80代でも収入のある“貯め女”の壮絶人生「帯が2分で結べる」特許で着物教室の売り上げは2億円超

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趣味や副業が実を結んだり、起業して大金をつかんだ「貯め女」をピックアップ。今回取材した自力で富を築いた女性たちが口にするのは「人との縁が円につながった」。お金を引き寄せる考え方や日々の習慣をまねして、金運を招こう!
【写真】東京パラ五輪で“バリアフリー着物”を車椅子利用者に着付ける鈴木さん 御年86歳ながらパソコンやスマホを使いこなし、ブログを更新する鈴木富佐江さん。67歳で会社を立ち上げ、考案した“劇的に簡単な着付け”を教える「さくら着物工房」を全国展開する。現在、教室の生徒数は延べ1千人以上、講師も200人以上、売り上げはトータル2億円超に。

着物の特許で80代でも収入のある生活「売り上げには私のほうがびっくり(笑)。お金は後からついてきただけで。コロナの感染が広がり、対面で教えられなくなったときは生徒数も減って正直、『もう続けていくのは無理かも』と思っていました。でも昨年2月にテレビ番組で取り上げられ、また生徒さんが戻ってきたんです」 と、楽しそうに話す。自粛期間中も自ら執筆、編集した冊子を手作りするなど、広報活動には余念がなかった。「帯を切らずにお太鼓(背中部分)を糸と針で留めた『造り帯』などのアイデアで、4つの特許を取得しています。これなら初心者でも2分ほどで帯を結べ、障がいのある人でも着付けが簡単にできます」(鈴木さん、以下同)夫の死、脳梗塞……逆境も乗り越えて 生まれは旧満州。戦後は母に連れられて祖父母宅に身を寄せた。帯のコレクターの祖母の影響で「着物大好き少女」に。24歳で結婚して2児を授かるが、鈴木さんが32歳のとき、夫が38歳で急逝する。腎臓がんだった。「心底つらくてたくさん泣きましたが、子どもを育てるためには現実と向き合う必要もありました。父の友人の紹介もあって金融機関の総合職に就職。ちょうどバブル期だったのでクライアントのパーティーも多く、品格が上がる着物は大活躍でした」 60歳で定年後は高校生から続けていたボランティア活動に本格的に取り組んでいた。「65歳のときに脳梗塞を患い、右半身に麻痺が残って生活も一変。右手が後ろに回らなくなって、大好きな着物が着られなくなってしまったんです。でもその生活に甘んじるのは嫌だった。知恵を絞り、ベルト感覚で帯を結ぶ方法を編み出しました」 特許を取れたのは特許法や商標登録に詳しい親戚がいたことが大きいと話す。最初は起業するつもりはなかったがメディアに取り上げられる機会も増え、法人化した。「帯が結べないために着物を着るのを諦める人が多いんです。たくさんの人に着物を楽しんでもらいたいというのが私の夢。資金がなくてもやるからには最高を目指し、公的施設を借りて展覧会をしたりと、工夫を重ねました」 大好きな着物のためなら妥協せず、どんなときも前向きな姿勢で取り組んできた。早寝早起きでしっかり食事をとる 現在はひとり暮らし。週3日のペースで働く。毎朝5時に起き、5時15分からはZoomで日本の文化を学べる会員制のオンラインゼミを聴講。そのゼミの中で、月に一度、鈴木さんが着物について講師として話をしている。その後は新聞や書籍を読む、学びの時間に充てている。「仕事の日は、テレビを見ながら8時ぐらいに朝食をとります。健康のためにも食事は大事。『食べ物は薬』というのが、小学校の先生をしながら育ててくれた母の口癖でした。母は98歳まで長生きしたんですよ」 料理は時間があるときに、3食分ぐらいまとめて常備菜を作るのが常。パンや麺ではなく、白米を主食にするようになってから便秘をしなくなった。「仕事がない日の朝は少しずつ小皿によそい、ゆっくりとブランチを楽しみます」 着物教室は講師の先生に担当してもらい、出社日は基本的に社長業をこなす。お化粧は毎日欠かさない。「『化粧だけはお金を惜しむな』というのも、母の教えのひとつ。顔は自分でつくるものだから『苦労はしてもシワは残すな』と言われていました。爪も弱くなってからはジェルネイルをしています」 鈴木さんの母はしつけや教育に厳しかったそう。「満州から引き揚げてくるときはほとんど何も持ち帰れなかったし、父はモンゴルに抑留されて亡くなったので、母は苦労したと思います。