夕刊フジ編集長、44才で自然妊娠した妻の壮絶な出産を語る “母としての強さ”を前に感じた自分の無力さ

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少子化が進む一方で、40代、50代での出産数は増えているという。昨年4月からは、女性の年齢が43才未満の場合、不妊治療の一部が保険適用にもなり、まだまだ不十分ながら、40代以上が妊活に取り組みやすい状況もできつつある。
【写真3枚】フリルとリボン付きのセレモニードレス姿・腕の中にすっぽり入る息子と、中本さん夫妻。他、保育器に入るまだ濡れた髪の息子 2020年7月、『夕刊フジ』編集長の中本裕己さんが56才のとき、妻(当時45才)が出産をした。特に妊活はしなかったにもかかわらず、奇跡的に自然妊娠をするという幸運に恵まれた。高齢出産の現場ではとても珍しいケースだったが、やはり出産は一筋縄ではいかなかったという。

そんな妻の高齢出産を、夫はどう受け止めていたのだろうか。男性目線で話を聞いた。「結婚をするとき、妻から“私には子宮筋腫があるので、子供はできないかもしれない。それでもいいですか?”と言われました。私は当時、特に子供は望んでおらず、“ふたりで生きていければいい”と伝えました」(中本さん・以下同) そのため、結婚後は夫婦の時間を謳歌していた。それでも妻が40才になる頃に一度、不妊治療をやるかやらないか、やるならいまが最後のチャンスだという話が自然に出たという。そのときも結局、“やらない”ことをふたりで決めた。「そうはいっても妻は時折、“私たちふたりの子供だったら、きっとかわいいだろうね”といった話をしていたので、子供がほしくないわけではないのだろうと思っていました。 私も心のどこかで、血を分けたわが子が残らないさみしさのようなものはあったと思います。でも50年以上子供がいない人生を過ごし、それでも充分幸せでしたし、妻に苦労をさせてまで妊活をしてほしいとは思いませんでした」 ところが運命とは皮肉なものである。結婚9年目にして、自然妊娠したのだ。「ある日、妻から“大切な話がある”と言われ、“離婚か?”と身構えたら、モノクロのエコー写真を見せながら、“妊娠した”と言われました。これが奇跡中の奇跡だということは、お互いによくわかっていましたし、高齢出産の場合、染色体異常などにより流産してしまうケースが多いことも知っていたので、大喜びしたいところをぐっとこらえ、冷静になるように努めました」妊娠7か月で妻が危篤状態に 医師から出生前診断をすれば染色体に異常があるかどうかがわかり、障害の有無も確認できると言われたが、“あるがまま”を受け入れようと断ったという。 生活はあえて変えず、妻は仕事を続けた。妊娠生活は順調で、7か月までは、大きなトラブルもなく過ぎていったという。ところが……。「妊娠7か月で妻がおたふく風邪になり、そのウイルスが心臓にまでおよんで、心筋炎(心臓の筋肉の炎症)になってしまったんです。とても珍しい症例だと言われました。 自宅で倒れた妻は、7月7日に救急搬送され、緊急帝王切開手術で出産することになりました。心機能が低下しており、手術中に命を落とす危険性があると言われました」 そのときの妻は息も絶え絶えで宙を見つめており、それでもお腹をやさしくさすっていたという。「手術室に入る直前、妻は酸素マスクをはずし、“今日この子が産まれたら、誕生日は七夕だね”と言ったんです。自分が死ぬかもしれないときに……。私は、何の言葉も出ませんでした。妻の母としての強さに対し、なんて自分は無力なんだと思いました」 その翌日、約1200gの男児が仮死状態で生まれ、すぐに保育器に入れられた。妻は危篤状態のままだった。「赤ちゃんと妻は別病棟におり、コロナ禍で移動は難しかったのですが、医療チームのかたがたが、息子を連れてきて妻に抱っこさせてくれたんです。これは推測ですが犧埜紊砲覆襪もしれない瓩箸い思いがあったのかもしれません」 すると再び奇跡が起こった。妻は危篤状態からめきめきと回復。16日後には退院するまでになったのだという。「母親としての覚悟と、どんなことがあっても自分もわが子も助かるという妻の強い力に、改めて圧倒されました」 もうすぐ3才になる息子はいま、すくすくと健康に育っているという。妊娠・出産は誰もが当たり前にできるものではない。奇跡が積み重ねられた末の偉業なのだ。【プロフィール】『夕刊フジ』編集長・中本裕己さん/45才で出産した妻の妊娠生活をつづった、『56歳で初めて父に、45歳で初めて母になりました ─生死をさまよった出産とシニア子育て奮闘記─』(ワニ・プラス)が話題。取材・文/前川亜紀※女性セブン2023年6月1日号
