「実子がいるのに、夫婦養子に儀式を…」 琉球王朝「尚家」のお家騒動、何が起きているのか

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世が世なら「琉球王」という尚本家で後継者問題が持ち上がっている。第23代である現当主が、突如、実子を差し置いて夫婦養子を取り、沖縄を連れ回して王家の儀式も任せようとしているのだ。一族は困惑することしきりだが、いったい王家に何が起きているのか。【篠原 章/評論家】
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【写真を見る】最後の琉球国王・尚泰王の玄孫である野津圭子氏
琉球王朝の末裔である尚(しょう)家に異変が起きている。
尚家は、琉球最初の統一王朝を築いた第一尚氏を倒して、1469年から1879年まで、19代410年間にわたって琉球国(沖縄)を統治した第二尚氏の血筋に連なる一族である。最後の国王・尚泰(たい)は、1879年の琉球処分によって王位を失い、まもなく侯爵に叙せられて東京で暮らした。
尚泰の長男・尚典(てん)は侯爵の爵位を継ぎ、次男・尚寅(いん)、四男・尚順(じゅん)は分家して男爵に叙せられ、血筋は三つの系統に分かれた。尚典の血筋こそ尚本家(尚宗家)ということになる。
世が世なら尚本家の当主が琉球王である。尚泰―尚典―尚昌(しょう)―尚裕(ひろし)という順で家督が受け継がれ、現在の当主(第23代王)は、尚裕氏の長男・尚衞(まもる)氏(73)だ。
衞氏は現在、自ら設立した「一般社団法人 琉球歴史文化継承振興会」の代表理事を務めている。それ以前の経歴には不明な部分もあるが、衞氏の名前がメディアに頻繁に登場するようになったのは、同会が設立された2019年以降のことである。
異変に気が付いたのは、旧華族の親睦団体である一般社団法人霞会館(旧・華族会館)が出版する旧華族の系図集『令和新修旧華族家系大成』(2021年2月25日発行)の尚家の項目に、同書の平成版にはない人名を発見したからである。
平成版は、尚裕の後継・衞氏で系図は途絶えており、衞氏の嫡流は示されていなかった。が、令和版では、衞氏の後継として「尚孝之(たかゆき)・満喜(まき)」夫妻の名が加えられていた。ともに旧姓が「尚」ではないため、「衞氏には実子がおらず、養子縁組、それも夫婦養子によって嫡流を確保した」と受け取れる。
調べてみると、奇異なことが分かった。衞氏には、猛(たける)氏というれっきとした男子の実子がいるのである。にもかかわらず、孝之・満喜夫妻と養子縁組したのはなぜなのか。
さらに調べを進めると、尚本家内部に、先祖を供養するための御清明(うしーみー)祭をめぐり、根深い対立があることも分かった。
いま尚家に何が起きているのか。
対立の背景を知るために、まずは尚本家の「戦後史」をひもといてみよう。
同家の戦後は、衞氏の父・尚裕氏から始まる。裕氏は王家第21代当主・尚昌侯爵を父、豊前小倉藩最後の藩主・小笠原忠忱(ただのぶ)伯爵の次女・百子を母とし、1918年に東京で生まれた。東京帝国大学文学部を卒業後海軍に入隊、大尉で終戦を迎えている。
戦前に父・尚昌を亡くしていたため、その時点で襲爵して第22代当主となり、莫大な遺産を相続した。遺産の大部分は沖縄にあったため、GHQが華族の解体を狙って本土で実施した財産税を免れ(沖縄とは制度が異なる)、ほとんどの遺産は温存された。これが不幸の始まりだった。
