年収1000万円と聞くと、「富裕層」といった印象を持つ人も多いのでは。だが、都心部に住む子育て世代に関していえば、そのイメージは過去のもの。当該世帯がぜいたくどころか、倹約せざるを得ない背景を『世帯年収1000万円』(新潮新書)の著者が検証する。【加藤梨里/ファイナンシャルプランナー】
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【図を見る】すべて公立でも1000万円超え 進路別の教育費
「2030年までがラストチャンス」――。昨年末に閣議決定された政府の「こども未来戦略」では、持続的な経済成長に少子化対策が急務であると強調されていた。一連の支援策で特に注目されているのが、所得制限の撤廃だ。児童手当はこれまで、夫婦のどちらかが目安年収1000万円前後を超えると支給額カットや支給停止が行われてきたが、10月から所得制限が撤廃される。25年度以降の新たな大学無償化制度でも、子ども3人以上の多子世帯を対象に所得制限を設けない見通しだ。
しかし、所得制限撤廃には依然として反対の声も根強い。「高級マンションに住んで高級車を乗り回している人にまで支援をするのか」という政治家の発言に表れるように「世帯年収1000万円は勝ち組だ」というイメージが強固にあるからだろう。
たしかに、全世帯のうち年収が1000万円を超える世帯は12.6%にとどまり、ひと握りの勝ち組といえなくもない。だが、特に都市部の子育て世帯に絞って目を向けると、その印象はガラリと変わる。東京23区に住む30代の子育て世帯の年収の中央値は986万円で、48.6%が1000万円以上という報告が昨年末に世間を騒がせた。
そもそも、これらの世帯の大半は共働きだ。共働きの増加というと、「女性活躍推進」といったポジティブな側面で語られることも多いが、後述する子育て世帯を取り巻く厳しい状況に鑑みても、経済的な事情からやむを得ず共働きを選択している家庭は少なくない。一口に年収1000万円と言っても、夫婦二人でそれぞれ平均年収に近い500万円ずつを稼ぎ、やっとのことで家族を養っているという例も多いはずだ。そのため都市部の場合、世帯年収1000万円は感覚としては「富裕層」とはほど遠く、むしろ「中の中」、ごく普通と言っても過言ではないのだ。にもかかわらず、今まで所得制限の憂き目に遭ってきたというのが実情だろう。
ひと昔前では考えられないような「1000万円世帯」の悲痛な叫びがある一方、「今の子育て世帯が昔よりぜいたくな暮らしをするようになっただけでは」「そんな世帯に子育て支援を拡充するのは納得がいかない」という声も聞こえてきそうだが、現実はそう単純ではない。子育て世帯の平均収入が大幅に上がったということは、裏を返せば「一定程度の収入がないと子どもを持つこと自体難しくなった」ということではないか。
実際、2021年に国立社会保障・人口問題研究所が行った、予定子ども数が理想子ども数を下回る夫婦を対象にその理由を尋ねた調査では、「子育てや教育にお金がかかりすぎるから」が回答のトップとなっている。
いったい何にそんなにお金がかかるのか。なぜ年収が1000万円あっても生活が厳しいのか。そこには、当事者以外には想像し難い複雑な事情があった。
最大の要因の一つが増税と社会保険料の引き上げだ。この20年あまりで、年収1000万~1250万円世帯の負担額は年間約165万円から約225万円へ増加した。手取り収入が60万円減ったということだ。これだけ見ても、昔の年収1000万円と、いまの年収1000万円では、実質が全く違うということがお分かりいただけるだろう。
子育て中には住宅購入をするケースも多いが、住宅価格もかつてないスピードで上がっている。価格動向を示す不動産価格指数は直近で2010年比35%増、マンションに限ると2倍近くまで高騰している。2010年には5000万円弱だった23区の新築分譲マンションの平均価格は現在、1億円を超えるほどだ。人生設計を根本から揺るがしかねないほどの住宅価格高騰を前に、かつては通過儀礼のごとく買うのが当たり前だったマイホームも、夢のまた夢になりつつある状況だ。
「買えないから賃貸」というのも簡単ではない。不動産高騰の影響は賃貸価格にも及んでいる。ファミリー物件の賃料相場は過去最高レベルに達しており、23区では月20万~30万円の家賃を覚悟しないと暮らせない。このように、今の子育て世帯は、生活の土台となる住居選びの段階から困難に直面せざるを得なくなっているのだ。
