87歳、遠方ひとり暮らしの父が「俺は家で死ぬ」と宣言…娘である私が直面した、在宅看取りの「甘くない現実」

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「在宅死の現実について、深く考えさせられた」「在宅看取りへの過程で親子の関係性が変わり、確かな絆ができたことに感動した」
【写真】この記事の写真を見る(4枚) 昨年8月に刊行した『家で死ぬということ ひとり暮らしの親を看取るまで』(文藝春秋)に、読者からたくさんの反響をいただいている。 拙著は、静岡県伊東市でひとり暮らしをしていた父を、3年近くの遠距離介護の末に在宅で看取った経緯を綴ったものだ。 個人的な体験、それも「親の死」というデリケートな話をありのままに書こうと思ったのは、次々と想定外の事態に直面し、「家で死ぬということ」のリアルな実態が知られていないと痛感したからだ。

ここでは拙著の一部を紹介しつつ、あらためて在宅死や在宅看取りの現状を述べてみたい。※写真はイメージです iStock.com87歳、ひとり暮らしだった父親 2019年、当時87歳でひとり暮らしだった父は大腿骨を骨折し、緊急入院した。入院時に重度の腎不全が判明、医師からは人工透析を受けるよう勧められた。ところが父は積極的な治療を拒み、「病院も施設もご免だ。俺は家で死ぬ」と言い張った。 母は10年前に亡くなり、父の息子、私にとっての兄はALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病で寝たきりだ。いくら「家で死ぬ」と望まれても、父の世話をするのは電車で往復6時間の場所に住む私しかいない。 介護保険を申請したが、認定結果は「要支援2」。週に1度、1時間のヘルパー訪問と、同じく週に1度、半日のデイサービス利用のみという体制だ。 私は仕事をやりくりし、いわゆるビジネスケアラーとして父のもとに通っていたが、通院時の付き添いなどが大きな負担となっていた。公的サポートが打ち切りに おまけに1年後の介護保険更新時、よりによって認定結果は「非該当」、つまり公的な介護サービスは打ち切りとなってしまう。 その時点で父は88歳、末期腎不全のひとり暮らしにもかかわらず、認定結果通知書には「心身ともに自立と判定」と記載されていた。 どうして打ち切り? 私だけでなく、多くの人は疑問に感じるだろう。とはいえこれは私の父に限った話ではなく、高齢者の誰にも起こり得る。 一般的にはあまり知られていないが、介護保険の認定(更新含む)審査時には、認定調査員による訪問調査や主治医の意見書をもとにコンピュータでの一次判定、次に市区町村が任命した保健、医療、福祉の専門家からなる介護認定審査会での二次判定が行なわれる。 このうち認定調査員による訪問調査では、全国共通の74項目の基本調査が実施される。「身体機能・起居動作」、「生活機能」、「認知機能」、「精神・行動障害」、「社会生活への適応」の5分野と、過去14日間に受けた特別な医療が該当項目だ。 たとえば「移動」、「食事摂取」、「洗顔」、「上衣の着脱」、「排尿」などは、(1)介助されていない(2)見守り等(3)一部介助(4)全介助 の中から当てはまるものを回答する。 手足が動かないなどの身体的な障害があればともかく、自分でご飯を食べられ、トイレで用を足せるとなれば「介助されていない」、つまり要介護度が低いと見なされる。介護保険の甘くない現実 父は末期腎不全ながらも自分で食事が摂れ、トイレで排泄でき、金銭管理などの認知能力にも問題がなかった。 おまけに人工透析という積極的な治療、言い換えれば延命治療を拒み、できる限り自立した生活を送ろうとしたため、皮肉なことに「心身ともに自立」と判定されたわけだ。 役所で申請すれば介護保険が使える、そんなふうに予想する人は多いが、現実はそう甘いものではない。 介護保険の打ち切りから1年が過ぎた2021年、父は腎不全の悪化により意識喪失で昏倒、今度は腰椎を骨折した。再度の申請をしたが、認定結果はまたも「要支援2」。自分で歩くこともままならないのに、前回同様の脆弱な介護体制だ。 介護保険には「要支援1、2」と「要介護1~5」の区分があるが、このうち「要支援」では入所できる施設も乏しい。 たとえば介護体制が充実している特別養護老人ホームへの入所は原則要介護3以上、医師や看護師などの医療スタッフが常駐する介護老人保健施設(老健)は、要介護1以上と規定されている。有料老人ホームを見学したが… 民間の有料老人ホームでは「自立」や「要支援」の高齢者を受け入れる場合があるが、こちらは医療的ケアの必要性によって入所条件に該当しないことも考えられる。 人工透析、末期ガンの疼痛コントロール、尿道カテーテル交換などは医療行為で、医師や看護師などの有資格者が行う。高度な医療的ケアが必要な利用者は、たとえ民間の施設であっても、「入所条件に該当しない」可能性もあるのだ。 実際、私も父の施設入所を検討し、有料老人ホームに見学に出向いたが、「今後、人工透析を受けるかもしれない」と伝えると、「医療的ケアが必要な人は無理です」と断られた。 介護保険と同様、施設入所にもさまざまなハードルがあることは知っておいたほうがいい。「家で死ぬ」という固い意思 末期腎不全に加え、腰椎圧迫骨折で日常生活が困難になった父だが、それでも「家で死ぬ」という意思は変わらなかった。 在宅死の希望を叶えるためには介護だけでなく医療体制、たとえば24時間、365日、緊急時の対応をしてくれる訪問診療クリニックの利用が不可欠だ。 ところが肝心のクリニックが見つからなかった。ホームページには「訪問診療」と書かれていても、実際に問い合わせると「外来休診日の週に1日だけ」とか、「医師不足で新規の患者は受け付けられない」などと返ってくる。 