厚生労働省が2008年から続けている「健康のため水を飲もう推進運動」によると、人間が1日に必要とする水は2.5リットル。その水分摂取量が不足すると、さまざまな健康障害が引き起こされることが分かってきたため、仕事や運動中も、こまめに水を飲む習慣が広まりつつある。ところが、一部の人たちによる大きな声の抗議によって、スムーズにすすめられない事態が起きている。人々の生活と社会の変化を記録する作家の日野百草氏が「水分補給タイム」をめぐって露わになった、多様な意見に折り合いをつける難しさについてレポートする。
【写真】国会でも水分補給
* * *「水分補給タイムです」
広い店舗内に流れるアナウンス、関東のスーパーマーケット。本稿では特定されないようアナウンスの言葉を少し変えているが、要するに「このアナウンスで従業員は水を飲んでよし」ということである。
それにしても、この「水を飲む店員はけしからん」という風潮。もう、この国の病理と言ってもいいような気がする。店員としたが運送にせよ、医療関係にせよ口々にエッセンシャルワーカーの方々から「おかしい」と発せられるのがこの「水を飲む店員(ドライバー、医療従事者など)はけしからん」である。
もちろん「水を飲む店員はけしからん」とするのは一部とはいえ客の側である。その延長線上に店舗運営側による「一部の客がうるさいから水はなるべく飲むな」もあるか。厚生労働省は『健康のため水を飲もう』推進運動の中で「『運動中には水を飲まない』などの誤った常識をなくし、正しい健康情報を」としている。
同じくエッセンシャルワーカー、とくに店員に強いられる「ずっと立っていろ」など、この国の何が何でもやめられない「空気」というものがある。もちろん、諸外国にもそれぞれの「やめられない」はあるが、この国の「誤った常識」のひとつがこの「水を飲む店員はけしからん」ということか。
ちなみに本稿、厚労省と同様に便宜上「水」としているが、真水はもちろん経口補水液やスポーツドリンク、お茶など引っくるめての「水」である。各々の趣向や健康状態により摂取内容は変わるだろうが、「私たちが生きていくために『水』は欠くことのできない存在」(厚労省)であることには変わりない。
先のスーパーのレジ、イラストとともにこうもあった。
「従業員も水分補給をさせていただいております」
おかしい。断る必要などないと思う。「けしからん」と客が思う必要があるのだろうか。客は商品を手に入れる、店は商品を売る、それだけの関係のはずだ。
もちろん、きめ細やかなサービスや触れ合いもあるだろうし大切かもしれないが、実際はその「サービス」(「ボランティア」と同様に「無料奉仕」と誤用されて定着したとされる外来語)すら、本来の意味とはかけ離れた使われ方をしているケースがある。
また、病院のコンビニで「御理解をいただいた病院の売店や自動販売機で飲食物を購入し、飲食を摂ることとしました」(神奈川県川崎市・2023年)などの掲示奴も「けしからん」と苦情を言われる現実がある。救急車のフロントガラスに「ただいま水分補給中です みなさまのご理解・ご協力をお願いします」(千葉県佐倉市)という掲示もあった。これらの地域が特別なわけでなく、多くの自治体、現場で同様の掲示がなされている。
それにしても、この「水を飲む店員はけしからん」という人々はどこから来て、どこにいるのか。いるからこそ、それなりの数が出没するからこそ日本全国で同様の「水分補給をさせていただいております」「水分を摂らせていただきます」と現場が客に逐一、断りを入れなければならない。
まず東京市部のスーパーマーケット、冒頭の店ではないが店長の話。
「飲むことが問題というより、飲む姿が問題のようです。いろいろなお客様がいらっしゃいますからね『私の順番になって飲み始めた』とか、『あの店員は飲み過ぎ』とか、ほんとうに難しいですよ」
店長は言葉を選んでいたが、筆者があえて代わりに言うならストレートに「おかしな客」だろう。そんな客はほとんどいない。私たちのほとんどはそんな客ではない。むしろ「お水くらい飲んで」である。
しかしそうでないごく一部の人がいる。これこそ本当に声が大きいというか、とんでもなく目立つ、ということか。