教育費の負担も増している。現在の学費の平均額を幼稚園から大学まで通じてみると、すべて公立・国立に通った場合でも子ども1人あたり1000万円を超える(図(1))。これは文部科学省など公的な全国データを基に計算したものだが、このデータの3年前と比べても30万円以上高くなっている。
大学の授業料は国立大でも50年で15倍も上がり、今では在学費用は4年間で約500万円かかる。私大なら文系で約700万円、理系なら800万円超にもなる。子育て費用の中でも大学進学の負担は、かねてより特に重いといわれてきた。しかしそのスケールはここ30年で格段に上がっている。子どもの大学進学により家計が赤字転落する家庭も珍しくない。
もっとも、大都市圏などでは高校までの教育費も高くなりがちだ。首都圏の中学受験者数は少子化にもかかわらず過去最高を更新し続けており、受験本番を迎える1月中旬から2月にかけては、SNSで「#中学受験」がトレンド入りするのがいまや毎年の風物詩だ。
当然ながら塾代の負担は重くのしかかる。目安としては小学4年生ごろから6年生までの約3年間で、平均総額200万円前後とされているが、メインの学習塾と並行して苦手分野克服のための個別指導や家庭教師を利用することで、それ以上になる家庭もある。わが子の志望校への合格可能性を1%でも上げたいという親心が高じた結果、「課金ゲーム」のような状況が作り出されているのだろう。
受験戦争の激化に呼応するように受験対策の低年齢化も進んでいる。都心部などでは小学1年生から年間数十万円の塾代をかけているケースもままあるのが実情だ。
加えて私立中学の学費も値上げが相次いでいる。都内私立中で1年生時にかかる入学金と授業料の平均額は来年度、史上初の100万円超えを記録する見通しだ。
こうした事情に適応しながら子育てをするのは、年収1000万円世帯にとっても至難の業だ。それを確かめるべく、筆者は東京23区に住む夫婦と子ども2人からなる4人家族の世帯年収が1000万円だと仮定し、4歳差の子ども2人が中学受験を経て私立中高に進む場合の家計収支を、23区内の平均的な生活費や住居費を前提にシミュレーションした。
すると、第1子が中学受験のために小学4年生から塾に通い始めるとともに赤字転落し、第2子が大学を卒業するまで約15年間も赤字が続いてしまう。子どもの就学までにまとまった貯蓄がある(試算では便宜上、開始時点での貯蓄をゼロに設定しているため)、または実家から学費の援助を受けられるなど特別な事情がない限り、対策なしでは家計はほぼ確実に破綻してしまうことになる(図(2))。
最近増加している進学塾や私立中高の特待制度で教育費を抑える方法もあるが、当然ながら誰もが利用できる制度ではない。収入が増える見込みがない限り、可能な限り支出を切り詰める必要に迫られるはずだ。
そうなると、年末年始や夏休みの家族旅行費は真っ先に削減せざるを得ないだろう。宿泊費に新幹線代、航空券代が家族3、4人分かかれば、国内でもすぐに10万円を超えてしまう。インバウンドの拡大で観光地のホテル代が高騰している影響もあり、筆者の友人は年末に北海道旅行に行こうと旅行サイトで見積もりをしたところ、標準ランクのホテルに泊まり格安航空を往復利用しても家族4人で50万円近くになり、諦めたという。ましてこの円安下にあっては海外旅行などもってのほかだ。
また、マイカーはそもそも所有しないか、手放さざるを得ないのではないか。駐車場代やガソリン代等の維持費を合わせた月数万円のマイカー費用を浮かせるために役立つのが、電動自転車だ。子どもの送迎はもちろん、休日のレジャーもすべて自転車を駆使し、子どもを荷台に乗せて十数キロを移動する強者もいると言う。
もちろん外食は極力避ける必要がある。共働き家庭の場合、完全に外食なしの生活は難しいかもしれないが、行くとしても低価格帯のファミレスか1皿100円の回転寿司が限界で、子どもに好きな料理を注文させても、親は周囲の目を気にしながら注文せず、帰宅してから自炊するという涙ぐましい話も聞く。
このように、都市部では世帯年収が1000万円あっても、特に子ども2人が私立中高に進学するような場合、親はつましい努力を重ねることになる。最低限の生活には不自由しなくとも、従来の「1000万円」のイメージとはかけ離れた、実に質素な印象を抱くのではないだろうか。
