高齢化が進む昨今、「万が一の事態」に備えたくても、離れて暮らしているなどして対策ができていない人は少なくありません。裕介さん(仮名・50歳)も、月に1~2回必ず実家に電話をかける母親思いの息子でしたが、ある日突然訪れた「母の変化」に後悔するしかありませんでした……。司法書士法人永田町事務所の加陽麻里布氏が、裕介さんの事例をもとに「親子で認識しておきたい“生前対策”」について解説します。
都内在住の秋山裕介さん(仮名・50歳)のお話です。裕介さんは15年前に父親の忠志さんを亡くし、のこされた母親の信子さん(83歳)は、それから兵庫県でひとり暮らしをしていました。
信子さんには、国民年金と遺族年金を合わせて月15万円ほどの収入があります。持ち家ということもあり、生活には困っていません。しかし、ひとりっ子で母親思いの裕介さんは、高齢の母親がひとり暮らしをしていることを気にかけていました。月に1~2回は必ず電話をかけ、孫の声を聞かせつつ、信子さんの生活状況を確認する日々が続いています。
裕介さんの「母さん、元気? 大丈夫?」という電話での問いかけに信子さんは、「大丈夫、大丈夫。こっちは元気にやってるから心配ないよ」と、いつもハキハキしっかりと返答していました。
電話はこまめにかけているものの、裕介さんは仕事が忙しく、4歳差の2人の子どもも受験が続いたことから、3年ほど実家には帰省できていません。
そばに住んでいれば様子を見に行けるのですが、東京から神戸までは遠く、交通費もかかるため、気軽には帰省できませんでした。そのため、電話で話す母親の元気そうな様子を信じるしかありません。
そんなある日のことです。裕介さんがいつものように電話をかけると、信子さんの様子が違います。ひとつの話をするにも結論に行く前に何度も最初に戻り、またイチから話し始めるのです。途中で「母さん、それでどうしたの?」と口を挟んでも、何度も同じ話をぐるぐると繰り返しています。
「隣の山田さんがこないだ亡くなってな……そんでな……あー、ほら、隣の山田さんがこないだ亡くなって……」
裕介さんが驚いた点は、他にもあります。息子の裕介さんのことを、父親の名前である「忠志」と呼ぶようになりました。
「忠志さんも仲良くしていたやろ。隣の山田さんがな……」
年齢上、多少耳は遠くなってはいるものの、明らかに様子が変です。母親が心配になった裕介さんは、急遽単身で帰省することにしました。

新幹線からローカル線に乗り継いで4時間。ようやく着いた実家の玄関を開けると、異様な臭いがします。いつもなら、母親お気に入りの柔軟剤の香りに包まれ「実家に帰ってきた~」とほっとするのですが、裕介さんは「まさか亡くなっているんじゃ……」と胸騒ぎが止まりません。
「ただいま!」
玄関先で呼びかけても反応はありません。なかへ入ると、まるでそこはゴミ屋敷のようでした。
テーブルの上はいつのものかわからない腐った食べ物が並び、床はゴミに溢れ足の踏み場もありません。綺麗好きの信子さんは、いつもきちっと部屋を整理整頓していたので、空き巣でも入ったのかと思うほどの異様な光景です。
そんななか、裕介さんは、居間のテレビがついているのに気がつきました。
「母さん!」
信子さんは、ソファーに座ってテレビをぼーっと見ています。裕介さんの呼びかけに、ようやく信子さんは反応を見せました。
「あら、忠志さん。……おかえりなさい」
信子さんは、久しぶりに帰ってきた裕介さんの姿を見ても、父親の忠志さんだと思い込んでいるようです。
「母さん! なに言ってんだよ俺だよ。裕介だよ」
裕介さんが必死に自分の名前を伝えても、「ああ……そう」と鈍い反応をみせたあと、再びぼーっとテレビを見始めてしまいました。明らかに意思の疎通ができていません。
裕介さんは、この母親の変化に確信を持ち、すぐに信子さんを近所の総合病院へ連れて行きました。案の定、検査の結果「認知症」であると判明しました。