それで『身に付いた知識は無駄にならない』と考えていて、私は当時の女性には珍しく、短大まで進学したのです」 母の教えが今の着物教室にもつながっている。「起業したのは私の後継者を育てたかったから。教室を作って独立した先生もたくさんいらっしゃいますよ」 長い人生、技術があれば活躍の場も広がると話す。ボランティア活動が元気とパワーの源に!「好きなことをしているだけなので“稼いで”いる意識はないの。生徒さんたちからは元気や使命感、生きがいをもらっています。人を育てることで私の人生はその分、豊かになりました。人との縁が私の一番の財産ね。受講料の10%をいただいていますが、指導をしてくれる講師の先生へのお支払いや、ボランティア活動の出費もあって、儲けはあまり気にしていません」 鈴木さんのライフワークであるボランティア活動は高校生のころ、日本赤十字社のJRC(青年赤十字奉仕団)に参加したことが発端だ。昨年の東京パラリンピックの際も“バリアフリー着物”を着付けるボランティアを行った。「最近では高齢者施設や学校などに伺います。先日、デイホームに行ってみなさんに着物を着付けてさしあげたら、認知症で無表情だった方が笑顔になり、背筋がピンとなってね。私たちの子どものころは振り袖なんて着られなかったので振り袖は人気があります。最初は『俺は着ない』なんて言っていた男性も着付けをしたあとははしゃいでいましたよ」 着物のよさを広めるための見返りを求めない活動が口コミで広まり、結果、生徒を引き寄せている。これが鈴木さん流の「お金の引き寄せ方」だ。「車いすでも着られる『ファスナー着物』も発案していて、おしゃれをしたいお嬢さんたちに喜ばれています。これからも帯で結ばれた人との縁を大切にしたいですね。まだまだ働きますよ」 人生100年時代、知恵を働かせれば何歳でも積極的な生き方ができると話す。「今は父方と母方、両方のルーツである阿波(徳島県)の古代史について研究をしていて、本の出版が決まったところ。何歳になっても自分から動けば新しい発見があって、楽しいですね」◎鈴木さんのお守りアイテム■ゲランの口紅 身だしなみが大事だと教えてくれた、母愛用のゲランのミラー付きリップ ルージュはいつも持ち歩いている。「唇に塗った後は手のひらにとり、頬に薄くのばすと顔色もよく見えます」お話を伺ったのは……鈴木富佐江さん「さくら着物工房」主宰。考案した盲学校の教材で朝日新聞社「明るい社会賞」、造り帯で婦人発明家協会「なるほど展」東京都知事賞を受賞。着物文化の伝承に務める。趣味は俳句。取材・文/後藤るつ子、松澤ゆかり 撮影/齋藤周造 協力/熊谷和海
御年86歳ながらパソコンやスマホを使いこなし、ブログを更新する鈴木富佐江さん。67歳で会社を立ち上げ、考案した“劇的に簡単な着付け”を教える「さくら着物工房」を全国展開する。現在、教室の生徒数は延べ1千人以上、講師も200人以上、売り上げはトータル2億円超に。
「売り上げには私のほうがびっくり(笑)。お金は後からついてきただけで。コロナの感染が広がり、対面で教えられなくなったときは生徒数も減って正直、『もう続けていくのは無理かも』と思っていました。でも昨年2月にテレビ番組で取り上げられ、また生徒さんが戻ってきたんです」
と、楽しそうに話す。自粛期間中も自ら執筆、編集した冊子を手作りするなど、広報活動には余念がなかった。
「帯を切らずにお太鼓(背中部分)を糸と針で留めた『造り帯』などのアイデアで、4つの特許を取得しています。これなら初心者でも2分ほどで帯を結べ、障がいのある人でも着付けが簡単にできます」(鈴木さん、以下同)
生まれは旧満州。戦後は母に連れられて祖父母宅に身を寄せた。帯のコレクターの祖母の影響で「着物大好き少女」に。24歳で結婚して2児を授かるが、鈴木さんが32歳のとき、夫が38歳で急逝する。腎臓がんだった。
「心底つらくてたくさん泣きましたが、子どもを育てるためには現実と向き合う必要もありました。父の友人の紹介もあって金融機関の総合職に就職。ちょうどバブル期だったのでクライアントのパーティーも多く、品格が上がる着物は大活躍でした」
60歳で定年後は高校生から続けていたボランティア活動に本格的に取り組んでいた。
「65歳のときに脳梗塞を患い、右半身に麻痺が残って生活も一変。右手が後ろに回らなくなって、大好きな着物が着られなくなってしまったんです。でもその生活に甘んじるのは嫌だった。知恵を絞り、ベルト感覚で帯を結ぶ方法を編み出しました」
