共働き家庭の一般化や、少子化が進んだ昨今。子どもに無関心過ぎる親、過放任な親、過保護・過干渉な親が散見される一方、下の子や老親の世話、手伝いの範疇を超えた家事労働を強要する親が目につく。こうしたケースの中には、親の意識の有無に関わらず、「子どもは親の所有物」と勘違いしている場合もある。
「あなたは子どもの子どもたる時間や居場所を奪っていませんか」
前回から、当連載への取材協力を承諾してくれた読者に取材する形で記事化している。今回は、40代で病気になり、人生の進退に窮して初めて、自分の幼少期の家庭環境や両親による教育について「自分が親の所有物のようだったのかもしれない」という事実と、その弊害について思い至り、振り返ることができた、という読者の半生を詳しく取材し、点検の意味を込めて時系列で追った。こうした子育てや勘違いの問題点について迫ってみたい。
山陰地方在住の金山玲美さん(40代・既婚)は、現在3人の子どもに恵まれ、家族5人で暮らしている。
かつては看護師をしていたが、2016年に関節リウマチを発症、2019年にADHDと広汎性発達障害の診断を受け、金山さん自身、現在では看護師に戻るのは難しいと考えている。関節リウマチの原因は、まだよくわかっていない。細菌やウイルスの感染、過労やストレス、喫煙、出産やけがなどをきっかけに発症することがあると言われているが、金山さんは、発症の原因は複合的だとはいえ、育った環境に関係ないとは言い切れないと思っている。
と、言うのも、金山さんは両親から「所有物扱い」されて育ったためだ。
photo by Grace Cary/Gettyimages
公務員の父親は、当時何度かお見合いをしていたがなかなか決まらず、31歳になり、両親から結婚を急かされていた。一方、准看護師だった母親は、正看護師の資格を取るため、夜間学校に通いながら仕事をしていた。25歳のときに父親と見合いをし、話がまとまったが、母親が「結婚は卒業まで待って欲しい」と言ったところ、「すぐに婚約だけしてくれ。来年には結婚式を挙げさせてくれ」と父親側からせがまれ、翌年早々、父親32歳、母親26歳で結婚。父親の実家で暮らし始めた。母親の正看護師の国家試験受験の時には、すでに金山さんがお腹におり、その夏に出産した。そんな両親のもとに生まれた金山さんだったが、物心つくかつかないかの頃、両親は金山さんが泣くと必ず、泣き止むよう怒鳴った。そのため金山さんは幼いながらも、「とにかく何があっても泣いてはだめなんだ」と思っていたと言う。「幼い子どもが自分の気持ちを言語化できるわけもなく、現在11歳の私の長女も、いまだに上手く話せなくて泣き出すことがあるので、今考えると、理不尽な理由で両親に怒られていたなと思います。父や祖父は、子どもの泣き声が苦手だったようでした。母は、私が甘ったれるのが嫌だったんでしょうね。翌年弟が生まれたのですが、母は弟には優しくしてましたが……。祖母からは、『そんなに泣くもんでねぇ』と優しく言われました。唯一、母の弟である叔父には甘えられたのですが、私が小1の時に結婚してしまい、甘えられなくなりました」両親は、気に入らないことがあるとすぐに怒鳴ったため、金山さんは、“大人しい子”に育った。しかし金山さんが5歳くらいの頃、近所でお祭りがあり、家族で見に行ったあと、母親は手伝いがあるため残ると知った金山さんは、「私も残りたい」と珍しくごねた。すると父親が激怒。仕方なく帰ることになったが、父親の怒りは収まらない。祖母に、「ごめんなさいして家に入りなさい」と言われ、金山さんは納得がいかなかったが、泣く泣く父親に頭を下げて、ようやく家に入ることを許された。このことがトラウマになり、以降、金山さんは父親に怒られないように顔色を窺う子になったという。母親は、1歳下の弟を産んだ後、看護師に復帰。育児の大半は祖母が担っていた。娘に冷たい金山さんが物心ついたとき、すでに両親の夫婦仲は良くなかった。父親や祖母の言うことを聞きたくない母親は、看護師の仕事に逃げたのだ。仕事に復帰した母親は、ほとんど家におらず、休みの日もパチンコに行くことが多く、あまり育児に関わらなかった。泣くと怒鳴るのは変わらずで、お風呂に一緒に入ってくれるのはいつも父親。だから一人でお風呂に入ることができるようになるまでは、父親が「洗うのが大変だから」と言って髪を伸ばすことを許してもらえなかった。また、夏に家族で海水浴に行っても、母親は金山さんを女子更衣室や女子シャワーに連れて行ってはくれず、金山さんは小学校の低学年の間は、父親と弟と一緒に、男子更衣室や男子シャワーを使った。さらに、風邪を引いたり、熱を出したりしても怒られた。photo by Korrawin/Gettyimages 「母は、『人の痛い痒いは聞きたくない』といつも言っていて、特に父が具合が悪いときは怒っていました。母の妹が病弱だったようなので、母の子どもの頃のトラウマなのか、それとも具合が悪くなると父が自分の都合良く動いてくれなくなるからなのかは謎ですが……。幼い頃、私も風邪を引くと母に怒られるので、祖母がこっそり薬や栄養ドリンクを飲ませてくれました」「人の痛い痒いは聞きたくない」と言いながら、看護師として働いているのだから、不思議だ。金山さんが小学校2年になると、近所に住む同学年の女子から嫌がらせが始まった。