24時間、365日体制で在宅医療に対応するクリニックは、在宅療養支援診療所と呼ばれる。実際に「在宅看取り」を行う診療所は、全国の診療所全体のわずか5%に過ぎず、当時の私はそういう知識も持っていなかった。 やむを得ず外来専用の個人クリニックに通院するしかなかったが、こちらはこちらで末期の高齢患者を持て余し、「早く訪問診療クリニックに移ってください」と敬遠される。 前述したように、要支援2の脆弱な介護体制の上、訪問診療をしてくれる医師もいない。私は仕事の傍ら遠距離介護をつづけ、ケアマネジャーをはじめとして周囲の協力を得ながら、なんとか父の願いを叶えようと奔走した。父と娘の衝突 一方で、何度となく父とぶつかり、対立した。元教員の父は頑固で、よかれと思って意見しても容易に耳を貸さない。介護事業所からの緊急呼び出しで出張先から駆けつけても、迷惑そうな顔で不貞腐れたりする。 やってられない、もう死んじゃえばいいのに……、黒々とした感情が押し寄せ、心身の疲労は深まるばかりだった。 それでも父と関わらざるを得ない日々の中、思いもしなかった本音を知り、深く考えさせられることも少なくなかった。 たとえば父が人工透析を拒んだ件。私には現代医療への理解力のなさ、単に現実逃避しているように見えていたが、本当のところは違った。あるとき話し合いの中で、突然父が涙を流した。父が吐露した本音「ずっとがんばってきたけど、もう疲れた……」 明るくしっかり者だった伴侶の母が亡くなり、きょうだいや親しい友人も次々と旅立っていく。 多少の近所づきあいがあるとはいえ、ネットもスマホも使えない超高齢者の父は日がな一日、これといった楽しみもないままひとりの時間を持て余す。 大病院でのカード式自動受付やスーパーの自動精算機に対応できず、テレビのニュース番組では「詳しい情報はQRコードを読み込んで」と流れてちんぷんかんぷん。 キャッシュレスだの、AIだの、スピード化する社会状況に到底ついていけず、といって誰かの助けを借りるのは「申し訳ない」と遠慮が先立つ。 表向きは「俺はひとりで大丈夫だ」、そんなふうに言いつづけた裏側で、寂しさや不安と闘い、家族に心配をかけまいと必死に装っていたことを知るにつけ、老いの孤独に胸が塞がった。「インセン」に困惑 2022年3月、私は仕事を休業し、実家で父と同居をはじめた。次第に歩けなくなり、食べられなくなったころ、ようやく隣市の熱海市から訪問してくれる医師が見つかった。 翌月には介護保険の見直し(区分変更)申請を行ったが、認定結果が出るのは1ヵ月ほど先だ。自費払い覚悟でヘルパーや訪問看護、訪問入浴といった介護体制を拡充させたが、看取り介護の実態は想像以上だった。 とりわけ「インセン」には困惑した。インセンとは陰部洗浄の略、要は「下の世話」だ。異性である父の陰部を洗ったり拭いたりすることには、どうしても抵抗感が拭えない。 一方でヘルパーによる訪問介護は1日1回、1時間のみ。残りの時間は誰か、つまり私がやるしかないわけだが、一連の手順にせよ、準備品にせよ、「にわか」の素人介護ではオロオロすることだらけだ。 おまけに抵抗感を持つのは私だけでなく、父もそうだった。娘に下の世話をしてもらう申し訳なさが募るのか、「もう明日にでも死ねたらなぁ」と気弱な言葉が漏れる。在宅死=理想的な死と言えるか 住み慣れた家で、家族に看取られて死ぬということは、一方では下の世話をはじめとしたさまざまな現実に直面することにもなる。 訪問介護を担うヘルパーの人手不足。ナースコールも特段の医療機器もない自宅という環境。その中で呼吸困難に見舞われたり、痛みに襲われたり、不安に苛まれるようなことも起こり得る。 そういう現実を見越した上で、それでも在宅死=理想的な死と言えるかどうか、死にゆく人も、看取る側も、それぞれ相応の覚悟が必要ではないかと思う。 5月初旬、父は住み慣れた自宅で、私と私の次男に看取られ亡くなった。葬儀のあとに「要介護3」という介護保険の認定通知が届いたが、今さらという気持ちは拭えなかった。 更新時には「打ち切り」、その後の再申請でも到底必要な介護体制が整わず、いったい介護保険は誰をどう助けるのか、そんな無念と疑問は膨らむ。 さらに今後、私と同様の状況に陥る人はおそらくどんどん増えるだろう。現状では約9割が1割負担だが… 2000年にはじまった介護保険制度は3年に一度改正され、次回は2024年、次々回は2027年だ。今後の改正では、利用時の自己負担割合を原則2割以上(現状は所得に応じて1~3割負担)、ケアプラン(介護計画書)の有料化、要介護1、2の認定者を介護保険の非対象とする案などが検討されている。 現状では約9割が1割負担だが、仮に原則2割負担となった場合には、たとえば1ヵ月3万円の自己負担分が6万円、年間では36万円も増額する。 高齢者の約半数は年金や恩給のみで生活し、高齢者世帯の約3軒に1軒は年間所得が200万円以下だ。 公的施設の入所者には、年金と貯蓄の取り崩しで費用を賄うといったケースも多いが、介護保険の自己負担分が増えることで支払いができなくなる恐れもあるだろう。 高齢者の施設入所が厳しくなれば、否応なく在宅介護をせざるを得ない。そもそも国は、「地域包括ケアシステム」と称し、在宅での医療や介護を中心とした高齢者支援の方向性を打ち出している。2025年には団塊世代がすべて75歳以上の後期高齢者となり、一層の社会保障費増額が予想されるからだ。 入院や施設入所に比べ、自宅で、家族介護を受けてもらったほうが公費負担は減る。要は安上りな方法を推進するために、「住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるようになります」(厚生労働省/「在宅医療・介護の推進について」より抜粋)と謳うが、果たして本当だろうか。