テレビ朝日法務部社員の立場で国際政治学者の三浦瑠麗氏を訴え、最高裁まで争って勝訴した西脇亨輔さん(53)が、同局を退社して弁護士事務所を開業した。6月に裁判闘争をまとめた著書を出版し、7月には法務部長に出世したばかりだった。いったい何があったのか。独立の理由を聞いた。
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【写真を見る】西脇さんがまだアナウンサーだった頃、元妻の村上祐子さんとのツーショット。2人は「やじうまワイド」の共演がきっかけで結婚した退職を決意したのは「2週間前だった」「一昨日、越してきたばかりでして…。慌ただしくてすみません」 4カ月ぶりに会った西脇さんが出迎えてくれたのは、千代田区・内幸町の会議室だった。11月20日にテレビ朝日を退社したばかりの西脇さんはこのフロアに弁護士事務所「西脇亨輔法律事務所」を開業した。裁判所までは徒歩約5分。新人弁護士も多く利用するレンタルオフィスの一角である。退職の意思を固めたのは2週間前で、それからここを探し当てたという。

新しい職場の「レンタルオフィス」で取材に応じる西脇亨輔さん「あっという間に色々なことがありすぎて、まだ自分でも混乱しています」 確かに急すぎる話だった。記者がその前に西脇さんに会ったのは”告白本”を出版した直後の7月上旬で、法務部長に昇進したばかりのタイミングだった。その時は「仕事に大きな影響は出なくて良かった」と“騒ぎ”を振り返っていたのである。あれから4カ月でいったい何があったのか。東大法学部在学中に司法試験合格し、アナウンサーへ 話の核心に入る前に西脇さんの経歴を振り返っておく。筑波大学附属高等学校を経て、1989年に東京大学法学部に入学。在学中に司法試験合格を果たした秀才だった。東大の同じクラスには木原誠二前官房副長官、丸川珠代参院議員。 だが司法修習中に初めて経験したひとり暮らしで「テレビを生まれて初めてじっくり視て、興奮した」とテレビ業界へと志望を変更。95年にテレビ朝日に、弁護士資格を持つ異色のアナウンサーとして入局した。「その後12年間、『やじうまワイド』『ニュースステーション』『スーパーモーニング』などの情報・報道番組を担当。『天然キャラ』としてお茶の間で人気を博しましたが、07年に法務部に異動した。アナウンサー職を離れたのは、6期下の後輩アナ・村上祐子氏と結婚し、夫婦で同じ職場は良くないという話になったからです」(テレビ朝日関係者) それから社員弁護士として会社を裏方として支えることになった西脇さんだが15年頃から、順風万帆だったサラリーマン人生が暗転していく。始まりは村上氏との別居だった。泥沼の離婚訴訟に発展する最中の19年9月、西脇さんはさらにもう一つの民事訴訟を起こす。それが三浦瑠麗氏を訴えた名誉毀損訴訟だった。「きっかけとなったのは19年4月の週刊ポスト報道だった。ポストは、西脇氏と別居中だった村上氏とテレビ局記者との“お泊まり愛”をスクープしたのですが、村上氏と親しかった三浦氏はその直後、あからさまに村上氏を擁護して夫婦関係について暴露するツイートをした」(同前)「ここで泣き寝入りしたら、自分が壊れてしまう」 西脇氏はそのツイートに対してブチぎれ、名誉毀損やプライバシー侵害にあたると三浦氏を訴えたのである。 所詮はツイートだから無視すればいい、という考え方もあったはずだ。ましてや相手はテレ朝の看板番組である「朝まで生テレビ」のレギュラーコメンテーターだ。そもそもトラブルの元となっている元妻も同僚である。通常の会社員であれば、関係者を引っ掻き回す裁判沙汰は避けようと考えたかもしれない。 だが、西脇氏は「ここで泣き寝入りしたら、自分が壊れてしまうと感じた」と、周囲の反対を押し切り、自ら法廷に立って戦った。そして最高裁まで争い、今年3月に勝訴をもぎ取った。3年8カ月もの月日をかけて得たものは30万円の賠償命令。まさに男の意地を貫き通したのだった。 それだけにとどまらず今年6月、この法廷闘争を『孤闘 三浦瑠麗裁判1345日』(幻冬舎)という本にまとめて緊急出版した。これもまた業界をどよめかせた。 当然、本を出せば再び関係者を刺激することになる。立派に戦い抜いて勝ったのだから黙っているのが花と考えるべきところだ。だが、ここでも西脇氏は「自分の経験を歴史に残しておきたい」と我を押し通した。会社からは「お咎めなし」だったのに… ここまでの話で疑問に思うのは、このような西脇氏の「個人活動」に対してテレビ朝日がどう対処してきたかであろう。記者もこれまでその疑問を西脇さんに幾度となくぶつけてきた。