悩んだ金山さんは、時々母親にそのことを話していたが、「あんたが悪い」と母親は一蹴。そんなある日、その女子から「悪魔」と言われて大泣きで帰宅したところ、見かねた祖母が、「相手の家に電話してやるから」と言って電話し、相手の親と子どもに謝罪させてくれた。「一方で母は私の気持ちに共感することが出来ない人でした。祖母は言っても聞かない母に、注意することは滅多にしませんでした。私が赤ちゃんの頃に、嫁姑でかなりやり合ったんだと思います。祖母は諦めていました」弟との扱いの差にも悩まされた。弟はスーパーファミコンやプレイステーションのソフトが発売される時は、発売日当日に買ってもらえていたのに、金山さんは、クリスマスプレゼントでさえ、小2で終了。誕生日プレゼントもなく、ケーキのみだったのだ。「今考えると、パチンコをするお金はあるけれど、私にお金は無駄にかけたくないと思っていたようです。だから私は最近まで、小5、小3の娘たちに、誕生日とクリスマスのプレゼントを欠かさず渡す夫が理解出来ませんでした。しかも夫は、自分のお小遣いを減らしてまで、子どもにプレゼントをしていたのです。『なんでそこまでするの?』と聞いたら、『大事にしてあげたいから』と話すので、私が育った家庭がおかしかったのかと改めて気づかされました。父は、学校で必要な物は普通に買い揃えてくれていたため、“我が家は普通の家庭”だと思いこんでいたのかもしれません」基本的に、家にいて、家事の大半をするのは祖母だった。そのため、「女は嫁に出して家には残らないもの。家督になる弟が偉い」という古い教えがまかり通っていた。両親は弟ばかり贔屓し、祖母は父親の細々した世話を焼き、「眼鏡を持っていってやれ」「箸を渡してやれ」などの用事を金山さんには言い付けたが、弟には一切頼まなかった。褒めない両親金山さんが小学校2年生になったとき、本人が「やりたい」と言っていないのにも関わらず、母親に勝手にそろばん塾へ入れられた。しかし金山さんは、仲の良い友だちが誰も通っておらずつまらないため、1年経たないうちに「やめたい」と言った。すると母親は、「1度やめたらやめ癖がつく、我慢を覚えない子になる」と言いつつも、渋々やめさせてくれた。photo by VivianG/Gettyimages ところがやめた後、母親に言われた言葉からひどい罪悪感を覚えた金山さんは、3年生になったとき、自分から「そろばん塾に通いたい」と言って母親に頼み込み、また通い始めた。その頃にはクラスの1/3くらいの子どもが通っており、楽しく通えた。「後で気づいたのですが、母は算数が苦手のようです。小学校1、2年生の時の宿題すら教えてもらえませんでした。自分の苦手科目だったため、そろばんを習わせれば算数が得意になると思って、勝手に習わせたのだと思います」。両親は、金山さんがテストで良い点を取ってきても、「大したことない、そんなので満足するな」と言って、あまり褒めてくれなかった。特に母親は、「最初はグーで、後はパーにならないようにしなきゃならないな」と口癖のように言った。「これは、小さい頃は勉強が良く出来ても、大人になって大したことない人にならないように……という意味らしいです。最近では私の小5、小3の娘たちの成績を聞いてきて、私が『得意科目は100点取るよ』と話すと『最初はグーで……』と娘たちに直接言い始めるので、孫にまでそんなこと言わないで欲しいと思います。でも、私が意見するとものすごい勢いで否定されて、『理屈ばかりこねて』と聞く耳を持たれないので、これまで何度も言い返して来ましたが、私ももう母に分かってもらうのは諦めてます」祖母は、良い点を取ると褒めてくれたが、両親があまり良い顔をしないため、金山さんは良い点をとっても、祖母にも見せなくなっていった。「なんで結婚したの?」金山さんが小学生になった頃には、夫婦喧嘩が絶えなくなっていたという両親。金山さんは、「なんで結婚したの?」と疑問に思っていた。金山さんが小学校3年生のときには、母親が夜に職場から呼び出され、仕事に行っていることをうっかり忘れた祖母と父親が玄関の鍵をかけてしまったことがあった。深夜に帰宅した母親が家に入れなくて困り、怒った母親は翌日の夕飯時に「離婚する!」と喚き立て、祖母と父親は懸命になだめていた。金山さんが小学生高学年になった頃には、両親と金山さんの3人で、父親の運転する車で隣の市まで出かけたことがあった。金山さんと母親がデパートで買い物をしている間、父親はパチンコをしていたが、結果的にパチンコに負けて機嫌の悪くなったあげくに母親と揉め、金山さんと母親を置いて一人で帰ってしまった。その後、母親は1週間くらい父親と口を聞いていなかった。photo by takasuu/Gettyimages 一方、祖母は祖母で、父親のことなら何でもやってあげ、夫婦喧嘩となれば、父親の肩ばかり持った。「祖母は、母のだらしなさに呆れて孫の私に愚痴を聞かせていたので、幼心に、『なんでお祖母ちゃんはお母さんの悪口言うの?』と思っていました。今思えば、本当に母も母で、パチンコか仕事ばかりで掃除はしない。子どもの世話や夕飯などまで姑に任せてたら、文句も言われるかと思います。父と祖母はよく私に、『あんなだらしなくなるな』と言って、厳しく躾けようとしていました」夕飯の支度は、平日は祖母、土日は母親の担当だったが、土日はもっぱら家族でパチンコに行っていたため、夕飯の支度が嫌な母親は、外食を提案。