「自分事」として考えてほしい 私が体験したように、親の介護サービスが打ち切られるとか、訪問診療クリニックが見つからないとか、実際の在宅介護には数多くの問題が生じる。 介護や医療スタッフがいないとき、誰が、どうやって世話をするのかという問題は、実のところ当の高齢者だけでなく子世代、つまり現役世代に深く関わる問題だ。 私は多忙な仕事を持ち、疲労や不安と闘いながら、かろうじて遠距離介護をつづけた。同じようなビジネスケアラーは2030年に318万人に増加、離職や労働生産性の低下によって9兆1792億円の経済損失額が生じる(経済産業省/産業構造審議会部会試算)と予想されている。 どこで、どんなふうに死ぬか。 誰が、どうやって親を看取るのか。 自分の仕事や家庭生活と、親の介護は両立できるのか。 超高齢化社会と言われるこの国で、高齢者も、その子世代である現役世代も、「自分事」としてしっかりと考え、介護や看取りに関心を持ってほしいと思う。(石川 結貴)
昨年8月に刊行した『家で死ぬということ ひとり暮らしの親を看取るまで』(文藝春秋)に、読者からたくさんの反響をいただいている。
拙著は、静岡県伊東市でひとり暮らしをしていた父を、3年近くの遠距離介護の末に在宅で看取った経緯を綴ったものだ。
個人的な体験、それも「親の死」というデリケートな話をありのままに書こうと思ったのは、次々と想定外の事態に直面し、「家で死ぬということ」のリアルな実態が知られていないと痛感したからだ。
ここでは拙著の一部を紹介しつつ、あらためて在宅死や在宅看取りの現状を述べてみたい。
※写真はイメージです iStock.com
2019年、当時87歳でひとり暮らしだった父は大腿骨を骨折し、緊急入院した。入院時に重度の腎不全が判明、医師からは人工透析を受けるよう勧められた。ところが父は積極的な治療を拒み、「病院も施設もご免だ。俺は家で死ぬ」と言い張った。
母は10年前に亡くなり、父の息子、私にとっての兄はALS(筋萎縮性側索硬化症)という難病で寝たきりだ。いくら「家で死ぬ」と望まれても、父の世話をするのは電車で往復6時間の場所に住む私しかいない。
介護保険を申請したが、認定結果は「要支援2」。週に1度、1時間のヘルパー訪問と、同じく週に1度、半日のデイサービス利用のみという体制だ。
私は仕事をやりくりし、いわゆるビジネスケアラーとして父のもとに通っていたが、通院時の付き添いなどが大きな負担となっていた。
公的サポートが打ち切りに おまけに1年後の介護保険更新時、よりによって認定結果は「非該当」、つまり公的な介護サービスは打ち切りとなってしまう。 その時点で父は88歳、末期腎不全のひとり暮らしにもかかわらず、認定結果通知書には「心身ともに自立と判定」と記載されていた。 どうして打ち切り? 私だけでなく、多くの人は疑問に感じるだろう。とはいえこれは私の父に限った話ではなく、高齢者の誰にも起こり得る。 一般的にはあまり知られていないが、介護保険の認定(更新含む)審査時には、認定調査員による訪問調査や主治医の意見書をもとにコンピュータでの一次判定、次に市区町村が任命した保健、医療、福祉の専門家からなる介護認定審査会での二次判定が行なわれる。 このうち認定調査員による訪問調査では、全国共通の74項目の基本調査が実施される。「身体機能・起居動作」、「生活機能」、「認知機能」、「精神・行動障害」、「社会生活への適応」の5分野と、過去14日間に受けた特別な医療が該当項目だ。 たとえば「移動」、「食事摂取」、「洗顔」、「上衣の着脱」、「排尿」などは、(1)介助されていない(2)見守り等(3)一部介助(4)全介助 の中から当てはまるものを回答する。 手足が動かないなどの身体的な障害があればともかく、自分でご飯を食べられ、トイレで用を足せるとなれば「介助されていない」、つまり要介護度が低いと見なされる。介護保険の甘くない現実 父は末期腎不全ながらも自分で食事が摂れ、トイレで排泄でき、金銭管理などの認知能力にも問題がなかった。 おまけに人工透析という積極的な治療、言い換えれば延命治療を拒み、できる限り自立した生活を送ろうとしたため、皮肉なことに「心身ともに自立」と判定されたわけだ。 役所で申請すれば介護保険が使える、そんなふうに予想する人は多いが、現実はそう甘いものではない。 介護保険の打ち切りから1年が過ぎた2021年、父は腎不全の悪化により意識喪失で昏倒、今度は腰椎を骨折した。再度の申請をしたが、認定結果はまたも「要支援2」。自分で歩くこともままならないのに、前回同様の脆弱な介護体制だ。 介護保険には「要支援1、2」と「要介護1~5」の区分があるが、このうち「要支援」では入所できる施設も乏しい。 たとえば介護体制が充実している特別養護老人ホームへの入所は原則要介護3以上、医師や看護師などの医療スタッフが常駐する介護老人保健施設(老健)は、要介護1以上と規定されている。有料老人ホームを見学したが… 民間の有料老人ホームでは「自立」や「要支援」の高齢者を受け入れる場合があるが、こちらは医療的ケアの必要性によって入所条件に該当しないことも考えられる。 人工透析、末期ガンの疼痛コントロール、尿道カテーテル交換などは医療行為で、医師や看護師などの有資格者が行う。高度な医療的ケアが必要な利用者は、たとえ民間の施設であっても、「入所条件に該当しない」可能性もあるのだ。 実際、私も父の施設入所を検討し、有料老人ホームに見学に出向いたが、「今後、人工透析を受けるかもしれない」と伝えると、「医療的ケアが必要な人は無理です」と断られた。 介護保険と同様、施設入所にもさまざまなハードルがあることは知っておいたほうがいい。「家で死ぬ」という固い意思 末期腎不全に加え、腰椎圧迫骨折で日常生活が困難になった父だが、それでも「家で死ぬ」という意思は変わらなかった。 