクマの存在を前提として徹底的に対策する。一方で人の生活圏である市街地や農地(人間ゾーン)では、人の生命や財産をクマから守ることを最優先し、ここに立ち入ってしまったクマは毅然として駆除する。 両ゾーンを分けるラインはクマには見えません。ですからクマが侵入しやすいポイントには電気柵を設置したり、クマが隠れられるヤブなどを刈って、クマにラインを意識させる。あるいはクマを人里に引寄せる誘因になる生ゴミなどを放置しない。またライン付近の森に安心して生息できないようにクマを追い払うことも今後必要になっていくでしょう。 クマが暮らせるほどの豊かな緑ある日常を99%享受しながら、クマが人里に出没するという1%の可能性を、日々の生活の中でできるだけ低下させる「未然防除」の考え方が大事になります。 私はアーバン・ベアの存在が明らかになってきた今こそ、クマと人との共生に真剣に取り組む好機だと考えています。◆このコラムは、政治、経済からスポーツや芸能まで、世の中の事象を幅広く網羅した『文藝春秋オピニオン 2023年の論点100』に掲載されています。(佐藤 喜和/ノンフィクション出版)
メスグマや若グマにとっては、オスグマが闊歩する奥山に比べると、人里の方が安全でかつ農作物などが豊富で魅力的な場所なのかもしれません。アーバン・ベアは人里近くで暮らしながら人間を観察して、人間とはどういうものかを日々学習しているはずです。春グマ駆除などで人に追いかけられる経験もしていないので、オスグマよりも人間の方が怖くないと判断しているクマが増えてきている可能性はあります。
あらゆる外部環境の刺激に対して柔軟に対応するのがクマの特質であり、クマの気質が変わったというよりは、人の行動が変わったからクマの行動も変わったと考えるべきでしょう。
では我々はどうやってアーバン・ベアに対処していけばいいのでしょうか。従来のような「街にクマが出たら駆除」という行政と捕獲技術者任せの対症療法では、いずれ限界が来ます。人里のすぐ近くでクマが暮らしているという現実をまず市民一人ひとりが理解して、自分にできることをすることが大事だと思います。
基本となるのは、ゾーニング(空間的な住み分け)管理です。つまり奥山の森林はクマの恒常的生息地(クマゾーン)として半永久的に個体群が存続できるように保全し、人間が立ち入る際はクマの存在を前提として徹底的に対策する。一方で人の生活圏である市街地や農地(人間ゾーン)では、人の生命や財産をクマから守ることを最優先し、ここに立ち入ってしまったクマは毅然として駆除する。
両ゾーンを分けるラインはクマには見えません。ですからクマが侵入しやすいポイントには電気柵を設置したり、クマが隠れられるヤブなどを刈って、クマにラインを意識させる。あるいはクマを人里に引寄せる誘因になる生ゴミなどを放置しない。またライン付近の森に安心して生息できないようにクマを追い払うことも今後必要になっていくでしょう。
クマが暮らせるほどの豊かな緑ある日常を99%享受しながら、クマが人里に出没するという1%の可能性を、日々の生活の中でできるだけ低下させる「未然防除」の考え方が大事になります。
私はアーバン・ベアの存在が明らかになってきた今こそ、クマと人との共生に真剣に取り組む好機だと考えています。
◆このコラムは、政治、経済からスポーツや芸能まで、世の中の事象を幅広く網羅した『文藝春秋オピニオン 2023年の論点100』に掲載されています。
(佐藤 喜和/ノンフィクション出版)