祖父と父親、母親がパチンコをしている間、金山さんは祖母と弟と車の中で遊んだり、夏場は涼しい店内や外の木陰でマンガや本を読んだりして過ごした。母親と同じ道へ中学校を卒業した金山さんは、地域で1番の進学校に合格。しかし入学後、運動部の中でも特に練習が厳しい部活に入り、母親から言われた「1度やめたらやめ癖がつく、我慢を覚えない子になる」の言葉が頭から離れず、部活に翻弄されるうちに授業についていけなくなり、卒業する年に。進路を考える際、両親は、「女は大学に入れてもダメだ。金だけかかる」と言って大学進学の道を閉ざし、「中途半端な頭なら手に職しかない」と言う。そこで決めた進路は、母親と同じ准看護師の学校。しかしそれが、金山さんにとっての本当の地獄の始まりだったのだ。photo by Andrea Chu/Gettyimages 祖母と母親の関係が悪く、夫婦仲も良くない両親のもとで、母親にほとんど関わってもらえない中、高校生活まで終えた金山さんに、就職までの子ども時代に家庭内で受けた不合理や「親の所有物のようなあつかい」について振り返ってもらった。病気の発生の因果関係は難しいが、そこで気づいたのは、自分が当然と考えて耐えていたことでも、客観的に見れば非常にストレスフルで、成長の機会が失われていたり、人と同じように生活するにも困難な足かせを得ていたのではないかという驚きだったという。金山さんは現在、自分の家庭を持ち子育てに関わることで、過去の自分の家庭と今とを比較し、今回のようにさまざまなことを客観視し、思い出すことができた。程度の差こそあれ、こうした過去の振り返りや自分の家庭と子ども時代を客観視すること、そして自分の子どもへの子育てに臨むことは必要なことではないだろうか。ぜひ、読者諸賢の過去の反芻などをお聞かせ願いたい。また、期せずして、母親と同じ准看護師の道を進むことになった金山さんは、さらに過酷な状況へと身を置くことになった。だが、その時代を経て40代になった今、夫の「ある言葉」ではっきりと自分の母の「毒」を自覚することができたのだという。その顛末については『「カサンドラ症候群」になりながらも妻の「毒親化」と母親との「共依存」を自覚させてくれた夫の一言』(2022.11.7更新予定)に譲りたい。
公務員の父親は、当時何度かお見合いをしていたがなかなか決まらず、31歳になり、両親から結婚を急かされていた。一方、准看護師だった母親は、正看護師の資格を取るため、夜間学校に通いながら仕事をしていた。25歳のときに父親と見合いをし、話がまとまったが、母親が「結婚は卒業まで待って欲しい」と言ったところ、「すぐに婚約だけしてくれ。来年には結婚式を挙げさせてくれ」と父親側からせがまれ、翌年早々、父親32歳、母親26歳で結婚。父親の実家で暮らし始めた。母親の正看護師の国家試験受験の時には、すでに金山さんがお腹におり、その夏に出産した。
そんな両親のもとに生まれた金山さんだったが、物心つくかつかないかの頃、両親は金山さんが泣くと必ず、泣き止むよう怒鳴った。そのため金山さんは幼いながらも、「とにかく何があっても泣いてはだめなんだ」と思っていたと言う。
「幼い子どもが自分の気持ちを言語化できるわけもなく、現在11歳の私の長女も、いまだに上手く話せなくて泣き出すことがあるので、今考えると、理不尽な理由で両親に怒られていたなと思います。父や祖父は、子どもの泣き声が苦手だったようでした。母は、私が甘ったれるのが嫌だったんでしょうね。翌年弟が生まれたのですが、母は弟には優しくしてましたが……。祖母からは、『そんなに泣くもんでねぇ』と優しく言われました。唯一、母の弟である叔父には甘えられたのですが、私が小1の時に結婚してしまい、甘えられなくなりました」
両親は、気に入らないことがあるとすぐに怒鳴ったため、金山さんは、“大人しい子”に育った。
しかし金山さんが5歳くらいの頃、近所でお祭りがあり、家族で見に行ったあと、母親は手伝いがあるため残ると知った金山さんは、「私も残りたい」と珍しくごねた。すると父親が激怒。仕方なく帰ることになったが、父親の怒りは収まらない。祖母に、「ごめんなさいして家に入りなさい」と言われ、金山さんは納得がいかなかったが、泣く泣く父親に頭を下げて、ようやく家に入ることを許された。このことがトラウマになり、以降、金山さんは父親に怒られないように顔色を窺う子になったという。
母親は、1歳下の弟を産んだ後、看護師に復帰。育児の大半は祖母が担っていた。
金山さんが物心ついたとき、すでに両親の夫婦仲は良くなかった。父親や祖母の言うことを聞きたくない母親は、看護師の仕事に逃げたのだ。
仕事に復帰した母親は、ほとんど家におらず、休みの日もパチンコに行くことが多く、あまり育児に関わらなかった。泣くと怒鳴るのは変わらずで、お風呂に一緒に入ってくれるのはいつも父親。だから一人でお風呂に入ることができるようになるまでは、父親が「洗うのが大変だから」と言って髪を伸ばすことを許してもらえなかった。
また、夏に家族で海水浴に行っても、母親は金山さんを女子更衣室や女子シャワーに連れて行ってはくれず、金山さんは小学校の低学年の間は、父親と弟と一緒に、男子更衣室や男子シャワーを使った。さらに、風邪を引いたり、熱を出したりしても怒られた。