在宅死の希望を叶えるためには介護だけでなく医療体制、たとえば24時間、365日、緊急時の対応をしてくれる訪問診療クリニックの利用が不可欠だ。 ところが肝心のクリニックが見つからなかった。ホームページには「訪問診療」と書かれていても、実際に問い合わせると「外来休診日の週に1日だけ」とか、「医師不足で新規の患者は受け付けられない」などと返ってくる。 24時間、365日体制で在宅医療に対応するクリニックは、在宅療養支援診療所と呼ばれる。実際に「在宅看取り」を行う診療所は、全国の診療所全体のわずか5%に過ぎず、当時の私はそういう知識も持っていなかった。 やむを得ず外来専用の個人クリニックに通院するしかなかったが、こちらはこちらで末期の高齢患者を持て余し、「早く訪問診療クリニックに移ってください」と敬遠される。 前述したように、要支援2の脆弱な介護体制の上、訪問診療をしてくれる医師もいない。私は仕事の傍ら遠距離介護をつづけ、ケアマネジャーをはじめとして周囲の協力を得ながら、なんとか父の願いを叶えようと奔走した。父と娘の衝突 一方で、何度となく父とぶつかり、対立した。元教員の父は頑固で、よかれと思って意見しても容易に耳を貸さない。介護事業所からの緊急呼び出しで出張先から駆けつけても、迷惑そうな顔で不貞腐れたりする。 やってられない、もう死んじゃえばいいのに……、黒々とした感情が押し寄せ、心身の疲労は深まるばかりだった。 それでも父と関わらざるを得ない日々の中、思いもしなかった本音を知り、深く考えさせられることも少なくなかった。 たとえば父が人工透析を拒んだ件。私には現代医療への理解力のなさ、単に現実逃避しているように見えていたが、本当のところは違った。あるとき話し合いの中で、突然父が涙を流した。父が吐露した本音「ずっとがんばってきたけど、もう疲れた……」 明るくしっかり者だった伴侶の母が亡くなり、きょうだいや親しい友人も次々と旅立っていく。 多少の近所づきあいがあるとはいえ、ネットもスマホも使えない超高齢者の父は日がな一日、これといった楽しみもないままひとりの時間を持て余す。 大病院でのカード式自動受付やスーパーの自動精算機に対応できず、テレビのニュース番組では「詳しい情報はQRコードを読み込んで」と流れてちんぷんかんぷん。 キャッシュレスだの、AIだの、スピード化する社会状況に到底ついていけず、といって誰かの助けを借りるのは「申し訳ない」と遠慮が先立つ。 表向きは「俺はひとりで大丈夫だ」、そんなふうに言いつづけた裏側で、寂しさや不安と闘い、家族に心配をかけまいと必死に装っていたことを知るにつけ、老いの孤独に胸が塞がった。「インセン」に困惑 2022年3月、私は仕事を休業し、実家で父と同居をはじめた。次第に歩けなくなり、食べられなくなったころ、ようやく隣市の熱海市から訪問してくれる医師が見つかった。 翌月には介護保険の見直し(区分変更)申請を行ったが、認定結果が出るのは1ヵ月ほど先だ。自費払い覚悟でヘルパーや訪問看護、訪問入浴といった介護体制を拡充させたが、看取り介護の実態は想像以上だった。 とりわけ「インセン」には困惑した。インセンとは陰部洗浄の略、要は「下の世話」だ。異性である父の陰部を洗ったり拭いたりすることには、どうしても抵抗感が拭えない。 一方でヘルパーによる訪問介護は1日1回、1時間のみ。残りの時間は誰か、つまり私がやるしかないわけだが、一連の手順にせよ、準備品にせよ、「にわか」の素人介護ではオロオロすることだらけだ。 おまけに抵抗感を持つのは私だけでなく、父もそうだった。娘に下の世話をしてもらう申し訳なさが募るのか、「もう明日にでも死ねたらなぁ」と気弱な言葉が漏れる。在宅死=理想的な死と言えるか 住み慣れた家で、家族に看取られて死ぬということは、一方では下の世話をはじめとしたさまざまな現実に直面することにもなる。 訪問介護を担うヘルパーの人手不足。ナースコールも特段の医療機器もない自宅という環境。その中で呼吸困難に見舞われたり、痛みに襲われたり、不安に苛まれるようなことも起こり得る。 そういう現実を見越した上で、それでも在宅死=理想的な死と言えるかどうか、死にゆく人も、看取る側も、それぞれ相応の覚悟が必要ではないかと思う。 5月初旬、父は住み慣れた自宅で、私と私の次男に看取られ亡くなった。葬儀のあとに「要介護3」という介護保険の認定通知が届いたが、今さらという気持ちは拭えなかった。 更新時には「打ち切り」、その後の再申請でも到底必要な介護体制が整わず、いったい介護保険は誰をどう助けるのか、そんな無念と疑問は膨らむ。 さらに今後、私と同様の状況に陥る人はおそらくどんどん増えるだろう。現状では約9割が1割負担だが… 2000年にはじまった介護保険制度は3年に一度改正され、次回は2024年、次々回は2027年だ。今後の改正では、利用時の自己負担割合を原則2割以上(現状は所得に応じて1~3割負担)、ケアプラン(介護計画書)の有料化、要介護1、2の認定者を介護保険の非対象とする案などが検討されている。 現状では約9割が1割負担だが、仮に原則2割負担となった場合には、たとえば1ヵ月3万円の自己負担分が6万円、年間では36万円も増額する。 高齢者の約半数は年金や恩給のみで生活し、高齢者世帯の約3軒に1軒は年間所得が200万円以下だ。 公的施設の入所者には、年金と貯蓄の取り崩しで費用を賄うといったケースも多いが、介護保険の自己負担分が増えることで支払いができなくなる恐れもあるだろう。 高齢者の施設入所が厳しくなれば、否応なく在宅介護をせざるを得ない。そもそも国は、「地域包括ケアシステム」と称し、在宅での医療や介護を中心とした高齢者支援の方向性を打ち出している。