「本部に投書したり、ネットに書き込んだりします。とくにネットは困ります。SNSより匿名の地域掲示板とか、検索エンジンの店舗情報の口コミとかが多いですね」
もちろん高齢者の場合は直接言ってくる。
「だからレジ内にしゃがんで水分を摂るとか、みなさん工夫してますよ。面倒なことになるからレジでは摂らない、という店員もいますね」
水を摂ることの何が問題なのだろう。実際に「水を飲む奴はけしからん」なお客に話を聞いてみたいが難しそうだ。
そこで筆者のとある集まりに来ていただいている一般高齢者のみなさんに「店員が水を飲むことをどう思うか」を聞いてみた。もちろん、大半は「水くらい飲むわよね」「お水くらいいいでしょ」だったが、1名だけ意見が異なった。
「仕事だから水くらい我慢しろと思う。客の前で飲食なんて、私の世代ならありえない」
世代の問題でなく彼の問題だと思うのだが、案の定、他の方々からは「いまは時代が違う」と非難轟々であった。このように高齢者が全員そうではない、しかし、ほんとうに一部にはこうした方がいらっしゃる。別に彼をあげつらうわけでなく、実際にいる、という話である。
その中の元教員の方は「いまは時代が違う」としてこう話す。
「私たちのころは部活で水なんか絶対に飲ませなかった。炎天下でも水なんか飲んだら往復ビンタとか、追加で腕立て伏せ百回とかだった。どうしてそういうことをしたかと聞かれると困るが、そういう時代で、そういう空気で、それが許されて当たり前だった、としか言えない」
名門国立大学を出ている彼でも「なぜだかわからない」とのことで、「学の問題とかではない」とも話す。
「そういう時代の人とか、その影響がいまだに若い人にも残っているとか、そういうことだと思う。当時も生徒間で「こいつ水飲んでたぜ先生」と告げ口する生徒がいた。言い方が難しいが、そういう文化もある」
自分に関係なくとも「誰かが得をするのは気に入らない」ということか。学校の話は昔の話だが、実際に令和の日本で「水を飲む奴はけしからん」は存在している。
関東のコンビニオーナーにも話を聞いた。
「コンビニはすぐ裏がバックヤードだから水分補給はし易いけど、面倒な客はスーパーマーケットと変わらないね。品出し中に店員があくびしたって文句言ってくる客もいるし」
客の前で見せつけるように生あくびをしたわけでもないのだから、あくびくらい許してやれと思うのだが。
「世の中ってびっくりするほどいろんな人がいるからね。本当にめったにいないんだけどね、ひとりいるとそれが大きくなっちゃうんだ」
大きくなる、とはお客さまセンターやら、ネットということか。
「そういう人はひとりで何十回とかクレーム入れるからね。ネットならひとりで何十人でも何百人でもなれちゃうし、ものすごく大きな声っぽくなっちゃうよね」
ネットの種類にもよるがSNSも含め、そうしたケースはある。声なき声が大半でも、声の大きい少数が大きな声を出せばそれが大勢となる。これは「水を飲む店員はけしからん」に限った話ではないだろうが、社会を窮屈なものにしている一因であることは確かなように思う。
「言う事をきく必要はないって意見が多いのはわかるけど、なるべく穏便にしないとエスカレートするし、言う事きけば大人しくなることが多いからって事なかれが『お水を飲ませていただきます』だと思うよ」
先の高齢者の中には別の見方をする方もいた。
「ずっと昔はゆるかったのにね。まだ個人商店ばっかりのころよ。商店街とか、みんな適当な接客だった。スーパーだってみんな正社員だったから意見は強かったしね。店員さんがストやったり、労働組合が強かったりしたころよ」
確かに、筆者も1970年代後半なら幼少期の記憶としてうっすら覚えているが、デパートやスーパーの店員は正社員かつ、けっこう「なあなあ」だったような気がする。商店街に至っては「日常の中で物を売っている」という感じで赤ちゃんをおぶったままだったり、万年こたつにあたったままだったり、奥で食事中だったのか口にものを入れたまま「何買うの?」どころか煙草を吸ったりせんべいを食べながら店番をしていたりした。「売ってやってる」は諸外国で当たり前に遭遇するが、昔の日本にもあった。
昭和と現代のギャップを面白おかしく描いた『不適切にもほどがある!』なんてドラマが放映されているが、是非はともかく、そういう時代は確かにあった。
先の元教員が語る。