遺産のなかには、歴代王の陵墓として知られる玉陵(たまうどぅん)や王家別邸の識名園、王家の寺院だった崇元寺(廃寺)、陵墓の一つだった浦添ようどれなどが含まれ、沖縄戦で被害を被ったこれらの史跡を修復・復元するために、多額の借金を重ねることになったからである。
裕氏は、1973年にショウエンタープライズを興し、レストラン経営などに乗り出すが、借金は減るどころか増える一方で、1980年ごろの借入金の総額は三億円に膨れ上っていた。
1980年、裕氏は啓子夫人に後を託すかたちで失踪してしまう。困り果てた啓子夫人は、かつて尚家資産の管理を担当していた新琉球実業社の元幹部で、「モーニング・スター」(英文日刊紙・1975年廃刊)の元社主だった小川武氏(2017年逝去)に債務整理を依頼する。
小川氏は、尚本家の債務整理に協力し、家族の生活資金まで工面したようだが、債務整理のめどが付いた1983年7月ごろになって裕氏が再び姿を現す。尚本家の財産は、尚本家が地元自治体の協力を得て起ち上げた尚家管理財団(尚財団)が管理することになった。
小川氏は債務整理の過程で生じた売却益を申告しなかった法人税法違反(脱税)の容疑で国税庁から告発され、罰金1億2千万円、懲役1年6月の実刑判決を受けたが(1987年7月、東京高裁で確定)、裕氏の小川氏に対する信頼は厚く、服役後、尚財団の理事長に就任している。
紆余曲折を経て、裕氏は、1992年に玉陵、識名園、旧崇元寺を那覇市に寄贈、1995年には、浦添ようどれを浦添市に寄贈している。さらに同年、琉球王府の古文書1341件を、翌96年には王冠や刀剣を含む85点の美術工芸品を那覇市に寄贈した。尚本家から寄贈されたこれらの資料は、2006年に「尚家関係資料」として国宝に指定されている。
こうした功績をたたえて、裕氏は、1996年に那覇市名誉市民の称号を授与されたが、1997年に沖縄で逝去した。
尚衞氏は、この裕氏の長男として、1950年8月18日に東京で生まれた。東京都千代田区立永田町小学校、同麹町中学校を経て玉川学園高等部に進み、玉川大学を卒業後、“西武”に就職したが、数年で退社してモデル業に転身、スーパーのチラシのモデルや映画のエキストラを経験したという。
尚本家が債務整理の只中にあった1982年5月15日、衞氏は岩邊みどり氏と結婚、みどり氏の連れ子の陽輔氏も尚家の一員となった。
1993年、衞氏は米国アラバマ州サムフォード大学に留学し、MBA(経営学修士)を取得する。みどり夫人とのあいだに生まれた、当時小学3年生の猛氏、連れ子の陽輔氏を含む家族四人での移住だった。
留学資金は、小川氏が用意した。5年後にはみどり夫人が親の介護のために帰国、男三人所帯となる。衞氏は、現地で貿易会社を興すが、事業に失敗した上、女性絡みのトラブルが訴訟沙汰に発展し、息子二人を米国に置いたまま逃げるように帰国してしまう。残された二人の息子は、異国の地でそれこそ辛酸をなめるような苦労を味わったようだ。
陽輔氏は、大学を卒業後、現地で就職・結婚、いまも米国在住だが、猛氏は高校卒業後に帰国、日本の大学を卒業して、現在は大手ディスカウントストア・チェーンの海外事業部門に勤務している。
帰国した衞氏は離婚し、東京暮らしを経た後、最終的には姉の野津圭子氏(裕氏三女)を頼った。圭子氏の嫁ぎ先は、岡山を拠点に事業を展開するカバヤ食品(現・日本カバヤ・オハヨーホールディングス)の創業家・野津家の喬(たかし)氏(2017年逝去)である。現・代表取締役社長・基弘氏は、喬・圭子夫妻の長男だ。尚家と野津家との縁は深く、圭子夫人の妹の薫氏(裕氏四女)も、喬氏の弟・公(ただし)氏(2009年逝去)に嫁いでいる。また、喬・圭子夫妻の息女は自民党幹事長代理の井上信治衆院議員の妻である。