photo by Korrawin/Gettyimages
「母は、『人の痛い痒いは聞きたくない』といつも言っていて、特に父が具合が悪いときは怒っていました。母の妹が病弱だったようなので、母の子どもの頃のトラウマなのか、それとも具合が悪くなると父が自分の都合良く動いてくれなくなるからなのかは謎ですが……。幼い頃、私も風邪を引くと母に怒られるので、祖母がこっそり薬や栄養ドリンクを飲ませてくれました」「人の痛い痒いは聞きたくない」と言いながら、看護師として働いているのだから、不思議だ。金山さんが小学校2年になると、近所に住む同学年の女子から嫌がらせが始まった。悩んだ金山さんは、時々母親にそのことを話していたが、「あんたが悪い」と母親は一蹴。そんなある日、その女子から「悪魔」と言われて大泣きで帰宅したところ、見かねた祖母が、「相手の家に電話してやるから」と言って電話し、相手の親と子どもに謝罪させてくれた。「一方で母は私の気持ちに共感することが出来ない人でした。祖母は言っても聞かない母に、注意することは滅多にしませんでした。私が赤ちゃんの頃に、嫁姑でかなりやり合ったんだと思います。祖母は諦めていました」弟との扱いの差にも悩まされた。弟はスーパーファミコンやプレイステーションのソフトが発売される時は、発売日当日に買ってもらえていたのに、金山さんは、クリスマスプレゼントでさえ、小2で終了。誕生日プレゼントもなく、ケーキのみだったのだ。「今考えると、パチンコをするお金はあるけれど、私にお金は無駄にかけたくないと思っていたようです。だから私は最近まで、小5、小3の娘たちに、誕生日とクリスマスのプレゼントを欠かさず渡す夫が理解出来ませんでした。しかも夫は、自分のお小遣いを減らしてまで、子どもにプレゼントをしていたのです。『なんでそこまでするの?』と聞いたら、『大事にしてあげたいから』と話すので、私が育った家庭がおかしかったのかと改めて気づかされました。父は、学校で必要な物は普通に買い揃えてくれていたため、“我が家は普通の家庭”だと思いこんでいたのかもしれません」基本的に、家にいて、家事の大半をするのは祖母だった。そのため、「女は嫁に出して家には残らないもの。家督になる弟が偉い」という古い教えがまかり通っていた。両親は弟ばかり贔屓し、祖母は父親の細々した世話を焼き、「眼鏡を持っていってやれ」「箸を渡してやれ」などの用事を金山さんには言い付けたが、弟には一切頼まなかった。褒めない両親金山さんが小学校2年生になったとき、本人が「やりたい」と言っていないのにも関わらず、母親に勝手にそろばん塾へ入れられた。しかし金山さんは、仲の良い友だちが誰も通っておらずつまらないため、1年経たないうちに「やめたい」と言った。すると母親は、「1度やめたらやめ癖がつく、我慢を覚えない子になる」と言いつつも、渋々やめさせてくれた。photo by VivianG/Gettyimages ところがやめた後、母親に言われた言葉からひどい罪悪感を覚えた金山さんは、3年生になったとき、自分から「そろばん塾に通いたい」と言って母親に頼み込み、また通い始めた。その頃にはクラスの1/3くらいの子どもが通っており、楽しく通えた。「後で気づいたのですが、母は算数が苦手のようです。小学校1、2年生の時の宿題すら教えてもらえませんでした。自分の苦手科目だったため、そろばんを習わせれば算数が得意になると思って、勝手に習わせたのだと思います」。両親は、金山さんがテストで良い点を取ってきても、「大したことない、そんなので満足するな」と言って、あまり褒めてくれなかった。特に母親は、「最初はグーで、後はパーにならないようにしなきゃならないな」と口癖のように言った。「これは、小さい頃は勉強が良く出来ても、大人になって大したことない人にならないように……という意味らしいです。最近では私の小5、小3の娘たちの成績を聞いてきて、私が『得意科目は100点取るよ』と話すと『最初はグーで……』と娘たちに直接言い始めるので、孫にまでそんなこと言わないで欲しいと思います。でも、私が意見するとものすごい勢いで否定されて、『理屈ばかりこねて』と聞く耳を持たれないので、これまで何度も言い返して来ましたが、私ももう母に分かってもらうのは諦めてます」祖母は、良い点を取ると褒めてくれたが、両親があまり良い顔をしないため、金山さんは良い点をとっても、祖母にも見せなくなっていった。「なんで結婚したの?」金山さんが小学生になった頃には、夫婦喧嘩が絶えなくなっていたという両親。金山さんは、「なんで結婚したの?」と疑問に思っていた。金山さんが小学校3年生のときには、母親が夜に職場から呼び出され、仕事に行っていることをうっかり忘れた祖母と父親が玄関の鍵をかけてしまったことがあった。深夜に帰宅した母親が家に入れなくて困り、怒った母親は翌日の夕飯時に「離婚する!」と喚き立て、祖母と父親は懸命になだめていた。金山さんが小学生高学年になった頃には、両親と金山さんの3人で、父親の運転する車で隣の市まで出かけたことがあった。金山さんと母親がデパートで買い物をしている間、父親はパチンコをしていたが、結果的にパチンコに負けて機嫌の悪くなったあげくに母親と揉め、金山さんと母親を置いて一人で帰ってしまった。