2月15日は国際小児がんデーである。日本では約2000~2500人の子どもたちが小児がんと診断され、医療の進歩により、現在では、70~80%が治療を終えることができるようになっているが、まだまだ、闘病の末、亡くなってしまう子どもたちもいるのだ。
「’21年5月に娘である佐知を9歳で亡くしました。白血病でした」
そう話すのは、がんで子どもを亡くし、現在、自身の経験を活かし、愛知での「こどもホスピス」設立に向け、活動している安藤晃子氏である。こどもホスピスとは、生命に関わる病気や障がいのある子どもやきょうだい、家族が共に過ごす“居場所”である。
「病気がわかったのが、’18年1月。ちょうど、佐知が幼稚園、6歳の時でしたね。’17年の暮れに、足の付け根が痛いと言いだして、地元のクリニックで見てもらっていたのですが、レントゲンをとっても異常がなく、原因がわかりませんでした。そのころ、運動会があったので、それが原因かなと思っていたのですが。それでも痛みが治まらなく、大きな病院の整形に行ってもわかりませんでし た。
年が明けた直後ですかね、高熱が出て、救急へ行って風邪薬を処方されたのですが、その際採血をしてほしいとお願いしたんです。そうしたら、異常な数値が結果として出て、即入院となったのです」
安藤さんは当時を振り返り、その時の記憶が、思い出せないほどの衝撃だったと話す。
「どこかの部屋で、重々しい空気の中で告知というわけではなく、数値を見た医師が『お母さん、これ白血病だと思う』って。本当にさらっと。だからこちらも、正直、わけがわからないですよね。白血病という言葉は知っているけれど、日常からかけ離れた言葉すぎて、現実感がないというか。地元の病院で2泊し、名古屋大学医学部附属病院に救急車で向かったことしか思い出せないぐらいで」
しかし、当時は、約半年という目標が明確にあり、佐知さんもそのゴールに向かって懸命に治療を続けていた。
「佐知の場合は、6ヵ月の入院のあとに1年半外来で抗がん剤をして、5年間再発しなければ寛解できる、ラッキーな型の白血病だと説明をうけ、半年頑張れば良くなる、もとの元気な身体に戻れるという思いがあったので、家族一体となって白血病に立ち向かいました。
半年後、無事に退院となったのですが、検査で数値がまだ厳しく、臨床試験をしないかということで再入院となりました。これも約1ヵ月だからということで、入院したのですが、移植が必要ということなり、骨髄移植に臨むことになったのです。
もうね、必死過ぎて、当時のことは思い出せないんですよ。悲しいとか、しんどいとか、そんなの考える余裕がなかったんでしょうね」
病気と闘う長期入院は、子ども本人だけではなく、親子入院が当たり前になっており、それに付き添う大人も、そして、そのきょうだいも疲弊する。
「コロナ禍で、病棟に出入りしてくれているボランティアさんも来られなくなり、外泊は禁止。ただでさえ制限の多い状況から、さらに厳しい制限のある生活となりました。子どもも大人も、徐々に心に余裕がなくなり、気がつけば、笑うことさえ少なくなっていった気がします」
そこで助けられたのが、チャイルドライフスペシャリストとして活動する佐々木美和さんの存在だったと話す。
チャイルドライフスペシャリスト、略してCLSは、入院している子どもやその家族を支援する専門家で、日本ではまだまだ知られていないが、アメリカのこども病院では、20~30人ものCLSが働いているほど、重要なポジションの仕事と位置付けられている。
「佐々木さんは子どもの気持ちをきっちりと医者に代弁してくれるんです。痛い、いやだっていう気持ちをお医者さんに伝えてくれて、そして、本人に寄り添って声をかけてくれる。注射や検査って、痛くて恐い。でも、寄り添ってもらえたら、それだけで気持ちが楽になるじゃないですか。
骨髄の検査を、治療が1クール終わるたびにしないといけなくて、これが本当に本人にとっても家族にとっても負担なんです。親は検査に入れないのですが、佐々木さんは入ることができるので、佐知も私も本当に安心できる存在でした。骨髄検査の日程がわかり次第、毎回佐々木さんの予定を確認するほどでしたね」
’19年5月、骨髄移植は無事に成功し、晴れて退院となり、小学校に通えるまでになった佐知さん。
「当時はよかったという安堵の気持ちが大きかったですね。これでもう再発の心配もなく明るい未来があると信じていました。佐知も1年生の10月からの登校でしたが、本当にうれしそうで。髪は脱毛していたのですが、本人もそれを恥じることなく、また、お友達も普通に接してくれて、良かったなって。それだけでした」