上司や同僚からの嫌みを言われたり、嫌がらせ、圧力、妨害などはないのか。ぶっちゃけ、会社で浮いた存在になっているのではないか――。 だが、西脇氏は「上司には『ご迷惑をおかけします』と報告しながらやってきた。業務に迷惑をかけないようやっているので筋を通してはいます」といつも答えていた。前出のテレ朝関係者も「会社としても本音では眉を顰めているかもしれませんが、個人が裁判を起こす権利まで制限することはできなかったのが実情」と話す。実際、出版直後に西脇氏はヒラ社員から法務部長に出世していたし、裁判や出版が原因で会社を追われたわけではなさそうだ。 では前置きが長くなったが、なぜ急転直下、退職することになったのかご本人から事情を伺っていこう。「三浦さんとの裁判は個人的な活動だったとはいえ、会社に迷惑をかけたことは事実でした。わがままを貫き通した私を部長に昇進してくれた会社に感謝し、7月の時点ではこれまで通り法務部で頑張っていくつもりだったんです。ただ、本を出版したことで私の中で大きな変化が起きた。入社の動機だった報道取材への思いが、再び燃えてきた」(以下、西脇さんの話)木原事件との出会い 西脇さんは幻冬舎の編集者から「三浦氏との裁判の経験を本にしてみませんか」と声をかけられた3月末から、自宅ワンルームマンションに約1カ月間籠って、これまで自分が闘ってきた裁判の膨大な資料と格闘する日々を送った。「私の裁判は、三浦瑠麗さんという有名人の名前を抜いてしまえば、日々、全国の裁判所で繰り広げられているような小さな事件でした。ただ、ニュースで取り上げられないような小さな事件であっても、そこにはいつも、傷ついて理不尽な思いをしている被害者の闘いが存在しています。自分の経験を通してそのことを多くの人に伝えたかった」 西脇氏にとって本の執筆は、“自分”という取材対象者に向き合いながら、世間に埋もれている“声なき声”を届ける作業だったという。「そんな体験をした後、知人から『木原誠二官房副長官の妻の元夫が変死した件を取材してみないか』と声をかけられたんです。木原氏とは東大で同級生だった縁もあった。そこでまずは調べてみようと、遺族や捜査を担当した元刑事などに話を聞いていきました」会社に無許可で記事を執筆 すると、どう考えてもこの件はおかしいという結論に至ったというのだ。「他殺の可能性を否定できないのに捜査を打ち切った理由が不明で、もし圧力や忖度があったのなら著しく正義に反している。このことをもっと世に問うべきだと思った」 そして、西脇氏は10月27日発売の「週刊現代」に〈木原誠二君、遺族の慟哭を聞きなさい〉というタイトルの記事を寄稿、独自取材で掴んだ数々の疑問を発表したのである。だが、会社に許可を取らないままの“暴走”だった。テレ朝としては前回のように「個人活動」として看過できなくなった。「テレ朝も報道機関として木原事件を取材しています。それを飛び越して、法務部長の肩書きを持つ私が勝手に取材し、個人の見解であろうとも世に発表するのは会社人として『ルール違反』でした」 ただ西脇氏はそれを理解しながらも、自制できなかった。「この問題は週刊文春が繰り返し報道してきましたが、他媒体ではほとんど扱われていません。遺族の悲しみに直接触れた身として黙っていられなかったのです。もちろん、自分1人の力で全てをひっくり返せるほどの新事実を突き止めたわけではありません。でも少しでも多くの人にこの件を知ってもらうためなら、職を失っても惜しくないと思った。最後は自分から辞める覚悟を決めて、講談社の編集者と記事を作って勝手に出してしまいました」現世での幸せは諦めているので… そして、結局、辞めざるを得なくなってしまったというのだ。再び信念を貫き通した西脇さんだったが、いざ独り立ちした心境はどうなのか。「勢いで辞めてしまったので、正直、怖いです。やっぱり会社員は守ってもらえますからね。これからは全て1人で、営業も事務作業もこなしていかねばなりません。電話秘書サービスにも加入しましたが、土日対応も入れると月4万円近くするのにはびっくりしました。しかも電話はまだ1本しかかかってきていません。本当にやっていけるのか不安になるばかりです」 せっかく28年間勤め上げた会社で部長まで上り詰めたのに、もったいないという意見も多いだろう。会社でも引き留める人が多かったというが、西脇さんは「まあ、いいんです」と言う。「元妻が出ていって以来、現世での幸せは諦めて生きています。よく考えたら53で定年も近いし、一人暮らしで失うものもない。だったら後で後悔するより、最後は自分らしく信じる道を進む方がいいかなって」 西脇さんが目指す自分は、弁護士として活動しながら、伝えたいと思った事象にぶつかった時には弁護士経験を活かしながらとことん取材するジャーナリスト。「フリーにならないとそんなことはできませんしね。ただ、離婚や名誉毀損の相談がきたら、熱くなってしまいそうです…」 真っ直ぐ過ぎるのか、不器用なのか――。53歳にして新たな挑戦を始めた西脇さんの今後に注目したい。デイリー新潮編集部