その後、母親は1週間くらい父親と口を聞いていなかった。photo by takasuu/Gettyimages 一方、祖母は祖母で、父親のことなら何でもやってあげ、夫婦喧嘩となれば、父親の肩ばかり持った。「祖母は、母のだらしなさに呆れて孫の私に愚痴を聞かせていたので、幼心に、『なんでお祖母ちゃんはお母さんの悪口言うの?』と思っていました。今思えば、本当に母も母で、パチンコか仕事ばかりで掃除はしない。子どもの世話や夕飯などまで姑に任せてたら、文句も言われるかと思います。父と祖母はよく私に、『あんなだらしなくなるな』と言って、厳しく躾けようとしていました」夕飯の支度は、平日は祖母、土日は母親の担当だったが、土日はもっぱら家族でパチンコに行っていたため、夕飯の支度が嫌な母親は、外食を提案。祖父と父親、母親がパチンコをしている間、金山さんは祖母と弟と車の中で遊んだり、夏場は涼しい店内や外の木陰でマンガや本を読んだりして過ごした。母親と同じ道へ中学校を卒業した金山さんは、地域で1番の進学校に合格。しかし入学後、運動部の中でも特に練習が厳しい部活に入り、母親から言われた「1度やめたらやめ癖がつく、我慢を覚えない子になる」の言葉が頭から離れず、部活に翻弄されるうちに授業についていけなくなり、卒業する年に。進路を考える際、両親は、「女は大学に入れてもダメだ。金だけかかる」と言って大学進学の道を閉ざし、「中途半端な頭なら手に職しかない」と言う。そこで決めた進路は、母親と同じ准看護師の学校。しかしそれが、金山さんにとっての本当の地獄の始まりだったのだ。photo by Andrea Chu/Gettyimages 祖母と母親の関係が悪く、夫婦仲も良くない両親のもとで、母親にほとんど関わってもらえない中、高校生活まで終えた金山さんに、就職までの子ども時代に家庭内で受けた不合理や「親の所有物のようなあつかい」について振り返ってもらった。病気の発生の因果関係は難しいが、そこで気づいたのは、自分が当然と考えて耐えていたことでも、客観的に見れば非常にストレスフルで、成長の機会が失われていたり、人と同じように生活するにも困難な足かせを得ていたのではないかという驚きだったという。金山さんは現在、自分の家庭を持ち子育てに関わることで、過去の自分の家庭と今とを比較し、今回のようにさまざまなことを客観視し、思い出すことができた。程度の差こそあれ、こうした過去の振り返りや自分の家庭と子ども時代を客観視すること、そして自分の子どもへの子育てに臨むことは必要なことではないだろうか。ぜひ、読者諸賢の過去の反芻などをお聞かせ願いたい。また、期せずして、母親と同じ准看護師の道を進むことになった金山さんは、さらに過酷な状況へと身を置くことになった。だが、その時代を経て40代になった今、夫の「ある言葉」ではっきりと自分の母の「毒」を自覚することができたのだという。その顛末については『「カサンドラ症候群」になりながらも妻の「毒親化」と母親との「共依存」を自覚させてくれた夫の一言』(2022.11.7更新予定)に譲りたい。
「母は、『人の痛い痒いは聞きたくない』といつも言っていて、特に父が具合が悪いときは怒っていました。母の妹が病弱だったようなので、母の子どもの頃のトラウマなのか、それとも具合が悪くなると父が自分の都合良く動いてくれなくなるからなのかは謎ですが……。幼い頃、私も風邪を引くと母に怒られるので、祖母がこっそり薬や栄養ドリンクを飲ませてくれました」
「人の痛い痒いは聞きたくない」と言いながら、看護師として働いているのだから、不思議だ。
金山さんが小学校2年になると、近所に住む同学年の女子から嫌がらせが始まった。悩んだ金山さんは、時々母親にそのことを話していたが、「あんたが悪い」と母親は一蹴。そんなある日、その女子から「悪魔」と言われて大泣きで帰宅したところ、見かねた祖母が、「相手の家に電話してやるから」と言って電話し、相手の親と子どもに謝罪させてくれた。
「一方で母は私の気持ちに共感することが出来ない人でした。祖母は言っても聞かない母に、注意することは滅多にしませんでした。私が赤ちゃんの頃に、嫁姑でかなりやり合ったんだと思います。祖母は諦めていました」
弟との扱いの差にも悩まされた。弟はスーパーファミコンやプレイステーションのソフトが発売される時は、発売日当日に買ってもらえていたのに、金山さんは、クリスマスプレゼントでさえ、小2で終了。誕生日プレゼントもなく、ケーキのみだったのだ。
「今考えると、パチンコをするお金はあるけれど、私にお金は無駄にかけたくないと思っていたようです。だから私は最近まで、小5、小3の娘たちに、誕生日とクリスマスのプレゼントを欠かさず渡す夫が理解出来ませんでした。しかも夫は、自分のお小遣いを減らしてまで、子どもにプレゼントをしていたのです。『なんでそこまでするの?』と聞いたら、『大事にしてあげたいから』と話すので、私が育った家庭がおかしかったのかと改めて気づかされました。父は、学校で必要な物は普通に買い揃えてくれていたため、“我が家は普通の家庭”だと思いこんでいたのかもしれません」
