236名の命を奪った「能登大地震」から4週間。押しつぶされた家屋や灰じんに帰した火災現場には時に冷たい雪が舞うが、犠牲者の無念、そして残された者たちの悲しみは決して覆い尽くされることはない。大寒を迎えた被災地から聞こえる声に耳を傾けよう。
***
【写真を見る】絶叫気味に避難を呼びかける姿が話題となった山内泉アナ
石川県は1月15日以降、犠牲者の死因を公表している。その9割弱は「家屋倒壊」。死者のほとんどは倒れた家屋などの下敷きになる「圧死」や「窒息死」だったということだ。
「正月には子どもと一緒に会いに行く予定でした。みんなと会うのが楽しみだと母は言っていましたので、最後に顔を見せてあげられなかったのが心残りです」
そう語るのは、外(そと)武志さん(60)。輪島市中心部・堀町(ほりまち)にある実家が倒壊し、母・節子さん(89)と弟・忠司(ただし)さん(58)を失った。
地震が発生した元日夕刻、武志さんは自宅のある金沢市にいた。輪島で震度6強の揺れがあったと知り、電話をしたものの両名ともつながらない。車を走らせるも、道路の寸断や渋滞などで引き返さざるを得なかった。
救出されないまま3日が経過すると要救助者の生存率ががくんと下がる「72時間の壁」。それが迫る中、
「4日の夕方、消防の方から連絡がありました。母が1階の居間で無事に発見された、と。救出の際にうめき声を発しながら手を動かしていたそうで、担架で運ばれる時も、付けられた酸素マスクを払いのけるほどだったそうです」
一方、
「弟はダメでした。同じ居間で柱に挟まれて。普段は2階にいますから、1回目の揺れの後に母の様子を見に下り、その間に2回目が来て下敷きになってしまったのではないでしょうか」
翌5日早朝、輪島市立病院で節子さんと面会した。
「“電話してくれてありがとうね”と言う。まだ状況把握ができていなかったようです。目立った傷は頬の擦り傷くらいでしたが、3日間片脚を折り曲げた姿勢だったようで、お医者さんからは“絶対、クラッシュ症候群になるから、全力を尽くして対応します”と言われました」
クラッシュ症候群とは、長時間体が圧迫されたことによる種々のショック症状で心停止状態に陥ることだ。
「でも私はそんなことはないと高をくくり、弟の葬儀の準備もあるので、金沢に帰ってしまったんです。その日の深夜、容体が急変したと連絡があり、急いで駆け付けましたが帰らぬ人となってしまいました。まさかこうなるとは思わなかった。一緒に、そばにいてあげればよかった。今さら遅いですが後悔しています」
節子さんは輪島生まれの輪島育ち。長らく市役所に勤務し、40年ほど前に夫を亡くしている。
「ジャイアンツと孫が大好きでした。私の子はサッカーをしているのですが、試合の度に“どうだった?”と電話をかけてきたり、行事があると見にきたり。実家で遺品整理をしていたら、孫が地元紙に載った記事の切り抜きがたくさん見つかったんです。大切に取ってくれていたみたいで……。胸がいっぱいになりました」
忠司さんは元自衛官。伊丹に勤務の頃は、阪神・淡路大震災の現場にも駆け付けた。独身で、定年後、輪島に戻って節子さんと二人暮らしをしていた。
「大の読書家で、ミステリー小説が好き。段ボール箱何十箱分もの本を持っていました。最後に会ったのは昨年末。実家で食事をしました。母は珍しく、すしも焼き鳥もお肉もたくさん食べて……」
節子さんの死後、看護師からこんな話を聞いた。
「亡くなる数時間前、母は正気に戻ったのか、“忠司、忠司”と叫んでいたそうです。数メートル先でもはっきりと聞こえるような声で」
最後まで息子を気遣う“母”の姿だった。
その輪島市街地から15キロほど離れた山あいに、同市門前町高根尾(もんぜんまちたかねお)地区がある。
「妻が亡くなったという実感はないままです」
門前中学校に設けられた避難所でそう語るのは、渡辺重光さん(70)。40年ほど連れ添った妻・秋美さん(65)を亡くした。
「あの日は初詣に行ってお昼ご飯を食べた後、1階の居間でテレビを見てゆっくり過ごしていたんです」
そんな時に1回目の揺れが来た。
「避難しようと妻と一緒にガスやストーブなんかを止めて回っている時に2度目の揺れが来た。2階部分が落っこちてきました」
重光さんは落ちてきた梁と床の30センチほどの隙間で、身動きが取れなくなった。
「妻はすぐそばで背後から倒れてきた柱に打ち付けられ、うつ伏せで倒れていました。僕も断続的に意識を失っていたので正確には覚えていないのですが、妻が“寒くなってきたね。寒くなってきたね”と繰り返し言うので、体をさすり、何とか温めようとしました」
しばらくすると救出に来た集落の人の声が聞こえた。
「しかし、僕と妻は完全に埋まってしまっているのでどこにいるのか見つからない。後で聞いた話では、隣の家の人も埋まっていたものの、やり取りはできたので、そちらの救助が先に行われていたそうです。その間も“ちょっと待っていてくれ”などという声は聞こえていたので、妻に“頑張れ。頑張れ”と声をかけ続けました。でも徐々に返事はなくなっていきました」
余震が続く中、重光さんに救助の手が届いたのは地震発生から4時間が過ぎた20時ごろ。
「集落の人たちはドンドンと屋根をたたききながら、“どこにいる?”と。下から僕もたたいて“ここや!”と叫ぶ。最後はチェーンソーやバールで屋根が突き破られ、助け出されました。集落のみんなは妻も助けようとしてくれたのですが、辺りは真っ暗で緊急地震速報も鳴り響いていた。あまりに危険ですし、妻がもう無理だということは分かっていた。“もう冷たくなっているから”“危ないからやめよう”とみんなに頭を下げて避難所に入りました」
秋美さんの遺体が発見されたのは4日の朝だった。
「3日ぶりに対面しました。警察の方から“顔と着衣の確認をしてください”と言われましたが、一目で妻だと分かりましたよ」
遺骨は現在、秋美さんの姉に預けており、
「集落のみんなと一緒に、家屋につぶされた車を掘り出す作業を行っています。今は避難所ですが、いつか仮設住宅に入ったら一人になったことを実感するんでしょうか。趣味という趣味もないごく普通の専業主婦でしたが、私にとっては本当に良い妻でしたよ」
236名の死者に加え、安否不明者は19名残る。被災地に鳴り響く慟哭(どうこく)は、いまだやむことを知らない。
「週刊新潮」2024年2月1日号 掲載