衞氏は野津家の援助を受けたものの、その足元は定まらなかった。
そして2013年ごろから、圭子氏は、急に「王家の血筋」への拘りを見せるようになったという。
語るのは、沖縄の金武御殿(きんうどぅん)門中会の元事務局長・野村朝生(ちょうしょう)氏である。金武御殿門中会とは、王家不在の沖縄で、尚本家に代わって王家の行事を任されてきた一門である。「御殿」は、王家に連なる一族で、本土でいえば宮家のような存在だ。
「2013年のことですが、圭子様から突然お電話をいただき、亡くなったお父上・裕様のことを本にしたい、とおっしゃるのです。圭子様が沖縄にお見えになると、王家縁(ゆかり)のさまざまな場所にご案内申し上げました。圭子様は、衞様が沖縄にお戻りになるための地固めをされているのではないか、という印象でした」
この時期、圭子氏は、霊力があるとされる松堂玖邇(しょうどうくに)氏を、琉球王朝最高位の神職である聞得大君(きこえおおぎみ)に任命していた。
聞得大君は代々、王妃、王女など、王に直結する女性が務めてきた、琉球独自の由緒ある神職だが、明治期に王位が廃止されてからも続いていたようだ。しかし、王と一体になって琉球国を守護する神職なので、明治以降の聞得大君は公式の存在ではない。基本的に王家の男系女子が務める神職でもある。
圭子氏の当面の目標は、首里にある世界遺産・玉陵で尚本家主催の御清明祭を執り行うことにあった。御清明祭とは、沖縄で一般化している祖先供養の行事で、王家の行為には接頭辞「御」をつける。圭子氏には、玉陵での御清明祭を通じて、衞氏の「王」としての権威を回復したい、という思いがあったようだ。
「尚家の御清明祭は、ずっと金武御殿が行ってきました。明治の琉球処分で、尚家の8人の王子は皆東京に行きました。そのため金武御殿が尚家に代わり御清明祭を守ってきたのです」
と、先の金武御殿門中会の野村氏は、困惑したような表情で語る。
「御清明祭は、昭和15年までは毎年執り行われ、16年から20年までは中断、昭和21年に復活しました。沖縄は焼け野原で、金武御殿の方々も掘立て小屋に住んでいるような状態でしたが、なけなしのお供物、器を持ち寄って復活させたのです。私どもは極力、昭和15年以前の形でやっていこうと、明治生まれの方々から、24品ある供物の並べ方など、儀式の所作についても教えてもらい、その費用も含めて、金武御殿が祭祀(さいし)を行ってきました。これは那覇市にも認めていただいています。衞様にも毎年お知らせしてきましたが、ずっとお越しにならなかった」
那覇市に取材すると、2003年4月9日付の「世界遺産・重要文化財・国指定史跡『玉陵』における清明の祭祀について」という文書が残っていた。それによれば、「(玉陵の御清明祭の)許可は、歴史的・文化的経緯に基づき、向氏仁淵堂(しょうしじんえんどう)金武御殿門中会に限って認められる」と記載されている。金武御殿は那覇市のお墨付きを得て御清明祭を行っているのだ。衞氏、野津圭子氏はそこに割り込もうとしたのである。
圭子氏の動きが活発になるのは、2014年に入ってからだ。尚本家や沖縄に関心の薄かった衞氏を従えて、王朝の祭事などに進んで出席するようになる。
まず、伊是名島で2014年5月に行われた稲之穂祭(豊饒を祈願する祭ウマチー)で、圭子氏は、松堂氏に代わって自ら第20代聞得大君を名乗り、儀式の祭主を務めた。
そして圭子氏と衞氏は、翌2015年4月初めに、尚本家の先祖が眠る国の重要文化財・伊是名玉御殿(同島)で催行された公事清明祭に初めて参加する。その翌年も、翌々年も同様に参加したのである。