2020年7月、『夕刊フジ』編集長の中本裕己さんが56才のとき、妻(当時45才)が出産をした。特に妊活はしなかったにもかかわらず、奇跡的に自然妊娠をするという幸運に恵まれた。高齢出産の現場ではとても珍しいケースだったが、やはり出産は一筋縄ではいかなかったという。
そんな妻の高齢出産を、夫はどう受け止めていたのだろうか。男性目線で話を聞いた。
「結婚をするとき、妻から“私には子宮筋腫があるので、子供はできないかもしれない。それでもいいですか?”と言われました。私は当時、特に子供は望んでおらず、“ふたりで生きていければいい”と伝えました」(中本さん・以下同)
そのため、結婚後は夫婦の時間を謳歌していた。それでも妻が40才になる頃に一度、不妊治療をやるかやらないか、やるならいまが最後のチャンスだという話が自然に出たという。そのときも結局、“やらない”ことをふたりで決めた。
「そうはいっても妻は時折、“私たちふたりの子供だったら、きっとかわいいだろうね”といった話をしていたので、子供がほしくないわけではないのだろうと思っていました。
私も心のどこかで、血を分けたわが子が残らないさみしさのようなものはあったと思います。でも50年以上子供がいない人生を過ごし、それでも充分幸せでしたし、妻に苦労をさせてまで妊活をしてほしいとは思いませんでした」
ところが運命とは皮肉なものである。結婚9年目にして、自然妊娠したのだ。
「ある日、妻から“大切な話がある”と言われ、“離婚か?”と身構えたら、モノクロのエコー写真を見せながら、“妊娠した”と言われました。これが奇跡中の奇跡だということは、お互いによくわかっていましたし、高齢出産の場合、染色体異常などにより流産してしまうケースが多いことも知っていたので、大喜びしたいところをぐっとこらえ、冷静になるように努めました」
医師から出生前診断をすれば染色体に異常があるかどうかがわかり、障害の有無も確認できると言われたが、“あるがまま”を受け入れようと断ったという。
生活はあえて変えず、妻は仕事を続けた。妊娠生活は順調で、7か月までは、大きなトラブルもなく過ぎていったという。ところが……。
「妊娠7か月で妻がおたふく風邪になり、そのウイルスが心臓にまでおよんで、心筋炎(心臓の筋肉の炎症)になってしまったんです。とても珍しい症例だと言われました。
自宅で倒れた妻は、7月7日に救急搬送され、緊急帝王切開手術で出産することになりました。心機能が低下しており、手術中に命を落とす危険性があると言われました」
そのときの妻は息も絶え絶えで宙を見つめており、それでもお腹をやさしくさすっていたという。
「手術室に入る直前、妻は酸素マスクをはずし、“今日この子が産まれたら、誕生日は七夕だね”と言ったんです。自分が死ぬかもしれないときに……。私は、何の言葉も出ませんでした。妻の母としての強さに対し、なんて自分は無力なんだと思いました」
その翌日、約1200gの男児が仮死状態で生まれ、すぐに保育器に入れられた。妻は危篤状態のままだった。
「赤ちゃんと妻は別病棟におり、コロナ禍で移動は難しかったのですが、医療チームのかたがたが、息子を連れてきて妻に抱っこさせてくれたんです。これは推測ですが犧埜紊砲覆襪もしれない瓩箸い思いがあったのかもしれません」
すると再び奇跡が起こった。妻は危篤状態からめきめきと回復。16日後には退院するまでになったのだという。
「母親としての覚悟と、どんなことがあっても自分もわが子も助かるという妻の強い力に、改めて圧倒されました」
もうすぐ3才になる息子はいま、すくすくと健康に育っているという。妊娠・出産は誰もが当たり前にできるものではない。奇跡が積み重ねられた末の偉業なのだ。
【プロフィール】『夕刊フジ』編集長・中本裕己さん/45才で出産した妻の妊娠生活をつづった、『56歳で初めて父に、45歳で初めて母になりました ─生死をさまよった出産とシニア子育て奮闘記─』(ワニ・プラス)が話題。
取材・文/前川亜紀
※女性セブン2023年6月1日号

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