北海道・知床半島沖で小型観光船「KAZU 機淵ズワン)」が沈没した事故では、乗客乗員計20人の死亡が確認された。一方、かけがえのない家族の元に帰れていない行方不明の乗客は6人。そのうち、北海道幕別町の男児(7)と母親(42)は、新幹線の絵柄のリュックサックなど所持品の一部が見つかった。「私の時間はあの日から止まっている」。そう話す男児の父親(50)は事故から半年となる今も願う。「2人に早く、お帰りと言いたい」【山田豊】
【写真】被害者らが発見された場所 4月23日午前9時54分、知床を旅行中の母親から無料通信アプリ「LINE(ライン)」でメッセージが届いた。表示されたのは、うれしそうな息子の写真。観光船乗り場近くの「ゴジラ岩」の前で撮影したものだった。午前10時55分に「ゴジラ岩初めて聞いた!船乗って何を見に行くの?」と返信したが、反応はなかった。 2人は午前10時の出航直前に「まだ乗れますか」と、運航会社「知床遊覧船」の事務所へ駆け込んでいた。受け付けをした男性従業員は、半島先端の岬より手前で折り返す「カズスリー」の乗船名簿に2人の名前を書いた。しかし、母親から「違うんです。岬まで行く方の船(カズワン)なんです」と言われ、「ギリギリで間に合いますよ」と応じたという。事故後、父親は知床遊覧船の関係者からそう知らされた。 一方、父親はその日の夕方、テレビのニュースで事故を知った。午後5時29分、ラインで「大丈夫?知床遊覧船浸水のニュース流れてたけど」と送った。午後6時28分には「頼む!無事でいてくれ」とスマートフォンで必死に文字を打ち込んだが、何度見返しても「既読」のマークが付くことはなかった。 直後から約1カ月間、知床に滞在したが、あまり記憶がない。4月末、リュックが見つかった。息子が大切にしていたものだった。中には、自分が贈ったキーホルダーや息子が着けていた眼鏡が入っていた。 リュックを手にすると、母親の気持ちが伝わってくる気もした。「きっと、壊れないようにと母親が入れたのだろう。息子に楽しい思い出を作ってあげようと乗った船が沈んでいく時、どれだけ無念だっただろう」。せめて、そこに自分もいられたらとすら何度も思った。 明るくて活発な息子は、いつも元気に走り回っていた。よく近所の踏切まで大好きな列車を見に行った。停車中の新幹線が見える東京都内のホテルに3人で宿泊したこともあった。そこで、息子の誕生日を祝った。 写真に関する仕事に携わっていた母親は、SNS(ネット交流サービス)に成長していく息子の記録を残していた。小学校入学時の投稿には、写真と共に「ついに1年生。なんだか急にお兄さんスイッチが入ってしっかりしなきゃと思っている様子」というメッセージが添えられていた。 2人が知床への旅行に出掛けていく前、息子と交わした「約束」もあった。5月初旬に陸別町の展示施設へ列車を見に行くこと。旅行から帰ったら、自転車を買ってあげること……。「一緒に練習しようねって、言っていたのに」 もう2人はこの世にいないとは、どうしても思えない。「無人島でもどこでもいい。生きていてほしい」。祈り、ただ帰りを待つ。 父親は事故後、体重が一時7~8キロも落ちた。心的外傷後ストレス障害(PTSD)やうつ病の診断を受け、現在も休職中だ。それでも取材に応じた理由がある。事故を風化させたくないという思いだ。「ずさんな安全管理体制で安全意識が低く、利益優先の運航会社に一番の責任がある。けれど、その会社の営業を許可したり、事故が起きてもすぐに救助に行けない体制を放置したりした国にも責任がある。そのことを多くの人に知ってほしい」。そう語った。
4月23日午前9時54分、知床を旅行中の母親から無料通信アプリ「LINE(ライン)」でメッセージが届いた。表示されたのは、うれしそうな息子の写真。観光船乗り場近くの「ゴジラ岩」の前で撮影したものだった。午前10時55分に「ゴジラ岩初めて聞いた!船乗って何を見に行くの?」と返信したが、反応はなかった。
2人は午前10時の出航直前に「まだ乗れますか」と、運航会社「知床遊覧船」の事務所へ駆け込んでいた。受け付けをした男性従業員は、半島先端の岬より手前で折り返す「カズスリー」の乗船名簿に2人の名前を書いた。しかし、母親から「違うんです。岬まで行く方の船(カズワン)なんです」と言われ、「ギリギリで間に合いますよ」と応じたという。事故後、父親は知床遊覧船の関係者からそう知らされた。
一方、父親はその日の夕方、テレビのニュースで事故を知った。午後5時29分、ラインで「大丈夫?知床遊覧船浸水のニュース流れてたけど」と送った。午後6時28分には「頼む!無事でいてくれ」とスマートフォンで必死に文字を打ち込んだが、何度見返しても「既読」のマークが付くことはなかった。
直後から約1カ月間、知床に滞在したが、あまり記憶がない。4月末、リュックが見つかった。息子が大切にしていたものだった。中には、自分が贈ったキーホルダーや息子が着けていた眼鏡が入っていた。
リュックを手にすると、母親の気持ちが伝わってくる気もした。「きっと、壊れないようにと母親が入れたのだろう。息子に楽しい思い出を作ってあげようと乗った船が沈んでいく時、どれだけ無念だっただろう」。せめて、そこに自分もいられたらとすら何度も思った。
明るくて活発な息子は、いつも元気に走り回っていた。よく近所の踏切まで大好きな列車を見に行った。停車中の新幹線が見える東京都内のホテルに3人で宿泊したこともあった。そこで、息子の誕生日を祝った。
写真に関する仕事に携わっていた母親は、SNS(ネット交流サービス)に成長していく息子の記録を残していた。小学校入学時の投稿には、写真と共に「ついに1年生。なんだか急にお兄さんスイッチが入ってしっかりしなきゃと思っている様子」というメッセージが添えられていた。
2人が知床への旅行に出掛けていく前、息子と交わした「約束」もあった。5月初旬に陸別町の展示施設へ列車を見に行くこと。旅行から帰ったら、自転車を買ってあげること……。「一緒に練習しようねって、言っていたのに」
もう2人はこの世にいないとは、どうしても思えない。「無人島でもどこでもいい。生きていてほしい」。祈り、ただ帰りを待つ。
父親は事故後、体重が一時7~8キロも落ちた。心的外傷後ストレス障害(PTSD)やうつ病の診断を受け、現在も休職中だ。それでも取材に応じた理由がある。事故を風化させたくないという思いだ。「ずさんな安全管理体制で安全意識が低く、利益優先の運航会社に一番の責任がある。けれど、その会社の営業を許可したり、事故が起きてもすぐに救助に行けない体制を放置したりした国にも責任がある。そのことを多くの人に知ってほしい」。そう語った。