今年に入り、東京都は私立中の子どもに対する年間10万円の授業料補助や、高校(私公とも)および都立大学の無償化において所得制限を撤廃する方針を正式に決定した。これらの制度では、国の児童手当とほぼ同様に、従来は目安年収1000万円前後を境に補助の可否が決められていた。
ひと昔前の設定がそのまま続いている所得制限は、ギリギリ対象外となる年収1000万円前後の世帯にとっては致命的ともいえ、「働き損」とも「子育て罰」とも捉え得る仕打ちだったのではないか。今回の子育て支援策は遅きに失した感すらあるが、今後の継続、そして更なる改善を期待したい。
子どもの教育にお金がかかり過ぎたがために老後破産の危機に瀕する場合も少なくない。試算で示した通り、子どもの進路によっては、前述のようなつましい生活を送ってもなお破綻と隣り合わせの家計が続くことになる。また、銀行にお金を預けているだけで年に3%や5%といった利息がついた時代とは打って変わり、今は預金ではほとんどお金は増えない。それどころか、インフレ局面に入り現預金の価値は目減り状態だ。
かつては鉄板の方法といわれた学資保険の利率も現在は非常に低く、お金を増やす目的として優れているとは言い難い。生活防衛のためには、預貯金や保険にとどまらず株式や投資信託等を含めた幅広い選択肢を持ち、自分で選び、運用できる金融リテラシーを身に付けることが不可欠になりつつあるのだ。
足りない老後費用を捻出する手段として、資産運用に積極的な子育て世帯も増えている。折りしも今年は新NISAが開始され、世間の投資意欲が高まっている。超低金利の時代に育った若年層では投資を生活防衛術と捉える向きもあり、NISAの口座開設数は急増している。
新NISA制度では、年間で投資できる上限額が360万円(うちつみたて投資枠120万円)へと大幅に引き上げられた(従来はつみたてNISA年間40万円、一般NISA年間120万円で、どちらか一方のみ利用可)。非課税になる期間も今までは限定されていたが、今年から無期限となった。生涯で1800万円まで、ずっと非課税で投資できる。資産運用の裾野は確実に広がるだろう。
逆に言えば、普通に暮らしていくためのお金を現金や預金だけで管理する時代は、もはや終わりつつあるといえるのかもしれない。数年前に「老後2000万円問題」が話題になったが、働いて稼いだお金から毎月少しずつ貯金するだけでは、子育てを終えてからの老後を十分に暮らしていける額には届かないばかりか、そもそも定年退職までにほとんど貯金ができていないケースが、すでに老後を迎えた世代でも少なくない。前出の試算例のように、子どもの進学ゆえに長らく家計赤字が続いた場合には、退職金収入があっても老後資金は不足する(図(3))。その上、期待通りに退職金がもらえなければ老後破産も免れない。
今まで資産運用をあまり経験してこなかった人が、中高年になってから投資や資産運用を始めるのはハードルが高いかもしれない。いきなりハイリスクな投資をして痛い目に遭うのは避けたいところだ。まして、十分な知識なく儲け話に乗って投資詐欺に遭うなどという事態は絶対にあってはならない。
とはいえ、かりにいま60歳前後なら、平均寿命までは約20年もある。このまま全く何もせずに貯金を取り崩して生活するのと、貯金のうち一部を少しでも運用して増やすのとでは、10年後、20年後のゆとりが違ってくる可能性もある。
話を冒頭の少子化対策に戻すと、財源確保のためには現役世代の所得向上のほか、公的医療保険の保険料上乗せや高齢者医療の窓口負担増など、子育てを卒業した世代の負担を重くする案も挙がっている。「少子化克服のラストチャンス」は、どの世代にとっても他人事とはいえない状況だ。
これからの人生を豊かに暮らせるか、生活防衛のラストチャンスとして、今年はお金の管理や資産運用に向き合ってみてはいかがだろう。
加藤梨里(かとうりり)ファイナンシャルプランナー。慶應義塾大学大学院健康マネジメント研究科修士課程修了。保険会社、信託銀行、ファイナンシャルプランナー会社を経て2014年に独立。マネーステップオフィス株式会社代表取締役。著書に『世帯年収1000万円』、監修に『ガッチリ貯まる貯金レシピ』等。
「週刊新潮」2024年2月15日号 掲載