「一昨日、越してきたばかりでして…。慌ただしくてすみません」
4カ月ぶりに会った西脇さんが出迎えてくれたのは、千代田区・内幸町の会議室だった。11月20日にテレビ朝日を退社したばかりの西脇さんはこのフロアに弁護士事務所「西脇亨輔法律事務所」を開業した。裁判所までは徒歩約5分。新人弁護士も多く利用するレンタルオフィスの一角である。退職の意思を固めたのは2週間前で、それからここを探し当てたという。
「あっという間に色々なことがありすぎて、まだ自分でも混乱しています」
確かに急すぎる話だった。記者がその前に西脇さんに会ったのは”告白本”を出版した直後の7月上旬で、法務部長に昇進したばかりのタイミングだった。その時は「仕事に大きな影響は出なくて良かった」と“騒ぎ”を振り返っていたのである。あれから4カ月でいったい何があったのか。
話の核心に入る前に西脇さんの経歴を振り返っておく。筑波大学附属高等学校を経て、1989年に東京大学法学部に入学。在学中に司法試験合格を果たした秀才だった。東大の同じクラスには木原誠二前官房副長官、丸川珠代参院議員。
だが司法修習中に初めて経験したひとり暮らしで「テレビを生まれて初めてじっくり視て、興奮した」とテレビ業界へと志望を変更。95年にテレビ朝日に、弁護士資格を持つ異色のアナウンサーとして入局した。
「その後12年間、『やじうまワイド』『ニュースステーション』『スーパーモーニング』などの情報・報道番組を担当。『天然キャラ』としてお茶の間で人気を博しましたが、07年に法務部に異動した。アナウンサー職を離れたのは、6期下の後輩アナ・村上祐子氏と結婚し、夫婦で同じ職場は良くないという話になったからです」(テレビ朝日関係者)
それから社員弁護士として会社を裏方として支えることになった西脇さんだが15年頃から、順風万帆だったサラリーマン人生が暗転していく。始まりは村上氏との別居だった。泥沼の離婚訴訟に発展する最中の19年9月、西脇さんはさらにもう一つの民事訴訟を起こす。それが三浦瑠麗氏を訴えた名誉毀損訴訟だった。
「きっかけとなったのは19年4月の週刊ポスト報道だった。ポストは、西脇氏と別居中だった村上氏とテレビ局記者との“お泊まり愛”をスクープしたのですが、村上氏と親しかった三浦氏はその直後、あからさまに村上氏を擁護して夫婦関係について暴露するツイートをした」(同前)
西脇氏はそのツイートに対してブチぎれ、名誉毀損やプライバシー侵害にあたると三浦氏を訴えたのである。
所詮はツイートだから無視すればいい、という考え方もあったはずだ。ましてや相手はテレ朝の看板番組である「朝まで生テレビ」のレギュラーコメンテーターだ。そもそもトラブルの元となっている元妻も同僚である。通常の会社員であれば、関係者を引っ掻き回す裁判沙汰は避けようと考えたかもしれない。
だが、西脇氏は「ここで泣き寝入りしたら、自分が壊れてしまうと感じた」と、周囲の反対を押し切り、自ら法廷に立って戦った。そして最高裁まで争い、今年3月に勝訴をもぎ取った。3年8カ月もの月日をかけて得たものは30万円の賠償命令。まさに男の意地を貫き通したのだった。
それだけにとどまらず今年6月、この法廷闘争を『孤闘 三浦瑠麗裁判1345日』(幻冬舎)という本にまとめて緊急出版した。これもまた業界をどよめかせた。
当然、本を出せば再び関係者を刺激することになる。立派に戦い抜いて勝ったのだから黙っているのが花と考えるべきところだ。だが、ここでも西脇氏は「自分の経験を歴史に残しておきたい」と我を押し通した。
ここまでの話で疑問に思うのは、このような西脇氏の「個人活動」に対してテレビ朝日がどう対処してきたかであろう。記者もこれまでその疑問を西脇さんに幾度となくぶつけてきた。上司や同僚からの嫌みを言われたり、嫌がらせ、圧力、妨害などはないのか。ぶっちゃけ、会社で浮いた存在になっているのではないか――。