しかし、約半年後、骨髄移植の合併症で、’20年1月、4度目の入院となる。この頃には家族全員が疲弊し、困窮を極めていた。
「佐知が大変なのは理解しているのですが、これで家族が崩壊しましたね。佐知の3歳上の兄が当時、受験を控えていたのですが、夫は仕事がありますから、フォローするのも限界がありました。夏から私の姉がお家に泊まり込みできてくれて、家事全般をやってくれました。
それでも、佐知の状態が徐々に悪化していく姿に、それぞれ心の余裕がなくなり、主人と息子が殴り合いのけんかをしたり、もう学校も受験もやりたくないと言い出したりと、穏やかでいられない日々を過ごしていました。
そんな時、佐々木さんの存在は本当に大きくて、家族には話せない、つらい気持ちを聞いてくれる。それも、雰囲気で佐々木さんが察知してちゃんと来てくれて、寄り添ってくれました」
数ヵ月後、薬を減らし、外来で様子を見られる段階まできていた佐知ちゃんだったが、念のためにした骨髄検査で再発が発覚。安藤さんは、当時の気持ちをこう吐露する。
「すべてが終わったと思いました。再発を防ぐために骨髄移植をしたのに、その骨髄移植の合併症で肺を壊して入院しているのに、なんで再発したのか、骨髄移植をしなければよかったのか、私たちの骨髄移植をした判断が間違っていたのかなど一気に感情が押し寄せました。心の鏡が粉々に壊れました。
もう前に進めない、頑張れないと思いました。いままで、元気になったらね、退院したらねと、佐知がやりたいことを後回しにしてしまった自分を責めました。佐知の大切な時間を私が奪ってしまったと感じ、佐知に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。ごめんなさい、ごめんなさいと心の中でなんども叫びました。そりゃ泣きましたよ。なんでこんなに頑張ってるのにって。でも、佐知のほうから『ママ、また頑張ろう』って言ってくれて」
その6ヵ月後、佐知ちゃんの状態は厳しいものに。
「’21年5月に佐知は亡くなったのですが、6ヵ月前に非常に厳しいことを医者から告げられ、8日前には佐知が望んだように自宅に帰りました。当時の気持ちは、現実を受け止める自分、そして、奇跡を信じる自分、って気持ちが入り混じっていましたね。どこかで覚悟があったのでしょうか、佐知のお葬式の夢を見てしまって、それに自己嫌悪したりして」
そして安藤さんは、残された時間を後悔なきよう、佐知ちゃんと生活を共にした。
「亡くなる前、コロナ禍で制限される中でしたが、病院の敷地内でシャボン玉したり、スライム作りをしたり、また一時退院して、家族で出かけたりと、かけがえのない思い出を作ることができたかなと。やりたいことをたくさんしてあげられたかなって思います」
佐知ちゃん、’21年5月19日永眠。
「その後も、佐々木さんが大活躍してくれて。病院には、佐知のお友達もたくさんいます。そこで、どうすれば佐知がいなくなってしまったことをお友達に伝えることができるのか思案してくれたんです」
それが“プラネタリウム”だった。
「病院のプレイルームでプラネタリウムをみんなで見て、空につながっていくっていうことを表現して、亡くなったことをないことにせず、星が紡いでいく、導いてくれることを、子どもにも理解できるように、上手に表現してくれたのです」
佐知さんが紡いだのが、愛知のこどもホスピス設立に向けての活動であった。安藤さんは佐知さんが亡くなるまでホスピスの存在を知らなかった。成人のホスピスが果たすような、死が迫っている患者さんやその家族の苦痛を最小限にすることだけでなく、小児がんや難病のお子さんを看病する家族の休息のために一時的に預かる役割も果たしている。そのようなケアプログラムは、住まいの愛知にはなかった。現在、病院併設ではない、医療や福祉の制度から独立したコミュニティ型のこどもホスピスがあるのは、横浜と大阪の2ヵ所だけだ。
現在、安藤さんは、こどもホスピス設立に向けての活動とともに、生命を脅かす病気や障がいのある子どもとそのきょうだい・家族が参加できるイベントをさまざまな企業や個人からの支援や協力のもと、進めている。
「佐知を通し、こどもホスピスの重要性を知ったので、残りの人生をこの活動に費やし、いつか佐知に会える時に『ママもあれからいろいろ頑張ったよね。さっちゃんもたくさん応援してくれて一緒に生きてくれてありがとう』って言えればいいなと思っています」
取材・文:中西美穂ノンフィクションライター。NPO法人サードプレイス代表。元週刊誌記者。不妊治療によって双子を授かり、次男に障害があることがわかる。自身の経験を活かし、生殖補助医療、妊娠・出産・育児、障害・福祉を中心に取材活動を行う。本人ツイッター(@thirdplace_npo)