特許を取れたのは特許法や商標登録に詳しい親戚がいたことが大きいと話す。最初は起業するつもりはなかったがメディアに取り上げられる機会も増え、法人化した。
「帯が結べないために着物を着るのを諦める人が多いんです。たくさんの人に着物を楽しんでもらいたいというのが私の夢。資金がなくてもやるからには最高を目指し、公的施設を借りて展覧会をしたりと、工夫を重ねました」
大好きな着物のためなら妥協せず、どんなときも前向きな姿勢で取り組んできた。
現在はひとり暮らし。週3日のペースで働く。毎朝5時に起き、5時15分からはZoomで日本の文化を学べる会員制のオンラインゼミを聴講。そのゼミの中で、月に一度、鈴木さんが着物について講師として話をしている。その後は新聞や書籍を読む、学びの時間に充てている。
「仕事の日は、テレビを見ながら8時ぐらいに朝食をとります。健康のためにも食事は大事。『食べ物は薬』というのが、小学校の先生をしながら育ててくれた母の口癖でした。母は98歳まで長生きしたんですよ」
料理は時間があるときに、3食分ぐらいまとめて常備菜を作るのが常。パンや麺ではなく、白米を主食にするようになってから便秘をしなくなった。
「仕事がない日の朝は少しずつ小皿によそい、ゆっくりとブランチを楽しみます」
着物教室は講師の先生に担当してもらい、出社日は基本的に社長業をこなす。お化粧は毎日欠かさない。
「『化粧だけはお金を惜しむな』というのも、母の教えのひとつ。顔は自分でつくるものだから『苦労はしてもシワは残すな』と言われていました。爪も弱くなってからはジェルネイルをしています」
鈴木さんの母はしつけや教育に厳しかったそう。
「満州から引き揚げてくるときはほとんど何も持ち帰れなかったし、父はモンゴルに抑留されて亡くなったので、母は苦労したと思います。それで『身に付いた知識は無駄にならない』と考えていて、私は当時の女性には珍しく、短大まで進学したのです」
母の教えが今の着物教室にもつながっている。
「起業したのは私の後継者を育てたかったから。教室を作って独立した先生もたくさんいらっしゃいますよ」
長い人生、技術があれば活躍の場も広がると話す。
「好きなことをしているだけなので“稼いで”いる意識はないの。生徒さんたちからは元気や使命感、生きがいをもらっています。人を育てることで私の人生はその分、豊かになりました。人との縁が私の一番の財産ね。受講料の10%をいただいていますが、指導をしてくれる講師の先生へのお支払いや、ボランティア活動の出費もあって、儲けはあまり気にしていません」
鈴木さんのライフワークであるボランティア活動は高校生のころ、日本赤十字社のJRC(青年赤十字奉仕団)に参加したことが発端だ。昨年の東京パラリンピックの際も“バリアフリー着物”を着付けるボランティアを行った。
「最近では高齢者施設や学校などに伺います。先日、デイホームに行ってみなさんに着物を着付けてさしあげたら、認知症で無表情だった方が笑顔になり、背筋がピンとなってね。私たちの子どものころは振り袖なんて着られなかったので振り袖は人気があります。最初は『俺は着ない』なんて言っていた男性も着付けをしたあとははしゃいでいましたよ」
着物のよさを広めるための見返りを求めない活動が口コミで広まり、結果、生徒を引き寄せている。これが鈴木さん流の「お金の引き寄せ方」だ。
「車いすでも着られる『ファスナー着物』も発案していて、おしゃれをしたいお嬢さんたちに喜ばれています。これからも帯で結ばれた人との縁を大切にしたいですね。まだまだ働きますよ」
人生100年時代、知恵を働かせれば何歳でも積極的な生き方ができると話す。
「今は父方と母方、両方のルーツである阿波(徳島県)の古代史について研究をしていて、本の出版が決まったところ。何歳になっても自分から動けば新しい発見があって、楽しいですね」
◎鈴木さんのお守りアイテム
■ゲランの口紅
身だしなみが大事だと教えてくれた、母愛用のゲランのミラー付きリップ ルージュはいつも持ち歩いている。「唇に塗った後は手のひらにとり、頬に薄くのばすと顔色もよく見えます」
お話を伺ったのは……
取材・文/後藤るつ子、松澤ゆかり 撮影/齋藤周造 協力/熊谷和海

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