基本的に、家にいて、家事の大半をするのは祖母だった。そのため、「女は嫁に出して家には残らないもの。家督になる弟が偉い」という古い教えがまかり通っていた。両親は弟ばかり贔屓し、祖母は父親の細々した世話を焼き、「眼鏡を持っていってやれ」「箸を渡してやれ」などの用事を金山さんには言い付けたが、弟には一切頼まなかった。
金山さんが小学校2年生になったとき、本人が「やりたい」と言っていないのにも関わらず、母親に勝手にそろばん塾へ入れられた。しかし金山さんは、仲の良い友だちが誰も通っておらずつまらないため、1年経たないうちに「やめたい」と言った。すると母親は、「1度やめたらやめ癖がつく、我慢を覚えない子になる」と言いつつも、渋々やめさせてくれた。
photo by VivianG/Gettyimages
ところがやめた後、母親に言われた言葉からひどい罪悪感を覚えた金山さんは、3年生になったとき、自分から「そろばん塾に通いたい」と言って母親に頼み込み、また通い始めた。その頃にはクラスの1/3くらいの子どもが通っており、楽しく通えた。「後で気づいたのですが、母は算数が苦手のようです。小学校1、2年生の時の宿題すら教えてもらえませんでした。自分の苦手科目だったため、そろばんを習わせれば算数が得意になると思って、勝手に習わせたのだと思います」。両親は、金山さんがテストで良い点を取ってきても、「大したことない、そんなので満足するな」と言って、あまり褒めてくれなかった。特に母親は、「最初はグーで、後はパーにならないようにしなきゃならないな」と口癖のように言った。「これは、小さい頃は勉強が良く出来ても、大人になって大したことない人にならないように……という意味らしいです。最近では私の小5、小3の娘たちの成績を聞いてきて、私が『得意科目は100点取るよ』と話すと『最初はグーで……』と娘たちに直接言い始めるので、孫にまでそんなこと言わないで欲しいと思います。でも、私が意見するとものすごい勢いで否定されて、『理屈ばかりこねて』と聞く耳を持たれないので、これまで何度も言い返して来ましたが、私ももう母に分かってもらうのは諦めてます」祖母は、良い点を取ると褒めてくれたが、両親があまり良い顔をしないため、金山さんは良い点をとっても、祖母にも見せなくなっていった。「なんで結婚したの?」金山さんが小学生になった頃には、夫婦喧嘩が絶えなくなっていたという両親。金山さんは、「なんで結婚したの?」と疑問に思っていた。金山さんが小学校3年生のときには、母親が夜に職場から呼び出され、仕事に行っていることをうっかり忘れた祖母と父親が玄関の鍵をかけてしまったことがあった。深夜に帰宅した母親が家に入れなくて困り、怒った母親は翌日の夕飯時に「離婚する!」と喚き立て、祖母と父親は懸命になだめていた。金山さんが小学生高学年になった頃には、両親と金山さんの3人で、父親の運転する車で隣の市まで出かけたことがあった。金山さんと母親がデパートで買い物をしている間、父親はパチンコをしていたが、結果的にパチンコに負けて機嫌の悪くなったあげくに母親と揉め、金山さんと母親を置いて一人で帰ってしまった。その後、母親は1週間くらい父親と口を聞いていなかった。photo by takasuu/Gettyimages 一方、祖母は祖母で、父親のことなら何でもやってあげ、夫婦喧嘩となれば、父親の肩ばかり持った。「祖母は、母のだらしなさに呆れて孫の私に愚痴を聞かせていたので、幼心に、『なんでお祖母ちゃんはお母さんの悪口言うの?』と思っていました。今思えば、本当に母も母で、パチンコか仕事ばかりで掃除はしない。子どもの世話や夕飯などまで姑に任せてたら、文句も言われるかと思います。父と祖母はよく私に、『あんなだらしなくなるな』と言って、厳しく躾けようとしていました」夕飯の支度は、平日は祖母、土日は母親の担当だったが、土日はもっぱら家族でパチンコに行っていたため、夕飯の支度が嫌な母親は、外食を提案。祖父と父親、母親がパチンコをしている間、金山さんは祖母と弟と車の中で遊んだり、夏場は涼しい店内や外の木陰でマンガや本を読んだりして過ごした。母親と同じ道へ中学校を卒業した金山さんは、地域で1番の進学校に合格。しかし入学後、運動部の中でも特に練習が厳しい部活に入り、母親から言われた「1度やめたらやめ癖がつく、我慢を覚えない子になる」の言葉が頭から離れず、部活に翻弄されるうちに授業についていけなくなり、卒業する年に。進路を考える際、両親は、「女は大学に入れてもダメだ。金だけかかる」と言って大学進学の道を閉ざし、「中途半端な頭なら手に職しかない」と言う。そこで決めた進路は、母親と同じ准看護師の学校。しかしそれが、金山さんにとっての本当の地獄の始まりだったのだ。photo by Andrea Chu/Gettyimages 祖母と母親の関係が悪く、夫婦仲も良くない両親のもとで、母親にほとんど関わってもらえない中、高校生活まで終えた金山さんに、就職までの子ども時代に家庭内で受けた不合理や「親の所有物のようなあつかい」について振り返ってもらった。病気の発生の因果関係は難しいが、そこで気づいたのは、自分が当然と考えて耐えていたことでも、客観的に見れば非常にストレスフルで、成長の機会が失われていたり、人と同じように生活するにも困難な足かせを得ていたのではないかという驚きだったという。金山さんは現在、自分の家庭を持ち子育てに関わることで、過去の自分の家庭と今とを比較し、今回のようにさまざまなことを客観視し、思い出すことができた。程度の差こそあれ、こうした過去の振り返りや自分の家庭と子ども時代を客観視すること、そして自分の子どもへの子育てに臨むことは必要なことではないだろうか。ぜひ、読者諸賢の過去の反芻などをお聞かせ願いたい。また、期せずして、母親と同じ准看護師の道を進むことになった金山さんは、さらに過酷な状況へと身を置くことになった。だが、その時代を経て40代になった今、夫の「ある言葉」ではっきりと自分の母の「毒」を自覚することができたのだという。その顛末については『「カサンドラ症候群」になりながらも妻の「毒親化」と母親との「共依存」を自覚させてくれた夫の一言』(2022.11.7更新予定)に譲りたい。