2025年には団塊世代がすべて75歳以上の後期高齢者となり、一層の社会保障費増額が予想されるからだ。 入院や施設入所に比べ、自宅で、家族介護を受けてもらったほうが公費負担は減る。要は安上りな方法を推進するために、「住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるようになります」(厚生労働省/「在宅医療・介護の推進について」より抜粋)と謳うが、果たして本当だろうか。「自分事」として考えてほしい 私が体験したように、親の介護サービスが打ち切られるとか、訪問診療クリニックが見つからないとか、実際の在宅介護には数多くの問題が生じる。 介護や医療スタッフがいないとき、誰が、どうやって世話をするのかという問題は、実のところ当の高齢者だけでなく子世代、つまり現役世代に深く関わる問題だ。 私は多忙な仕事を持ち、疲労や不安と闘いながら、かろうじて遠距離介護をつづけた。同じようなビジネスケアラーは2030年に318万人に増加、離職や労働生産性の低下によって9兆1792億円の経済損失額が生じる(経済産業省/産業構造審議会部会試算)と予想されている。 どこで、どんなふうに死ぬか。 誰が、どうやって親を看取るのか。 自分の仕事や家庭生活と、親の介護は両立できるのか。 超高齢化社会と言われるこの国で、高齢者も、その子世代である現役世代も、「自分事」としてしっかりと考え、介護や看取りに関心を持ってほしいと思う。(石川 結貴)
おまけに1年後の介護保険更新時、よりによって認定結果は「非該当」、つまり公的な介護サービスは打ち切りとなってしまう。
その時点で父は88歳、末期腎不全のひとり暮らしにもかかわらず、認定結果通知書には「心身ともに自立と判定」と記載されていた。
どうして打ち切り? 私だけでなく、多くの人は疑問に感じるだろう。とはいえこれは私の父に限った話ではなく、高齢者の誰にも起こり得る。
一般的にはあまり知られていないが、介護保険の認定(更新含む)審査時には、認定調査員による訪問調査や主治医の意見書をもとにコンピュータでの一次判定、次に市区町村が任命した保健、医療、福祉の専門家からなる介護認定審査会での二次判定が行なわれる。
このうち認定調査員による訪問調査では、全国共通の74項目の基本調査が実施される。「身体機能・起居動作」、「生活機能」、「認知機能」、「精神・行動障害」、「社会生活への適応」の5分野と、過去14日間に受けた特別な医療が該当項目だ。
たとえば「移動」、「食事摂取」、「洗顔」、「上衣の着脱」、「排尿」などは、
(1)介助されていない
(2)見守り等
(3)一部介助
(4)全介助
の中から当てはまるものを回答する。
手足が動かないなどの身体的な障害があればともかく、自分でご飯を食べられ、トイレで用を足せるとなれば「介助されていない」、つまり要介護度が低いと見なされる。
父は末期腎不全ながらも自分で食事が摂れ、トイレで排泄でき、金銭管理などの認知能力にも問題がなかった。
おまけに人工透析という積極的な治療、言い換えれば延命治療を拒み、できる限り自立した生活を送ろうとしたため、皮肉なことに「心身ともに自立」と判定されたわけだ。
役所で申請すれば介護保険が使える、そんなふうに予想する人は多いが、現実はそう甘いものではない。
介護保険の打ち切りから1年が過ぎた2021年、父は腎不全の悪化により意識喪失で昏倒、今度は腰椎を骨折した。再度の申請をしたが、認定結果はまたも「要支援2」。自分で歩くこともままならないのに、前回同様の脆弱な介護体制だ。
介護保険には「要支援1、2」と「要介護1~5」の区分があるが、このうち「要支援」では入所できる施設も乏しい。
たとえば介護体制が充実している特別養護老人ホームへの入所は原則要介護3以上、医師や看護師などの医療スタッフが常駐する介護老人保健施設(老健)は、要介護1以上と規定されている。
民間の有料老人ホームでは「自立」や「要支援」の高齢者を受け入れる場合があるが、こちらは医療的ケアの必要性によって入所条件に該当しないことも考えられる。 人工透析、末期ガンの疼痛コントロール、尿道カテーテル交換などは医療行為で、医師や看護師などの有資格者が行う。高度な医療的ケアが必要な利用者は、たとえ民間の施設であっても、「入所条件に該当しない」可能性もあるのだ。 実際、私も父の施設入所を検討し、有料老人ホームに見学に出向いたが、「今後、人工透析を受けるかもしれない」と伝えると、「医療的ケアが必要な人は無理です」と断られた。 介護保険と同様、施設入所にもさまざまなハードルがあることは知っておいたほうがいい。「家で死ぬ」という固い意思 末期腎不全に加え、腰椎圧迫骨折で日常生活が困難になった父だが、それでも「家で死ぬ」という意思は変わらなかった。 在宅死の希望を叶えるためには介護だけでなく医療体制、たとえば24時間、365日、緊急時の対応をしてくれる訪問診療クリニックの利用が不可欠だ。 ところが肝心のクリニックが見つからなかった。ホームページには「訪問診療」と書かれていても、実際に問い合わせると「外来休診日の週に1日だけ」とか、「医師不足で新規の患者は受け付けられない」などと返ってくる。 24時間、365日体制で在宅医療に対応するクリニックは、在宅療養支援診療所と呼ばれる。実際に「在宅看取り」を行う診療所は、全国の診療所全体のわずか5%に過ぎず、当時の私はそういう知識も持っていなかった。 やむを得ず外来専用の個人クリニックに通院するしかなかったが、こちらはこちらで末期の高齢患者を持て余し、「早く訪問診療クリニックに移ってください」と敬遠される。 前述したように、要支援2の脆弱な介護体制の上、訪問診療をしてくれる医師もいない。私は仕事の傍ら遠距離介護をつづけ、ケアマネジャーをはじめとして周囲の協力を得ながら、なんとか父の願いを叶えようと奔走した。