【伊藤 博敏】【実名告発】「そういうことにしちゃったの?」「うん」と…小池百合子「虚飾の履歴」を50年間秘めていた「カイロ時代の同居人」の思い

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

その人の名は、北原百代さんという。
『女帝 小池百合子』(文藝春秋)で作者の石井妙子氏は小池百合子東京都知事の「虚飾の履歴」を描いた。北原さんはその最大の情報源であり、1972年から76年にかけてエジプト・カイロで共に学び、2年間を共に過ごした同居人だが、「早川玲子」という仮名だったために、その存在が疑われたこともある。
11月8日の文庫本発売を機に、実名告発に転じた北原さんに会った。1941年生まれの82歳。中近東に興味を抱く人が少なかった50年前、単身、カイロに渡り、アラビア語を習得してガイドとなった。その経歴にふさわしい芯の強さとウソは許せないという正義感を持つ人だった。
『女帝 小池百合子』文庫版表紙
何度も報じられ都議会でも取り上げられた小池都知事の学歴詐称疑惑は、本人が「卒業証書」と「卒業証明書」を提示して否定。カイロ大学が、「小池百合子氏の卒業を認める」と在日エジプト大使館のホームページで発表しているものの、卒業時の状況や小池氏の行動履歴や言動から、「順調に進級して4年で卒業した」というには疑問が残る。
そして何より疑われるのは、当時の日記や手紙といった証拠とともに北原さんが明かした証言の数々だった。小池氏のエジプト政府への影響力を知る北原さんは、告発が自身と家族に及ぶ悪影響を恐れ、3年前の書籍化時点では仮名を望んだ。
しかしこのまま仮名では「私という存在が疑われる」という思いと、ジャニー喜多川氏の性加害問題が、カウアン・オカモト氏の実名告発によって大きく動き出したことに刺激を受け、「一歩前に」踏み出す覚悟を決めたという。
72年5月の出会いから今日までの50年に及ぶ小池氏への「思い」を聞いた。
――小池百合子さんと72年5月から同居してみていかがでしたか。
「当時、彼女は19歳。カイロにそんな若い女の子はいないので、日本のいろんな方が遊びに来てアイドルでした。でも、勉強はしないし会話は日本語。あの人がアラビア語を話すのを聞いたことがないし、読み書きのレベルも高くはなかった」
――それでも76年5月末から始まった進級試験は頑張って勉強したとか。
「さすがに来客も控え目にして、一生懸命、机に向かって勉強していました。鉛筆が短くなると、もう一本をセロテープで留めて最後まで使い切っていたのが印象的です。彼女は節約家なんです。試験は1ヵ月にも及び、7月上旬に発表されるんですが、落第でした」
――どんな様子でしたか。
「落ち込み、塞ぎ込み、『これからどうしよう』と思い悩んでいました。追試を受けることはできなかったし、学部変更は1年からまたやらないといけない。もちろん生活費は必要です。そこで日本航空の現地スタッフとして働き始めたんです」
――彼女が日本のマスコミに大きく取り上げられるのは、76年10月、サダト大統領夫人のエスコート役を務めてからでした。
「9月下旬に小池さんのお父さんから連絡があって、『すぐに帰ってこい』と。旅費を工面して慌ただしく帰って行きました。11月上旬に帰国して見せられたのが日本の新聞。そこでは『カイロ大学に学び、日本人女性としては初めて同大学で学士号を取得』となっていました。私は驚いて、『そういうこと(卒業)にしちゃったの?』と尋ねると、『うん』と悪びれることなく答えました」
見せられたのは76年10月22日付けの『サンケイ新聞』だった。そこにはジハン・サダト大統領夫人をエスコートする<芦屋のお嬢さん>で、エジプト人でも卒業できるのは<四人に一人>といわれるカイロ大学を<規定の四年でみごとに卒業した>才媛として描かれていた。<卒業式を終え、十月十一日、日本に帰ってきた>という。
「虚飾の履歴」の始まりである。虚飾は初の著作『振り袖、ピラミッドに登る』(82年10月)によってさらに積み重ねられ、それは小池氏をマスコミの寵児とするのに役立つ。
――76年末に小池氏は帰国。79年4月に朝の情報番組で「竹村健一の『世相講談』」にアシスタントして抜擢されます。