そして2018年、伊是名玉御殿での公事清明祭に参加した後の4月6日、祭主として初めて玉陵の御清明祭を司(つかさど)った。これについて、地元メディアは、次のように伝えている。
「第二尚氏王統の尚本家の清明祭が6日午前、沖縄県那覇市首里の玉陵で開かれた。第23代当主の尚衞さん=岡山県=を始め一族7人、来賓25人が参加し、琉球王朝時代の清明祭を再現した。/衞さんによると、尚本家の玉陵での清明祭は約40年ぶり。衞さんは、来年以降も開催する考えを示した」(2018年4月6日付「琉球新報」)
これには、血のつながった子息の猛氏も参加している。このとき、衞氏は自力で祭器をそろえられなかったため、首里城公園を管理運営する沖縄美(ちゅ)ら島(しま)財団の祭器を借りようとしたが、貸し出しを拒絶され、急きょ伊是名村から祭器を取り寄せて儀式は執り行われた。
片や、長年この祭祀を主催してきた金武御殿は別の日に催行している。いわば分裂開催となったのである。
圭子氏・衞氏は、以前から金武御殿主催の御清明祭が不満だったようで、この年の御清明祭の前に、圭子氏は「祭祀道具がそろってない、どうして仕立て直さないのか」と言って金武御殿を叱責している。同御殿幹部は、「多額の経費がかかるので祭器の新調はできないが、伝統的な作法は守っている」と反論したが、衞氏からも呼び出され、「今まで金武御殿は何をしていたのか、お役御免だ」と怒鳴られたという。
メディアは、圭子氏・衞氏の御清明祭の成功を伝えたが、御清明祭をめぐって、圭子氏・衞氏と金武御殿とのあいだに大きな亀裂が生じていたのである。
翌2019年4月の御清明祭も、圭子氏・衞氏と金武御殿の分裂開催となった。衞氏の子息・猛氏は、野村氏らに正統性を見いだしたのか、金武御殿の御清明祭に出席している。その後、コロナで現地には行かれなくなったが、猛氏は金武御殿の御清明祭に合わせ、東京から「遥拝」している。衞氏と猛氏のあいだにも亀裂が入ってしまったのだ。
御清明祭をめぐるこうした動きと同時に進められていたのが、先に触れた養子縁組と「一般社団法人 琉球歴史文化継承振興会」の設立である。
衞氏が、孝之・満喜夫妻と養子縁組を結んだのは2017年8月のことだ。二人は、沖縄や尚本家とはもともとまるで関係がない。
孝之氏は、1977年11月、三重県生まれ。皇學館大学を卒業後神職に就き、その後、同県伊勢市にあり、夫婦岩で知られる二見興玉(ふたみおきたま)神社に奉職し、現在は禰宜(ねぎ)の職にある。
満喜氏は1984年3月生まれ。産能短期大学を卒業後、2005年7月に東京の水天宮に巫女として奉職し、在職中に神職資格を取得。いくつかの神社に勤務した後、夫と同じ二見興玉神社に奉職したという。
伊勢市に住む孝之氏の母は、「尚家の養子になるのは、母親としては驚きでしたが、名誉なことだと感じています。満喜さんは息子が連れて来た人ですから、それだけで納得しています。二人のなれそめなど、詳しいことは知りません」と話す。
いちばんの謎は、すでに猛氏という息子がいる衞氏がどのような経緯でこの二人と知り合い、尚家の養子にとる決意にまで至ったのか、という点である。周囲には、「これからは孝之・満喜夫妻には祭祀を担当してもらいたい。そのための養子縁組である」と説明していたらしい。
衞氏と孝之・満喜夫妻が知り合ったプロセスについて、尚家関係者は、「圭子さんが衞さんより先に知り合ったのだと思います。お二人は神事に通じており、満喜さんなら聞得大君という大役をこなせそうだと判断して衞氏に引き合わせたのではないでしょうか」と言うが、本土と沖縄の神事(とくに尚王朝の神事)は祝詞(のりと)、儀式の手順、祭器、供物などの点で大幅に違う。
