山形県庄内地方の鶴岡市。美しい田園風景の中に、ぽつんとたたずむ近代的な研究棟がある。2001年に開設されたバイオサイエンスの研究拠点「慶応義塾大先端生命科学研究所(先端研)」だ。慶応大が鶴岡にサテライト拠点を設けてから23年。この間に研究成果をもとにしたベンチャー企業が8社誕生した。世界から注目を集めるサイエンスパークを取材した。【神崎修一】
【図解】東工大の入試、今後の入学枠はどう変化?
世界注目、ベンチャー8社
「捨ててしまっている便には、病気の誰かを救える価値がある」。先端研発のベンチャー企業「メタジェン」(鶴岡市)を率いる福田真嗣社長(46)=先端研特任教授=が語る表情は真剣だ。
メタジェンは人の便を先端技術を駆使して解析し、そこから健康状態を分析するユニークな研究や事業に取り組んでいる。さまざまな情報を含む便を「茶色い宝石」と呼び、そこから得られたデータを予防や治療に役立て、「病気ゼロ」社会の実現を目指している。
明治大農学部時代から腸内細菌の研究をスタートした福田さん。理化学研究所を経て、12年に特任准教授として慶応大先端研に着任。この時期から基礎研究で見えてきた成果を社会実装したいとの思いで起業することを意識。15年にメタジェンを立ち上げた。
福田さんによると、人間の腸内には多様な細菌が約40兆個ほどすみついている。腸内細菌の集まりは腸内フローラ(腸内細菌叢(そう))と呼ばれ、このバランスが人間の健康状態や病気の発症に影響を与えているとされる。
腸内環境はそれぞれの個人で異なり、その人の体質を表すものといえる。メタジェンでは、腸内環境を見ること、最適なアプローチ方法を知ることで、それぞれの体質に合った体調管理の実現を目指している。
「各社で競争するのではなく、市場を共に創る必要がある」(福田さん)との思いから、メタジェンは他社との研究開発や商品開発に積極的だ。
その一つが、それぞれの体質に合わせたシリアルの定期購入サービスだ。食品大手のカルビー(東京)などと開発し、23年から販売展開を始めた。
その購入方法は独特だ。まずは腸内フローラを調べるための検査キットを注文する。それぞれが便を採取してポストへ投函(とうかん)すると、腸内フローラのタイプが検査結果として到着する。この結果から自分の腸内の状態を知ることができ、それに合ったシリアルを選ぶ仕組みだ。
業績は好調で、8期連続で増収黒字を達成した。しかし目標は株式上場(IPO)ではなく、あくまで病気ゼロの実現だ。
福田さんは「100人中100人を健康にできる社会を実現するためには、文化を変えていかないといけない。人によって違う腸内フローラのパターンを知り、体質にあった食品や飲料、薬品を選べる社会へと、変えていかないといけない」と語る。鶴岡発のイノベーターは将来を見据えている。
「普通」をやらない
「なぜ鶴岡に慶応が?」。先端研の所長を22年間務めた冨田勝・慶応大名誉教授(66)に率直に尋ねた。元々は、山形県や鶴岡市が地域産業の高度化や活性化につなげようと、「鶴岡サイエンスパーク」の中核施設として誘致したことに始まる。
国内の大学は都市部に拠点を構えるケースが大半だ。慶応大も東京・三田や横浜・日吉などにメインのキャンパスを置く。冨田さんは「大学や研究所が首都圏に集中していること自体が間違い。研究や企画といったクリエーティブな仕事は、自然豊かな田舎でやる方がいい。欧米の大学も田舎町にある」と断言する。四季の変化が鮮やかで、豊かな食文化を持つ鶴岡だからこそ、良い研究アイデアが生まれやすいと体験してきた。
「普通は0点」。普通のことは多くの人たちがやるが、他の人がやらないことをやろうという意味だ。42歳で所長に就任した冨田さんは大胆な方針を掲げて研究所を運営してきた。
自身が人工知能などの開発を経て、生命科学に研究分野を広げたユニークな経歴を持つこともあり、冨田さん当初から他とは違う「普通でない研究所」を目指した。ただ、県と市から毎年計7億円の財政支援を受けていたこともあり、開設当初は先端研の活動に疑問を呈する人たちも多くいたという。
周囲の心配をよそに、次々と独創的事業が誕生した。糖やアミノ酸といった細胞内の代謝物質(メタボローム)の解析を手がける「ヒューマン・メタボローム・テクノロジーズ」が03年に先端研初のベンチャーとして誕生した。
07年に発足した「スパイバー」は、「人工クモ糸」開発をきっかけに注目を集め、現在はさまざまな分野で応用できるたんぱく質素材の開発を続ける。その後も、唾液でがんリスクを検査する「サリバテック」など、ユニークなベンチャー8社が次々と産声を上げた。
冨田さんは「本当に個人の突破力や社会課題を解決しようという使命だけ。起業して上場し、大金をせしめようと考える人は鶴岡にはいない」と強調する。
高校生受け入れ
1990年に国内で初めて慶応大が導入したAO入試に関わったこともある冨田さん。先端研は次世代の人材育成にも力を入れている。
地元の高校生たちを研究助手や特別研究生として受け入れ、早くから世界基準の研究に触れられる機会を設けている。ただし、応募条件が「受験勉強をしない」とユニーク。面接や論文といった人物像を重視するAO入試での大学受験を強く薦める。
現在の日本に必要なのは、受験勉強で点数を稼ぐ優等生ではなく、人と違うことに挑戦できる「脱優等生」だとの思いからだ。「教育の成果が出るのは30年後」と息の長い活動になると意識している。
冨田さんは、鶴岡生まれの学生が世界に羽ばたき、再び鶴岡へ戻っても活躍できる未来像を願っている。
記者のひとこと
「米国のシリコンバレーのようだねと言われても『一緒にしないでくれ』と思う」。慶応大先端研を長年けん引した冨田勝名誉教授の本音だ。「もうかる」「もうからない」ではなく、研究成果を社会実装することが最優先。田んぼの中の研究所には「イノベーター」たちのプライドも詰まっている。