「(小池氏の)帰国後は、私もカイロで結婚、出産といろんなことがあって連絡はしていません。出会うのは私が一時日本に帰国して、私と当時3歳の娘、カイロの共通の知人の3人で小池さんの新宿のマンションに遊びに行った時です。
帰り道、娘に子供服を買ってもらいました。その時は、『履歴はごまかしたけど、(マスコミで)出世して良かったね』というぐらいの気持ちでした」
小池氏の「快進撃」は続く。88年にはテレビ東京『ワールドビジネスサテライト』の初代キャスターに抜擢される。「カイロ大卒で中近東に詳しい国際派」という肩書は、イラン・イラク戦争(88年)、ベルリンの壁崩壊(90年)、湾岸戦争勃発(91年)などの動乱報道に役立つ。
ただ小池氏は北原さんにとっては引き続き『ウソを言って働いている友達』という程度の認識だった。
カイロには小池氏の父・勇二郎氏の日本料理店「なにわ」があった。そこで北原さんは勇二郎氏から近況を聞くことはあった。しかし小池氏は、カイロを訪れても北原さんに連絡を取ることはなかった。
90年代に入って「女性キャスター40歳の壁」に直面した小池氏は、政界への転身を考え始め、92年7月、日本新党から出馬して当選、国会議員になった。
――小池氏が政治家になったことで気持ちに変化は生まれましたか。
「政治家になったら状況は変わります。『バレたらどうするつもりだろう』という気持ちもありました。懐かしい気持ちと大丈夫かという複雑な気持ちを抱えたまま、小池事務所に電話を入れたことがあります。秘書の方に伝言を残しましたが、返事はありませんでした。
ただ、本当に『これではいけない』と思ったのは、彼女が環境大臣(03年9月)になって、皇居で天皇陛下の認証式に出たというニュースに接した時です。『(経歴を)ごまかしたままでいいのか』という思いを強く持ちました」
戦中に生まれ、戦死した父、しつけの厳しい母に育てられた北原さんは、「ウソは許されない」という正義感を植え付けられていただけに、「生きていくための小さなごまかし」は認めても、小池氏が閣僚という国家の要にある人間となったからには許されなかった。学歴詐称が公職選挙法違反であることも承知していた。
――小池氏は北原さんを避けた。過去を切り捨てたわけです。どうされましたか。
「私の胸にしまい込むだけではダメだと思いました。学歴詐称の事実を伝えないといけないと思いました。ただ、どうすればいいのかわからない。
エジプトの日本大使館に電話しても、『ハイそうですか』と聞き置くだけ。何人かの日本の有力政治家に手紙を出したこともありますが、住所氏名を書かなかったので本人には伝わってないでしょうね。
エジプトは軍事政権で小池さんは政府にコネがある。告発の影響が身辺に及ぶのが怖かった」
――八方塞がりのなか、石井妙子氏が『文藝春秋』(18年1月号)に書いた記事を読み、編集部気付で手紙を出したわけですね。
「誰にも相手にされず、心が折れそうな状態でした。でも、記事を読んで『この人だ』と思い、『全てお話しし、(手紙も日記も)全てお渡しして悔いはない』と思いました。私だけが知る秘密から抜け出したかった」
取材を通じて「カイロ時代の同居人」を探していた石井氏と、社会的地位を持つ小池氏の学歴詐称は許されないという北原さんの思いは合致した。
北原さんの証言と証拠の数々で作品の精度と密度は上がり、『女帝 小池百合子』はノンフィクションとしては異例の21万部を超えるベストセラーとなった。
だが、小池氏は「カイロ大卒」を主張し、在日エジプト大使館の「証明文」もある。カイロ大もエジプト大使館も石井氏と文藝春秋社の問い合わせに応えることはなく、確認したマスメディアもない。
逆に筆者は、「エジプト大使館の証明文を働きかけた小池氏周辺者のメールなどの証拠資料」を入手している。現段階で確認は取れていないが、学歴詐称疑惑は今後とも続き、来年7月の知事選に小池氏が3選出馬すれば、学歴詐称の刑事告発も考えられよう。
なお、氏の3選出馬については、連載〈「女帝・小池百合子」の「学歴詐称疑惑」がついに実名告発…都知事3選に赤信号「もうひとつのヤバい問題」〉において詳述している。
北原さんはその貴重な証言者である。50年もの間、「虚飾の履歴」を胸に秘めなければなかった北原さんの思いを、小池氏はどう受け止めるだろうか。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。