「バブルが弾けたあたりですかね、冷戦の終わりごろ、1990年くらいから締めつけというか、従業員に対する管理が徹底したように思います。それは教員も同じでした。理由はいろいろなのでしょうが、日本人に余裕がなくなったこと、非正規が増えたことが一番のように思います」
これも「失われた30年」ということか。見解はさまざまだが、思えば教師も昭和のころはめちゃくちゃで、職員室で煙草を吸っていたり、缶コーヒーの空き缶タワーを築いてご満悦だったりした。
「あなたの時代より前だと教員たちで校長を吊るし上げることもありました。労働運動が良いか悪いかは人によるのでしょうが、意思を示すことができた時代のほうが緩かった。声を上げなければ好きなようにされる、それは事実だし、日本人ってそんなに窮屈じゃなかったように思うのです」
日本人は云々、とされるが、思えば江戸時代などまさに適当で町人はのんべんだらりと暮らしていたことはよく知られている。たいして働き者でもなければ、案外と横柄な文化だったとされる。もちろん身分差別や年貢など大変だったし封建社会ならではの不自由さはあったのだろうが、現代の日本人が歴史上で一番の働き者で忠誠心の高い、他人に厳しくいちいち細かい日本人なのではないかと思わされる。
「水分補給タイムです」
冒頭のこれ、じつは近年の高校野球の開会式でも流れて久しい。実際の文言は、
「ここで、熱中症予防のため、水分補給の時間を設けます。グラウンドのみなさん、スタンドのみな様も、ご協力をお願いします」
である(細かい言い回しは大会による)。
行進中はともかく、喉の乾きなど人それぞれなのだから水分を補給する行為など、著しく進行の妨げにならない限り好きにさせればいいのに、と思ってしまうが、それでも水分補給なしで延々と炎天下の開会式に立ちっぱなしの以前よりはまし、ということか。もっとも、スポーツ(とくに部活)に関しては今も昔も「水分を摂るな」は長かった。
ちなみに高齢者の方々からは「三波春夫のせい」という意見もあった。もちろん冗談だが、三波春夫の「お客様は神様です」というフレーズのことだろう。
しかし三波春夫のこの言葉はまったく違う意味である。実際に三波春夫のオフィシャルサイトでは『「お客様は神様です」について』として、こう綴られている。
〈歌う時に私(三波春夫)は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払ってまっさらな、澄み切った心にならなければ完璧な藝をお見せすることはできないと思っております。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。ですからお客様は絶対者、神様なのです〉
お客様に歌を披露するための、三波春夫個人の心がけの話、であった。客からの要求や客に対する忖度やへつらいとしての「お客様は神様です」ではなかった。あくまで芸事の、それも送り手の側の話であった。
これがいつの間にか「お客様は神様だから言うことはなんでもきかなければならない」「お客様は神様だから絶対なのですべて従わなければならない」「私はお客様だから神様であり、神様である私の言うことをきいて従うべきだ」「私はお客様という神様」に転じてしまった。
そんなわけないのは多くが知っている、しかしそれを言い出せない空気があり、それでずっと来た。それ幸いと目的外利用する経営者や自分の気晴らしのために悪用する客もあった。それでずっと、この国は来た。
もっとも、椅子があってレジ係が座れたり、案内がなくとも自由に水分補給のできたりするチェーン店も現れ始めている。外資系など顕著だが、ごく少数とはいえそうした時代の変化に対応しようとしている萌芽はある。それでも「水を飲む奴はけしからん」とそれに怯える店舗側という構図がいまだ大半だろう。
「お水を飲ませていただきます」
おかしな話だ。喉が渇いたから水を飲む、ただそれだけの生物として当たり前の行為を咎める空気を変えることもまた失われた30年からの脱却、またそれだけにとどまらないこの国の人間らしい生き方、新しい時代への先鞭となるように思う。
【プロフィール】日野百草(ひの・ひゃくそう)/日本ペンクラブ会員。出版社勤務を経て、社会問題や社会倫理のルポルタージュを手掛ける。