ところがやめた後、母親に言われた言葉からひどい罪悪感を覚えた金山さんは、3年生になったとき、自分から「そろばん塾に通いたい」と言って母親に頼み込み、また通い始めた。その頃にはクラスの1/3くらいの子どもが通っており、楽しく通えた。
「後で気づいたのですが、母は算数が苦手のようです。小学校1、2年生の時の宿題すら教えてもらえませんでした。自分の苦手科目だったため、そろばんを習わせれば算数が得意になると思って、勝手に習わせたのだと思います」。
両親は、金山さんがテストで良い点を取ってきても、「大したことない、そんなので満足するな」と言って、あまり褒めてくれなかった。特に母親は、「最初はグーで、後はパーにならないようにしなきゃならないな」と口癖のように言った。
「これは、小さい頃は勉強が良く出来ても、大人になって大したことない人にならないように……という意味らしいです。最近では私の小5、小3の娘たちの成績を聞いてきて、私が『得意科目は100点取るよ』と話すと『最初はグーで……』と娘たちに直接言い始めるので、孫にまでそんなこと言わないで欲しいと思います。でも、私が意見するとものすごい勢いで否定されて、『理屈ばかりこねて』と聞く耳を持たれないので、これまで何度も言い返して来ましたが、私ももう母に分かってもらうのは諦めてます」
祖母は、良い点を取ると褒めてくれたが、両親があまり良い顔をしないため、金山さんは良い点をとっても、祖母にも見せなくなっていった。
金山さんが小学生になった頃には、夫婦喧嘩が絶えなくなっていたという両親。金山さんは、「なんで結婚したの?」と疑問に思っていた。
金山さんが小学校3年生のときには、母親が夜に職場から呼び出され、仕事に行っていることをうっかり忘れた祖母と父親が玄関の鍵をかけてしまったことがあった。深夜に帰宅した母親が家に入れなくて困り、怒った母親は翌日の夕飯時に「離婚する!」と喚き立て、祖母と父親は懸命になだめていた。
金山さんが小学生高学年になった頃には、両親と金山さんの3人で、父親の運転する車で隣の市まで出かけたことがあった。金山さんと母親がデパートで買い物をしている間、父親はパチンコをしていたが、結果的にパチンコに負けて機嫌の悪くなったあげくに母親と揉め、金山さんと母親を置いて一人で帰ってしまった。その後、母親は1週間くらい父親と口を聞いていなかった。
photo by takasuu/Gettyimages
一方、祖母は祖母で、父親のことなら何でもやってあげ、夫婦喧嘩となれば、父親の肩ばかり持った。「祖母は、母のだらしなさに呆れて孫の私に愚痴を聞かせていたので、幼心に、『なんでお祖母ちゃんはお母さんの悪口言うの?』と思っていました。今思えば、本当に母も母で、パチンコか仕事ばかりで掃除はしない。子どもの世話や夕飯などまで姑に任せてたら、文句も言われるかと思います。父と祖母はよく私に、『あんなだらしなくなるな』と言って、厳しく躾けようとしていました」夕飯の支度は、平日は祖母、土日は母親の担当だったが、土日はもっぱら家族でパチンコに行っていたため、夕飯の支度が嫌な母親は、外食を提案。祖父と父親、母親がパチンコをしている間、金山さんは祖母と弟と車の中で遊んだり、夏場は涼しい店内や外の木陰でマンガや本を読んだりして過ごした。母親と同じ道へ中学校を卒業した金山さんは、地域で1番の進学校に合格。しかし入学後、運動部の中でも特に練習が厳しい部活に入り、母親から言われた「1度やめたらやめ癖がつく、我慢を覚えない子になる」の言葉が頭から離れず、部活に翻弄されるうちに授業についていけなくなり、卒業する年に。進路を考える際、両親は、「女は大学に入れてもダメだ。金だけかかる」と言って大学進学の道を閉ざし、「中途半端な頭なら手に職しかない」と言う。そこで決めた進路は、母親と同じ准看護師の学校。しかしそれが、金山さんにとっての本当の地獄の始まりだったのだ。photo by Andrea Chu/Gettyimages 祖母と母親の関係が悪く、夫婦仲も良くない両親のもとで、母親にほとんど関わってもらえない中、高校生活まで終えた金山さんに、就職までの子ども時代に家庭内で受けた不合理や「親の所有物のようなあつかい」について振り返ってもらった。病気の発生の因果関係は難しいが、そこで気づいたのは、自分が当然と考えて耐えていたことでも、客観的に見れば非常にストレスフルで、成長の機会が失われていたり、人と同じように生活するにも困難な足かせを得ていたのではないかという驚きだったという。