いつかこんな日が来ることは、頭の片隅に置いていたつもりです。しかし、実際に認知症であるとはっきり診断されてしまうと、「いよいよその日が来てしまったのか」と、裕介さんは深くため息をつき、肩を落としました。
実家に戻り、この先どうすべきかを考え込む裕介さん。すぐに東京へ連れて行って一緒に暮らすのは難しく、また親戚はほとんど亡くなってしまっていることから、実家の近くに頼れる人は誰もいません。そこで、ネットで介護サービスについて検索すると、さまざまな介護サービスがヒットしました。
「当面のあいだだけでも、介護サービスを利用するしかないな。しかし、金が……」
気持ちを切り替えて、ひとまず散らかり放題の家を片づけることにしました。すると、ゴミの山のなかから信子さんがいつも使っているカバンが出てきました。なかに入っていたお財布を確認すると、キャッシュカードと小銭が入っています。
「そうか。貯金と年金から出せる分は母さんに出してもらえれば、介護費用はなんとかなりそうだ」
そう思って、裕介さんは、信子さんに銀行口座の暗証番号を聞きました。
「母さん。銀行口座の暗証番号ってわかる?」「えーとね。さわやか銀行やったけ? 12……12……えー……」「母さん! しっかりしてよ。暗証番号がわからなかったらお金は引き出せないじゃないか!」
「母さん。銀行口座の暗証番号ってわかる?」
「えーとね。さわやか銀行やったけ? 12……12……えー……」
「母さん! しっかりしてよ。暗証番号がわからなかったらお金は引き出せないじゃないか!」
裕介さんは、焦ります。どこかに暗証番号が書いている紙がないか必死で探しましたが、それらしき紙は見つかりません。
キャッシュカードの暗証番号は、3回間違えるとロックがかかる金融機関がほとんどです。また、ロックがかかる前に金融機関に問い合わせたとしても、本人が認知症であるとわかれば銀行によって口座が凍結されてしまう可能性があります。
信子さんの口座からお金がおろせなくなれば、裕介さんが介護にかかる費用をすべて負担しなければなりません。
「くそっ……こうなる前にいろいろ準備をしておくべきだった!」
裕介さんは、つい大きな独り言をこぼしましたが、もうどうすることもできません。

現在、日本国内にひとり暮らしをする高齢者は、873万世帯あります。そのうち、男性のひとり暮らし世帯が313.8世帯であるのに対し、女性のひとり暮らし世帯は559.2万世帯と、ひとり暮らしの高齢者は女性のほうが多いです(厚生労働省「2022年国民生活基礎調査」より)。
したがって、裕介さんのように、父親を亡くしたあと、ひとり暮らしをする高齢の母親を心配のする人は多く、年々増加傾向にあります。
生前贈与など、親が認知症になる前にできる対策をしっかり行っていれば、裕介さんのような状況は避けられます。しかし反対にいえば、認知症を発症する前でなければできない対策があるということです。
親が認知症になる前にできる対策としては、
’ぐ娶絽家族信託生前贈与
’ぐ娶絽
家族信託
生前贈与
があります。
,痢崘ぐ娶絽」は、財産管理のみでなく契約行為や法律手続きの代理も任せたい場合に有効な方法です。
△痢峅搬何託」は、所有している財産の一部(不動産や株式など)の管理や運用の処分を任せたい人がいる場合、二次相続対策をしたい人がいる場合におすすめの方法です。
の「生前贈与」は、財産の所有権を子供に移したい場合、生前贈与の控除や特例を活用して相続税や贈与税の節税をしたい場合におすすめの方法です。
認知症になる前にこのような対策をしておくことによって、子どもが背負う介護費用などの負担を軽減することができます。
しかし、これら3つの方法はすべて、親子関係が良好であり信頼関係を築けている家族にはおすすめですが、親子関係が良好でない(不仲である)場合は難しい方法です。
したがって、日頃から親子でよく話し合い、なるべく良好な親子関係を保ち、対策を練っておくことをおすすめします。
加陽 麻里布
司法書士法人永田町事務所
代表司法書士