昭和に途絶えた幻の味「げたんは」 高齢者の記憶頼りに復活

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生地の中にも、コーティングにも黒糖がたっぷり。ぜいたくなのに素朴な風合いのお菓子が、鹿児島県霧島市横川町伝統の「げたんは」だ。昭和の初めには途絶えたというが、2004年に復活。市内で時折、料理教室などが開かれ、製法が受け継がれている。
味は一流、人気は二流? 「ハワイの高級魚」が日本海に昭和初期に途絶え、市民が尽力 復活を担ったのは旧横川町生活改善推進員の福島年子さん(70)。地元で「食まつり」という行事が開かれるのに合わせ、幻の味を再現しようとした。

げたんはのルーツは江戸時代。米の集荷場や金山でにぎわった横川で、お茶うけとして生まれたらしい。琉球王国を支配していた薩摩藩が琉球や奄美の黒糖を有力な財源としたことをきっかけに、薩摩の地で黒糖が甘味料として深く根付いたことが背景にある。 再現にあたり、はっきりしたレシピが残っていたわけではない。地域外の業者が「げたんは」を販売しているが、地元ゆかりの高齢者は「横川のはもっと硬かった」という。高齢者の記憶を頼りに、レシピを再現した。 使うのは小麦粉、重曹、粉黒糖、水だけ。小麦粉と重曹を合わせてふるいにかけ、黒糖を溶かした水を加えてよく混ぜる。クッキングシートにそれを敷いて20分間オーブンで焼く。三角形に切り、黒糖を煮溶かした水にくぐらせたら完成。卵を使っていないせいか、コーティングの黒糖はすぐには染みこまない。2~3日たったもののしみこみ具合がベストという。表面は黒糖のシャリッとした食感、中はしっとり。上品な味だ。 2月25日には地元のNPO法人主催の手作り教室が横川町の古民家カフェであり、12人が学習。講師を務めた福島さんは「甘い物が少ない時代には貴重なお菓子だった。横川が裕福だった証拠でもある。地元の誇りとして後世に伝えていきたい」と意欲をみせる。【梅山崇】げたんは 泥に汚れた下駄の歯に似た外観がその名の由来と伝わる。「横川菓子」「三角菓子」とも呼ばれていた。卵や蜂蜜なども入った市販品は食料品店などで購入できる。地元のカフェでは市販品を使った「げたんはパフェ」も販売されている。
昭和初期に途絶え、市民が尽力
復活を担ったのは旧横川町生活改善推進員の福島年子さん(70)。地元で「食まつり」という行事が開かれるのに合わせ、幻の味を再現しようとした。
げたんはのルーツは江戸時代。米の集荷場や金山でにぎわった横川で、お茶うけとして生まれたらしい。琉球王国を支配していた薩摩藩が琉球や奄美の黒糖を有力な財源としたことをきっかけに、薩摩の地で黒糖が甘味料として深く根付いたことが背景にある。
再現にあたり、はっきりしたレシピが残っていたわけではない。地域外の業者が「げたんは」を販売しているが、地元ゆかりの高齢者は「横川のはもっと硬かった」という。高齢者の記憶を頼りに、レシピを再現した。
使うのは小麦粉、重曹、粉黒糖、水だけ。小麦粉と重曹を合わせてふるいにかけ、黒糖を溶かした水を加えてよく混ぜる。クッキングシートにそれを敷いて20分間オーブンで焼く。三角形に切り、黒糖を煮溶かした水にくぐらせたら完成。卵を使っていないせいか、コーティングの黒糖はすぐには染みこまない。2~3日たったもののしみこみ具合がベストという。表面は黒糖のシャリッとした食感、中はしっとり。上品な味だ。
2月25日には地元のNPO法人主催の手作り教室が横川町の古民家カフェであり、12人が学習。講師を務めた福島さんは「甘い物が少ない時代には貴重なお菓子だった。横川が裕福だった証拠でもある。地元の誇りとして後世に伝えていきたい」と意欲をみせる。【梅山崇】
げたんは
泥に汚れた下駄の歯に似た外観がその名の由来と伝わる。「横川菓子」「三角菓子」とも呼ばれていた。卵や蜂蜜なども入った市販品は食料品店などで購入できる。地元のカフェでは市販品を使った「げたんはパフェ」も販売されている。

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