父と娘の衝突 一方で、何度となく父とぶつかり、対立した。元教員の父は頑固で、よかれと思って意見しても容易に耳を貸さない。介護事業所からの緊急呼び出しで出張先から駆けつけても、迷惑そうな顔で不貞腐れたりする。 やってられない、もう死んじゃえばいいのに……、黒々とした感情が押し寄せ、心身の疲労は深まるばかりだった。 それでも父と関わらざるを得ない日々の中、思いもしなかった本音を知り、深く考えさせられることも少なくなかった。 たとえば父が人工透析を拒んだ件。私には現代医療への理解力のなさ、単に現実逃避しているように見えていたが、本当のところは違った。あるとき話し合いの中で、突然父が涙を流した。父が吐露した本音「ずっとがんばってきたけど、もう疲れた……」 明るくしっかり者だった伴侶の母が亡くなり、きょうだいや親しい友人も次々と旅立っていく。 多少の近所づきあいがあるとはいえ、ネットもスマホも使えない超高齢者の父は日がな一日、これといった楽しみもないままひとりの時間を持て余す。 大病院でのカード式自動受付やスーパーの自動精算機に対応できず、テレビのニュース番組では「詳しい情報はQRコードを読み込んで」と流れてちんぷんかんぷん。 キャッシュレスだの、AIだの、スピード化する社会状況に到底ついていけず、といって誰かの助けを借りるのは「申し訳ない」と遠慮が先立つ。 表向きは「俺はひとりで大丈夫だ」、そんなふうに言いつづけた裏側で、寂しさや不安と闘い、家族に心配をかけまいと必死に装っていたことを知るにつけ、老いの孤独に胸が塞がった。「インセン」に困惑 2022年3月、私は仕事を休業し、実家で父と同居をはじめた。次第に歩けなくなり、食べられなくなったころ、ようやく隣市の熱海市から訪問してくれる医師が見つかった。 翌月には介護保険の見直し(区分変更)申請を行ったが、認定結果が出るのは1ヵ月ほど先だ。自費払い覚悟でヘルパーや訪問看護、訪問入浴といった介護体制を拡充させたが、看取り介護の実態は想像以上だった。 とりわけ「インセン」には困惑した。インセンとは陰部洗浄の略、要は「下の世話」だ。異性である父の陰部を洗ったり拭いたりすることには、どうしても抵抗感が拭えない。 一方でヘルパーによる訪問介護は1日1回、1時間のみ。残りの時間は誰か、つまり私がやるしかないわけだが、一連の手順にせよ、準備品にせよ、「にわか」の素人介護ではオロオロすることだらけだ。 おまけに抵抗感を持つのは私だけでなく、父もそうだった。娘に下の世話をしてもらう申し訳なさが募るのか、「もう明日にでも死ねたらなぁ」と気弱な言葉が漏れる。在宅死=理想的な死と言えるか 住み慣れた家で、家族に看取られて死ぬということは、一方では下の世話をはじめとしたさまざまな現実に直面することにもなる。 訪問介護を担うヘルパーの人手不足。ナースコールも特段の医療機器もない自宅という環境。その中で呼吸困難に見舞われたり、痛みに襲われたり、不安に苛まれるようなことも起こり得る。 そういう現実を見越した上で、それでも在宅死=理想的な死と言えるかどうか、死にゆく人も、看取る側も、それぞれ相応の覚悟が必要ではないかと思う。 5月初旬、父は住み慣れた自宅で、私と私の次男に看取られ亡くなった。葬儀のあとに「要介護3」という介護保険の認定通知が届いたが、今さらという気持ちは拭えなかった。 更新時には「打ち切り」、その後の再申請でも到底必要な介護体制が整わず、いったい介護保険は誰をどう助けるのか、そんな無念と疑問は膨らむ。 さらに今後、私と同様の状況に陥る人はおそらくどんどん増えるだろう。現状では約9割が1割負担だが… 2000年にはじまった介護保険制度は3年に一度改正され、次回は2024年、次々回は2027年だ。今後の改正では、利用時の自己負担割合を原則2割以上(現状は所得に応じて1~3割負担)、ケアプラン(介護計画書)の有料化、要介護1、2の認定者を介護保険の非対象とする案などが検討されている。 現状では約9割が1割負担だが、仮に原則2割負担となった場合には、たとえば1ヵ月3万円の自己負担分が6万円、年間では36万円も増額する。 高齢者の約半数は年金や恩給のみで生活し、高齢者世帯の約3軒に1軒は年間所得が200万円以下だ。 公的施設の入所者には、年金と貯蓄の取り崩しで費用を賄うといったケースも多いが、介護保険の自己負担分が増えることで支払いができなくなる恐れもあるだろう。 高齢者の施設入所が厳しくなれば、否応なく在宅介護をせざるを得ない。そもそも国は、「地域包括ケアシステム」と称し、在宅での医療や介護を中心とした高齢者支援の方向性を打ち出している。2025年には団塊世代がすべて75歳以上の後期高齢者となり、一層の社会保障費増額が予想されるからだ。 入院や施設入所に比べ、自宅で、家族介護を受けてもらったほうが公費負担は減る。要は安上りな方法を推進するために、「住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるようになります」(厚生労働省/「在宅医療・介護の推進について」より抜粋)と謳うが、果たして本当だろうか。「自分事」として考えてほしい 私が体験したように、親の介護サービスが打ち切られるとか、訪問診療クリニックが見つからないとか、実際の在宅介護には数多くの問題が生じる。 介護や医療スタッフがいないとき、誰が、どうやって世話をするのかという問題は、実のところ当の高齢者だけでなく子世代、つまり現役世代に深く関わる問題だ。 私は多忙な仕事を持ち、疲労や不安と闘いながら、かろうじて遠距離介護をつづけた。同じようなビジネスケアラーは2030年に318万人に増加、離職や労働生産性の低下によって9兆1792億円の経済損失額が生じる(経済産業省/産業構造審議会部会試算)と予想されている。 どこで、どんなふうに死ぬか。 誰が、どうやって親を看取るのか。 自分の仕事や家庭生活と、親の介護は両立できるのか。 超高齢化社会と言われるこの国で、高齢者も、その子世代である現役世代も、「自分事」としてしっかりと考え、介護や看取りに関心を持ってほしいと思う。(石川 結貴)