金山さんは現在、自分の家庭を持ち子育てに関わることで、過去の自分の家庭と今とを比較し、今回のようにさまざまなことを客観視し、思い出すことができた。程度の差こそあれ、こうした過去の振り返りや自分の家庭と子ども時代を客観視すること、そして自分の子どもへの子育てに臨むことは必要なことではないだろうか。ぜひ、読者諸賢の過去の反芻などをお聞かせ願いたい。また、期せずして、母親と同じ准看護師の道を進むことになった金山さんは、さらに過酷な状況へと身を置くことになった。だが、その時代を経て40代になった今、夫の「ある言葉」ではっきりと自分の母の「毒」を自覚することができたのだという。その顛末については『「カサンドラ症候群」になりながらも妻の「毒親化」と母親との「共依存」を自覚させてくれた夫の一言』(2022.11.7更新予定)に譲りたい。
一方、祖母は祖母で、父親のことなら何でもやってあげ、夫婦喧嘩となれば、父親の肩ばかり持った。
「祖母は、母のだらしなさに呆れて孫の私に愚痴を聞かせていたので、幼心に、『なんでお祖母ちゃんはお母さんの悪口言うの?』と思っていました。今思えば、本当に母も母で、パチンコか仕事ばかりで掃除はしない。子どもの世話や夕飯などまで姑に任せてたら、文句も言われるかと思います。父と祖母はよく私に、『あんなだらしなくなるな』と言って、厳しく躾けようとしていました」
夕飯の支度は、平日は祖母、土日は母親の担当だったが、土日はもっぱら家族でパチンコに行っていたため、夕飯の支度が嫌な母親は、外食を提案。祖父と父親、母親がパチンコをしている間、金山さんは祖母と弟と車の中で遊んだり、夏場は涼しい店内や外の木陰でマンガや本を読んだりして過ごした。
中学校を卒業した金山さんは、地域で1番の進学校に合格。しかし入学後、運動部の中でも特に練習が厳しい部活に入り、母親から言われた「1度やめたらやめ癖がつく、我慢を覚えない子になる」の言葉が頭から離れず、部活に翻弄されるうちに授業についていけなくなり、卒業する年に。
進路を考える際、両親は、「女は大学に入れてもダメだ。金だけかかる」と言って大学進学の道を閉ざし、「中途半端な頭なら手に職しかない」と言う。そこで決めた進路は、母親と同じ准看護師の学校。しかしそれが、金山さんにとっての本当の地獄の始まりだったのだ。
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祖母と母親の関係が悪く、夫婦仲も良くない両親のもとで、母親にほとんど関わってもらえない中、高校生活まで終えた金山さんに、就職までの子ども時代に家庭内で受けた不合理や「親の所有物のようなあつかい」について振り返ってもらった。病気の発生の因果関係は難しいが、そこで気づいたのは、自分が当然と考えて耐えていたことでも、客観的に見れば非常にストレスフルで、成長の機会が失われていたり、人と同じように生活するにも困難な足かせを得ていたのではないかという驚きだったという。金山さんは現在、自分の家庭を持ち子育てに関わることで、過去の自分の家庭と今とを比較し、今回のようにさまざまなことを客観視し、思い出すことができた。程度の差こそあれ、こうした過去の振り返りや自分の家庭と子ども時代を客観視すること、そして自分の子どもへの子育てに臨むことは必要なことではないだろうか。ぜひ、読者諸賢の過去の反芻などをお聞かせ願いたい。また、期せずして、母親と同じ准看護師の道を進むことになった金山さんは、さらに過酷な状況へと身を置くことになった。だが、その時代を経て40代になった今、夫の「ある言葉」ではっきりと自分の母の「毒」を自覚することができたのだという。その顛末については『「カサンドラ症候群」になりながらも妻の「毒親化」と母親との「共依存」を自覚させてくれた夫の一言』(2022.11.7更新予定)に譲りたい。
祖母と母親の関係が悪く、夫婦仲も良くない両親のもとで、母親にほとんど関わってもらえない中、高校生活まで終えた金山さんに、就職までの子ども時代に家庭内で受けた不合理や「親の所有物のようなあつかい」について振り返ってもらった。病気の発生の因果関係は難しいが、そこで気づいたのは、自分が当然と考えて耐えていたことでも、客観的に見れば非常にストレスフルで、成長の機会が失われていたり、人と同じように生活するにも困難な足かせを得ていたのではないかという驚きだったという。
金山さんは現在、自分の家庭を持ち子育てに関わることで、過去の自分の家庭と今とを比較し、今回のようにさまざまなことを客観視し、思い出すことができた。程度の差こそあれ、こうした過去の振り返りや自分の家庭と子ども時代を客観視すること、そして自分の子どもへの子育てに臨むことは必要なことではないだろうか。ぜひ、読者諸賢の過去の反芻などをお聞かせ願いたい。
また、期せずして、母親と同じ准看護師の道を進むことになった金山さんは、さらに過酷な状況へと身を置くことになった。だが、その時代を経て40代になった今、夫の「ある言葉」ではっきりと自分の母の「毒」を自覚することができたのだという。その顛末については『「カサンドラ症候群」になりながらも妻の「毒親化」と母親との「共依存」を自覚させてくれた夫の一言』(2022.11.7更新予定)に譲りたい。