◆タモリの「新しい戦前」発言に反響
昨年12月28日放送の『徹子の部屋』(テレビ朝日)に出演したタモリの発言が波紋を広げています。
黒柳徹子から「来年(2023年)はどんな年になるでしょう」と訊かれると、少し間をおいて「新しい戦前になるんじゃないでしょうか」と答えたのです。
ネットは大いにざわつきました。岸田総理が打ち出した防衛費の増額や敵基地攻撃能力をめぐる議論を引き合いに出し、戦争に前のめりになっている日本を危惧しているのではないかとの意見が相次いだのです。
タレントのラサール石井氏も『日刊ゲンダイ』の連載で、日本は平和国家として「永遠の戦後」を続けるべきだと持論を展開しました。「新しい戦前」への恐怖は、この石井氏の主張に集約されていると言っても過言ではないでしょう。
◆発言の真意はわからないが……
とはいえ、タモリの真意は定かではありません。目下の国際情勢は日本の事情だけを切り取って語れるようなものではありませんし、実際、米中の競争は激しさを増し、ドイツやフィンランドなどのヨーロッパ各国も“臨戦態勢”の緊張が高まっています。昨年来、北朝鮮は何発のミサイルを発射したでしょう?
日本の状況もこうした関係性の中でとらえるべきことであり、世界全体が不穏な時代に突入しつつある象徴として“戦前”と表現したのではないか。一応そう考える方が自然なのですね。日本だけがいきり立っているわけではないからです。
それなのにタモリの発言はひとつの思想に閉じ込められてしまいました。今回に限らず、ここ数年でタモリの言動は“良識派の鑑”として崇められるようになってしまったのです。
◆「神格化」されてしまったタモリ
昨年3月『タモリステーション』(テレビ朝日)のウクライナ特集で2時間に渡り沈黙したところ、それが“平和への祈り”と解釈される事態に。これに対し「週刊文春」(2022年3月31日号)がタモリに真相を聞いたところ、「大した理由はない」「畑違いで」と回答。なのに、なぜか過剰な意味付けをされてしまった。
つまり、“私たちの愛するタモリ”には理知的なリベラリストであってほしいとの勝手な願いを託してしまっているのではないでしょうか。それゆえに、たとえ道徳的に正しいとしても自分たちの都合のいいように利用してしまう傾向は、SNS社会にありがちな現象だと言えます。
◆2018年にアメリカで起きた同様の出来事
同じようなことが2018年にアメリカでも起きました。
トランプ大統領(当時)を支持していたカニエ・ウェストがホワイトハウスを訪れたとき、彼の政治姿勢を批判するためにある一遍の詩が拡散されたのです。
それはカナダのシンガーソングライター、レナード・コーエン(1934-2016)によるもの。カニエによる“俺はヘンリー・フォード、ミケランジェロ、そしてピカソだ”との傲慢な宣言を否定し、コーエンが“我こそはピカソ”とやり返すフレーズから始まります。
その後、コーエンはカニエの存在を「クソみたいな時代における途方もないほど嘘っぱちの変革」(Of the great bogus shift of bullshit culture 筆者訳)と喝破。
これをトランプに入れ込むカニエを批判するために良識派が持ち出したのですね。“あの偉大なレナード・コーエンだってカニエを批判しているではないか”と。
◆コーエンの詩はむしろカニエを称賛するものだった?

著者のカール・ウィルソンはコーエンがラップミュージックを好んでいた事実を示し、カニエをディスるような表現の数々がラップバトルを踏襲したものであると論じています。そのうえで、“カニエはピカソなどではない”というフレーズがディスりごっことしてのジョークだったと分析。
だからこそ、「クソみたいな時代における途方もないほど嘘っぱちの変革」も悪口と悪口を掛け合わせてプラスの意味を持たせる効果が生まれる。
さらにコーエン自身の楽曲「Democracy」からの一節<私は左翼でも右翼でもない。今夜はただ家で過ごすだけだ>(I’m neither left or right. I’m just staying home tonight 筆者訳)を引き、コーエンが思想の違いを理由に誰かを攻撃することは考えにくいことも明らかにしています。
そしてこの詩がまだカニエの変節ぶりが明らかになっていなかった2015年に書かれた事実からも、早まった良識派の人々が詩を誤読してしまったのだろうと推察しているのです。
こうしてレナード・コーエンも矮小化されてしまったのですね。
◆「あのタモさんが言っているから」で物事を判断するのは危険
そこで改めて「新しい戦前」発言を考えてみたいと思います。
確かに、多くの人が想像したように反戦や非戦の願いが込められていたのかもしれません。けれども、そこに“あのタモさんだってそう言っているのだから”という早合点の権威付けがあったのだとすれば、少々危ういのではないでしょうか。
仮に逆にふれた場合にも、同様に都合よく解釈される可能性は否定できないからです。“あのタモさんが戦前の雰囲気にワクワクしているのだから”というシチュエーションだって、絶対にないとは言い切れない。 有力な人物のちょっとした言葉で流れが決まってしまう。具体的に軍備を増強するとかよりも、そんな社会現象の方が「新しい戦前」と呼ぶにふさわしいのかもしれません。
文/石黒隆之