民間の有料老人ホームでは「自立」や「要支援」の高齢者を受け入れる場合があるが、こちらは医療的ケアの必要性によって入所条件に該当しないことも考えられる。
人工透析、末期ガンの疼痛コントロール、尿道カテーテル交換などは医療行為で、医師や看護師などの有資格者が行う。高度な医療的ケアが必要な利用者は、たとえ民間の施設であっても、「入所条件に該当しない」可能性もあるのだ。
実際、私も父の施設入所を検討し、有料老人ホームに見学に出向いたが、「今後、人工透析を受けるかもしれない」と伝えると、「医療的ケアが必要な人は無理です」と断られた。
介護保険と同様、施設入所にもさまざまなハードルがあることは知っておいたほうがいい。
末期腎不全に加え、腰椎圧迫骨折で日常生活が困難になった父だが、それでも「家で死ぬ」という意思は変わらなかった。
在宅死の希望を叶えるためには介護だけでなく医療体制、たとえば24時間、365日、緊急時の対応をしてくれる訪問診療クリニックの利用が不可欠だ。
ところが肝心のクリニックが見つからなかった。ホームページには「訪問診療」と書かれていても、実際に問い合わせると「外来休診日の週に1日だけ」とか、「医師不足で新規の患者は受け付けられない」などと返ってくる。
24時間、365日体制で在宅医療に対応するクリニックは、在宅療養支援診療所と呼ばれる。実際に「在宅看取り」を行う診療所は、全国の診療所全体のわずか5%に過ぎず、当時の私はそういう知識も持っていなかった。
やむを得ず外来専用の個人クリニックに通院するしかなかったが、こちらはこちらで末期の高齢患者を持て余し、「早く訪問診療クリニックに移ってください」と敬遠される。
前述したように、要支援2の脆弱な介護体制の上、訪問診療をしてくれる医師もいない。私は仕事の傍ら遠距離介護をつづけ、ケアマネジャーをはじめとして周囲の協力を得ながら、なんとか父の願いを叶えようと奔走した。
一方で、何度となく父とぶつかり、対立した。元教員の父は頑固で、よかれと思って意見しても容易に耳を貸さない。介護事業所からの緊急呼び出しで出張先から駆けつけても、迷惑そうな顔で不貞腐れたりする。
やってられない、もう死んじゃえばいいのに……、黒々とした感情が押し寄せ、心身の疲労は深まるばかりだった。
それでも父と関わらざるを得ない日々の中、思いもしなかった本音を知り、深く考えさせられることも少なくなかった。
たとえば父が人工透析を拒んだ件。私には現代医療への理解力のなさ、単に現実逃避しているように見えていたが、本当のところは違った。あるとき話し合いの中で、突然父が涙を流した。
「ずっとがんばってきたけど、もう疲れた……」
明るくしっかり者だった伴侶の母が亡くなり、きょうだいや親しい友人も次々と旅立っていく。
多少の近所づきあいがあるとはいえ、ネットもスマホも使えない超高齢者の父は日がな一日、これといった楽しみもないままひとりの時間を持て余す。
大病院でのカード式自動受付やスーパーの自動精算機に対応できず、テレビのニュース番組では「詳しい情報はQRコードを読み込んで」と流れてちんぷんかんぷん。
キャッシュレスだの、AIだの、スピード化する社会状況に到底ついていけず、といって誰かの助けを借りるのは「申し訳ない」と遠慮が先立つ。
表向きは「俺はひとりで大丈夫だ」、そんなふうに言いつづけた裏側で、寂しさや不安と闘い、家族に心配をかけまいと必死に装っていたことを知るにつけ、老いの孤独に胸が塞がった。
2022年3月、私は仕事を休業し、実家で父と同居をはじめた。次第に歩けなくなり、食べられなくなったころ、ようやく隣市の熱海市から訪問してくれる医師が見つかった。
翌月には介護保険の見直し(区分変更)申請を行ったが、認定結果が出るのは1ヵ月ほど先だ。自費払い覚悟でヘルパーや訪問看護、訪問入浴といった介護体制を拡充させたが、看取り介護の実態は想像以上だった。
とりわけ「インセン」には困惑した。インセンとは陰部洗浄の略、要は「下の世話」だ。異性である父の陰部を洗ったり拭いたりすることには、どうしても抵抗感が拭えない。
一方でヘルパーによる訪問介護は1日1回、1時間のみ。残りの時間は誰か、つまり私がやるしかないわけだが、一連の手順にせよ、準備品にせよ、「にわか」の素人介護ではオロオロすることだらけだ。
おまけに抵抗感を持つのは私だけでなく、父もそうだった。娘に下の世話をしてもらう申し訳なさが募るのか、「もう明日にでも死ねたらなぁ」と気弱な言葉が漏れる。
住み慣れた家で、家族に看取られて死ぬということは、一方では下の世話をはじめとしたさまざまな現実に直面することにもなる。
訪問介護を担うヘルパーの人手不足。ナースコールも特段の医療機器もない自宅という環境。その中で呼吸困難に見舞われたり、痛みに襲われたり、不安に苛まれるようなことも起こり得る。