2019年5月、衞氏は先に触れた「振興会」を設立し、副代表理事に満喜氏を据えた。以後、どこに行くにも満喜氏を同行させ、各種行事や取材などでも、満喜氏を前面に出している。
同年9月17日に野津圭子氏が亡くなる。最大の後ろ盾を失った衞氏は、圭子氏の子息・基弘氏との関係が悪化しており、葬儀にも出席できなかったという(ただし、満喜氏は出席したとされる)。以後、衞氏は孝之・満喜夫妻の住む伊勢市で暮らしている。
そして、2020年に入ると、満喜氏は第21代聞得大君に就任する。当主・衞氏の指名による就任だが、必要な儀式を欠いて就任したためか、満喜氏本人は「臨時聞得大君」と称している。
沖縄のある神社関係者は、「満喜さんは、沖縄出身でもなければ、沖縄の言葉にも歴史や神事にも通じていない。満喜さんが尚王家の伝統的な神事を司れるとは思えません。言葉は悪いですが、たんなる“聞得大君ゴッコ”に終わるんじゃないか」とそっけない。
ただ聞得大君就任後の満喜氏の活動には目を見張るものがある。「振興会」のホームページなどで発信される情報を見るかぎり、「尚本家の主役は私よ」といわんばかりの活躍ぶりだ。
一方で、地味ながら、着実に「政治力」を発揮できる活動にも参加している。
その一つが「片目失明者友の会」副代表としての活動である。久山公明代表に満喜氏のことを尋ねてみた。
「当会は私が2013年に一人で立ち上げた任意団体です。現在片目失明者は障害者に認定されておらず、こうした現状を変えるべく結成しました。お父様も義理のお父様(衞氏)も片目失明者だとのことで、満喜さんのほうから連絡が来ました。人柄もよく、義理のお父様が尚家の23代ということですし、神社関係に広い人脈をお持ちのご様子だったので、2年ほど前から満喜さんに副代表をお願いしています」
さらにこう続ける。
「実際に友の会の相談役に三重の鈴木英敬衆院議員(自民党、前三重県知事)などを紹介していただきました。おかげで会が広がり、安定感が出てきました」
では、満喜氏とは一体どんな人物なのか。
「かつて政治塾へ行って勉強されたとも聞きました。政治家への野心はお持ちだと思います」
衞氏の守護神だった野津圭子氏同様、満喜氏がなんともたくましい女性に見える。衞氏は、その「たくましさ」に焦がれて養子にしたのではないか?
ことの真偽を確かめるため、本誌(「週刊新潮」)編集部は、衞氏並びに満喜氏にたびたび取材を申し込んだが、弁護士を通じて拒否された。
他方、衞氏の子息である猛氏は、「これまで玉陵で行ってきた金武御殿とともに、先祖をお祭りする御清明祭を守っていきたい。沖縄に行くことができれば参加するし、無理なときは東京で遥拝したい」というコメントを寄せてきた。
10代で米国に置いてきぼりにされるという苦い経験を乗り越えてきた猛氏のほうが、衞氏よりはるかに「王様」の風格があるようだ。那覇在住の尚勇(いさむ)氏(尚泰の子・尚時の末裔)も猛氏に大きな期待を寄せている。
現在のところ、衞氏と、猛氏・金武御殿の両者が和解する気配はまるでない。
篠原 章(しのはらあきら)評論家。1956年山梨県生まれ。経済学博士(成城大学)。大学教員を経て評論活動に入る。主なフィールドは音楽文化、沖縄、社会経済一般で、著書に『沖縄の不都合な真実』(大久保潤との共著)、『外連の島・沖縄』などがある。
「週刊新潮」2024年1月25日号 掲載

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