だが、西脇氏は「上司には『ご迷惑をおかけします』と報告しながらやってきた。業務に迷惑をかけないようやっているので筋を通してはいます」といつも答えていた。前出のテレ朝関係者も「会社としても本音では眉を顰めているかもしれませんが、個人が裁判を起こす権利まで制限することはできなかったのが実情」と話す。実際、出版直後に西脇氏はヒラ社員から法務部長に出世していたし、裁判や出版が原因で会社を追われたわけではなさそうだ。
では前置きが長くなったが、なぜ急転直下、退職することになったのかご本人から事情を伺っていこう。
「三浦さんとの裁判は個人的な活動だったとはいえ、会社に迷惑をかけたことは事実でした。わがままを貫き通した私を部長に昇進してくれた会社に感謝し、7月の時点ではこれまで通り法務部で頑張っていくつもりだったんです。ただ、本を出版したことで私の中で大きな変化が起きた。入社の動機だった報道取材への思いが、再び燃えてきた」(以下、西脇さんの話)
西脇さんは幻冬舎の編集者から「三浦氏との裁判の経験を本にしてみませんか」と声をかけられた3月末から、自宅ワンルームマンションに約1カ月間籠って、これまで自分が闘ってきた裁判の膨大な資料と格闘する日々を送った。
「私の裁判は、三浦瑠麗さんという有名人の名前を抜いてしまえば、日々、全国の裁判所で繰り広げられているような小さな事件でした。ただ、ニュースで取り上げられないような小さな事件であっても、そこにはいつも、傷ついて理不尽な思いをしている被害者の闘いが存在しています。自分の経験を通してそのことを多くの人に伝えたかった」
西脇氏にとって本の執筆は、“自分”という取材対象者に向き合いながら、世間に埋もれている“声なき声”を届ける作業だったという。
「そんな体験をした後、知人から『木原誠二官房副長官の妻の元夫が変死した件を取材してみないか』と声をかけられたんです。木原氏とは東大で同級生だった縁もあった。そこでまずは調べてみようと、遺族や捜査を担当した元刑事などに話を聞いていきました」
すると、どう考えてもこの件はおかしいという結論に至ったというのだ。
「他殺の可能性を否定できないのに捜査を打ち切った理由が不明で、もし圧力や忖度があったのなら著しく正義に反している。このことをもっと世に問うべきだと思った」
そして、西脇氏は10月27日発売の「週刊現代」に〈木原誠二君、遺族の慟哭を聞きなさい〉というタイトルの記事を寄稿、独自取材で掴んだ数々の疑問を発表したのである。だが、会社に許可を取らないままの“暴走”だった。テレ朝としては前回のように「個人活動」として看過できなくなった。
「テレ朝も報道機関として木原事件を取材しています。それを飛び越して、法務部長の肩書きを持つ私が勝手に取材し、個人の見解であろうとも世に発表するのは会社人として『ルール違反』でした」
ただ西脇氏はそれを理解しながらも、自制できなかった。
「この問題は週刊文春が繰り返し報道してきましたが、他媒体ではほとんど扱われていません。遺族の悲しみに直接触れた身として黙っていられなかったのです。もちろん、自分1人の力で全てをひっくり返せるほどの新事実を突き止めたわけではありません。でも少しでも多くの人にこの件を知ってもらうためなら、職を失っても惜しくないと思った。最後は自分から辞める覚悟を決めて、講談社の編集者と記事を作って勝手に出してしまいました」
そして、結局、辞めざるを得なくなってしまったというのだ。再び信念を貫き通した西脇さんだったが、いざ独り立ちした心境はどうなのか。
「勢いで辞めてしまったので、正直、怖いです。やっぱり会社員は守ってもらえますからね。これからは全て1人で、営業も事務作業もこなしていかねばなりません。電話秘書サービスにも加入しましたが、土日対応も入れると月4万円近くするのにはびっくりしました。しかも電話はまだ1本しかかかってきていません。本当にやっていけるのか不安になるばかりです」
せっかく28年間勤め上げた会社で部長まで上り詰めたのに、もったいないという意見も多いだろう。会社でも引き留める人が多かったというが、西脇さんは「まあ、いいんです」と言う。
「元妻が出ていって以来、現世での幸せは諦めて生きています。よく考えたら53で定年も近いし、一人暮らしで失うものもない。だったら後で後悔するより、最後は自分らしく信じる道を進む方がいいかなって」
西脇さんが目指す自分は、弁護士として活動しながら、伝えたいと思った事象にぶつかった時には弁護士経験を活かしながらとことん取材するジャーナリスト。
「フリーにならないとそんなことはできませんしね。ただ、離婚や名誉毀損の相談がきたら、熱くなってしまいそうです…」
真っ直ぐ過ぎるのか、不器用なのか――。53歳にして新たな挑戦を始めた西脇さんの今後に注目したい。
デイリー新潮編集部