そういう現実を見越した上で、それでも在宅死=理想的な死と言えるかどうか、死にゆく人も、看取る側も、それぞれ相応の覚悟が必要ではないかと思う。 5月初旬、父は住み慣れた自宅で、私と私の次男に看取られ亡くなった。葬儀のあとに「要介護3」という介護保険の認定通知が届いたが、今さらという気持ちは拭えなかった。 更新時には「打ち切り」、その後の再申請でも到底必要な介護体制が整わず、いったい介護保険は誰をどう助けるのか、そんな無念と疑問は膨らむ。 さらに今後、私と同様の状況に陥る人はおそらくどんどん増えるだろう。現状では約9割が1割負担だが… 2000年にはじまった介護保険制度は3年に一度改正され、次回は2024年、次々回は2027年だ。今後の改正では、利用時の自己負担割合を原則2割以上(現状は所得に応じて1~3割負担)、ケアプラン(介護計画書)の有料化、要介護1、2の認定者を介護保険の非対象とする案などが検討されている。 現状では約9割が1割負担だが、仮に原則2割負担となった場合には、たとえば1ヵ月3万円の自己負担分が6万円、年間では36万円も増額する。 高齢者の約半数は年金や恩給のみで生活し、高齢者世帯の約3軒に1軒は年間所得が200万円以下だ。 公的施設の入所者には、年金と貯蓄の取り崩しで費用を賄うといったケースも多いが、介護保険の自己負担分が増えることで支払いができなくなる恐れもあるだろう。 高齢者の施設入所が厳しくなれば、否応なく在宅介護をせざるを得ない。そもそも国は、「地域包括ケアシステム」と称し、在宅での医療や介護を中心とした高齢者支援の方向性を打ち出している。2025年には団塊世代がすべて75歳以上の後期高齢者となり、一層の社会保障費増額が予想されるからだ。 入院や施設入所に比べ、自宅で、家族介護を受けてもらったほうが公費負担は減る。要は安上りな方法を推進するために、「住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるようになります」(厚生労働省/「在宅医療・介護の推進について」より抜粋)と謳うが、果たして本当だろうか。「自分事」として考えてほしい 私が体験したように、親の介護サービスが打ち切られるとか、訪問診療クリニックが見つからないとか、実際の在宅介護には数多くの問題が生じる。 介護や医療スタッフがいないとき、誰が、どうやって世話をするのかという問題は、実のところ当の高齢者だけでなく子世代、つまり現役世代に深く関わる問題だ。 私は多忙な仕事を持ち、疲労や不安と闘いながら、かろうじて遠距離介護をつづけた。同じようなビジネスケアラーは2030年に318万人に増加、離職や労働生産性の低下によって9兆1792億円の経済損失額が生じる(経済産業省/産業構造審議会部会試算)と予想されている。 どこで、どんなふうに死ぬか。 誰が、どうやって親を看取るのか。 自分の仕事や家庭生活と、親の介護は両立できるのか。 超高齢化社会と言われるこの国で、高齢者も、その子世代である現役世代も、「自分事」としてしっかりと考え、介護や看取りに関心を持ってほしいと思う。(石川 結貴)
そういう現実を見越した上で、それでも在宅死=理想的な死と言えるかどうか、死にゆく人も、看取る側も、それぞれ相応の覚悟が必要ではないかと思う。
5月初旬、父は住み慣れた自宅で、私と私の次男に看取られ亡くなった。葬儀のあとに「要介護3」という介護保険の認定通知が届いたが、今さらという気持ちは拭えなかった。
更新時には「打ち切り」、その後の再申請でも到底必要な介護体制が整わず、いったい介護保険は誰をどう助けるのか、そんな無念と疑問は膨らむ。
さらに今後、私と同様の状況に陥る人はおそらくどんどん増えるだろう。
2000年にはじまった介護保険制度は3年に一度改正され、次回は2024年、次々回は2027年だ。今後の改正では、利用時の自己負担割合を原則2割以上(現状は所得に応じて1~3割負担)、ケアプラン(介護計画書)の有料化、要介護1、2の認定者を介護保険の非対象とする案などが検討されている。
現状では約9割が1割負担だが、仮に原則2割負担となった場合には、たとえば1ヵ月3万円の自己負担分が6万円、年間では36万円も増額する。
高齢者の約半数は年金や恩給のみで生活し、高齢者世帯の約3軒に1軒は年間所得が200万円以下だ。
公的施設の入所者には、年金と貯蓄の取り崩しで費用を賄うといったケースも多いが、介護保険の自己負担分が増えることで支払いができなくなる恐れもあるだろう。
高齢者の施設入所が厳しくなれば、否応なく在宅介護をせざるを得ない。そもそも国は、「地域包括ケアシステム」と称し、在宅での医療や介護を中心とした高齢者支援の方向性を打ち出している。2025年には団塊世代がすべて75歳以上の後期高齢者となり、一層の社会保障費増額が予想されるからだ。
入院や施設入所に比べ、自宅で、家族介護を受けてもらったほうが公費負担は減る。要は安上りな方法を推進するために、「住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるようになります」(厚生労働省/「在宅医療・介護の推進について」より抜粋)と謳うが、果たして本当だろうか。
私が体験したように、親の介護サービスが打ち切られるとか、訪問診療クリニックが見つからないとか、実際の在宅介護には数多くの問題が生じる。
介護や医療スタッフがいないとき、誰が、どうやって世話をするのかという問題は、実のところ当の高齢者だけでなく子世代、つまり現役世代に深く関わる問題だ。
私は多忙な仕事を持ち、疲労や不安と闘いながら、かろうじて遠距離介護をつづけた。同じようなビジネスケアラーは2030年に318万人に増加、離職や労働生産性の低下によって9兆1792億円の経済損失額が生じる(経済産業省/産業構造審議会部会試算)と予想されている。
どこで、どんなふうに死ぬか。
誰が、どうやって親を看取るのか。
自分の仕事や家庭生活と、親の介護は両立できるのか。
超高齢化社会と言われるこの国で、高齢者も、その子世代である現役世代も、「自分事」としてしっかりと考え、介護や看取りに関心を持ってほしいと思う。
(石川 結貴)

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