高いレベルの英語力を身につけている、埼玉県さいたま市の子どもたち。全国平均の49.2%よりもはるかに高い、86.6%もの中学3年生が「英検3級」相当の英語力を持つというから驚きだ。この背景には、一体何があるのだろうか? 著書『翔んだ! さいたま市の大逆転』を上梓した、経営コンサルタントの竹内謙礼氏が秘密に迫る。
「86.6%」
さいたま市の英検3級相当の英語力を持つ中学3年生の割合である。全国平均の49.2%を約40ポイントも上回り、東京都の59.5%よりもはるかに高いスコアを叩き出している。
さいたま市が飛び抜けた英語力を身に付けられたのは、いち早く英語教育に取り組んだことが要因として大きい。
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文部科学省が学習指導要領を見直し、小学3年生から英語教育を取り入れることにしたのは2020年のこと。しかし、さいたま市はそれよりも早い2016年から英語教育に力を入れ始め、小学1年生からの9年間、一貫して英語を学ぶ「グローバル・スタディ」を導入し、英語力の底上げを図った。
その力の入れようは、さいたま市の決算書からも窺える。2016年度の一般会計の歳出で、教育費が398億円だったのに対し、2017年度には908億円と一気に予算を2.2倍に増やしている。
政令指定都市が教員人件費を県から委譲され、負担することになったことが要因ではあるが、教育予算の充実は教員の「数」への投資につながることから、このタイミングでさいたま市が英語教育に対して、多くの“人”と“時間”を投資したことが分かる。
“人”の投資に関して、さいたま市は多くの授業において、複数の教員による指導を実施、1年生から4年生はクラス担任に加えて、外国語を母国語とする外国語指導助手(ALT・Assistant Language Teacherの略)が付き、5年生から6年生にかけては、ALTと共にグローバル・スタディ科専科教員(または非常勤講師)がついて授業を行っている。
一方、“時間”の投資に関しては、英語の授業時間を増やすことに注力した。小学校の標準的な英語の授業時間が210時間に対して、さいたま市は419時間と約2倍の授業時間を設けている。
また、中学校も標準的な英語の授業が420時間に対し、さいたま市では471時間と、およそ50時間も多い授業時間とした。
このように教員の充実と圧倒的な授業時間の多さによって、さいたま市の英語力は全国でも群を抜いたレベルへと成長した。先述した中学3年生の英語力の実施調査では、2018年に全国1位を獲得して以降、調査未実施の2020年を除き、4回連続でトップの座を維持している。
さいたま市の英語教育の取り組みを初めて耳にした時、「子どもたちは好んで英語を勉強しているのか?」という疑問がよぎった。
無理やり学校側が英語教育を押し付け、泣く泣く英語の勉強を“やらされている”という情景が目に浮かび、さいたま市の子どもたちに気の毒な思いを抱いてしまった。
私自身、中学生の頃に嫌々英語の勉強をやらされた一人である。その後、英語は大の苦手科目となり、高校や大学の受験でも足を引っ張り続けた。
お恥ずかしい話として、大学生の頃にアメリカ大陸を東海岸から西海岸までオートバイで横断した時、思うように英語が話せず、無口を貫き通した結果、ニューヨークに着いた時には英語どころか日本語も少し忘れかけていたという笑えないエピソードもある。
そのような苦い経験から、英語教育に対してどうしてもポジティブな印象を持つことができなかった。
2021年5月にニフティが行った「好きな教科、苦手な教科」の調査によると、中学生の「苦手な科目」の1位が算数・数学(35%)、2位が社会(18%)、3位が英語・外国語(16%)と、英語は嫌いな科目のひとつとしてランクインされている。
「好きな科目」のトップ3の中には英語は入っておらず、これらのデータからも、「英語が嫌い」という子どもが今もなお多いことが窺える。私のように英語に対して強いコンプレックスを抱く人が、今も昔も数多くいることは、間違いないといえそうである。
そのような中で、「子どもたちが率先して英語の授業を勉強している」というさいたま市の取り組みは、にわかに信じられない話でもあった。
さいたま市の英語の授業を見学させてもらったのは見沼区にある片柳小学校だった。各学年2クラス、全校児童約400人の、ごくごく普通の小学校である。
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教室で待機しているとチャイムが鳴り、5年生の授業が始まった。子どもたちが席に着く。さいたま市の小学校では教科担任制を敷いているため、担任は別のクラスの授業に向かう。
改めて教室に入ってきたのは、グローバル・スタディ科の専科教員と母国語が英語のALTの2人の女性の教員だった。
始まって最初に驚かされたのは、“オール英語”で授業が進められることだった。たまに日本語も織り交ぜられるが、ほぼ教員は英語しか話さない。さすがに聴き取れない子が出てくると思い、教室を見回したが、子どもたちは教員の話を頷きながら真剣に聴いている。
そんな時、授業を進める専科教員が、英語でジョークを言った。正確には“ジョークを言ったらしい”としか判断できなかったが、教室で子どもたちが笑いだしたことで、ようやくその話が“ジョーク”であることに気が付いた。
つまり、この教室で英語が聴き取れないのは私だけであり、子どもたちは全員、英語が聴き取れていたのである。
授業は基本的にグローバル・スタディの専科教員が進め、教室の中をALTが巡回しながら、子どもたちをフォローして進められていく。教員二人で声を掛け合い、対話形式の英会話を見せることで、子どもたちはリアルな英語のコミュニケーションを目の当たりにすることができる。
自分たちが中学生の頃は、英語教員が教科書の構文を読み、それを繰り返し声に出して読むだけの授業だったと記憶している。これが何の学びになり、この勉強が社会に出て何の役に立つのかも分からず、ただひたすらオウム返しのように、英語を繰り返し読み続ける授業は苦痛でしかなかった。
しかし、目の前で行われている英語の授業では、英語を実際に使い、人と話すところをナマで見聞きすることができる。
授業を教員が一人だけで展開するよりも、二人でこなすほうが圧倒的に語学を使う臨場感があり、英語を話すことによって会話が成立することをリアルに体感することができる。自分が子どもの頃に体感した英語教育とは、まったくの別物と言っていい。
専科教員がタッチ操作に対応するプロジェクターを使い、課題を出した。子どもたちは器用にパソコンのキーを叩き、課題が終わると、その解答が次々に黒板のプロジェクターに映し出されていく。どうやらデータが専科教員のパソコンと共有できる仕組みになっているようである。
専科教員は子どもたち全員が課題を提出したことを確認すると、隣の席の人と課題を添削し合うよう指示を出した。すると、子どもたちはパソコン上でデータを交換し合い、お互いの課題を見ながら、英語で自分たちの考えを伝えて、添削を始めた。
教育現場のデジタル化が進んでいることは聞いていたが、まさかここまで進化しているとは思いもしなかった。まして英語で授業が進められて、パソコンを使って課題を行う光景は、50歳を過ぎた私から見れば、近未来の映画を観ているような感覚だった。
最後に、授業の感想を子どもたちが述べ合う時間が設けられていた。「終わりの10分間はコミュニケーションの時間に当てています。お互いの意見や考えについて英語でインタビューし合うこともあります。この時間が英語をアウトプットする貴重な時間になるんです」
取材に同行してくれた教育委員会の指導主事の女性が言った。
「私が中学生の頃の英語の授業とはまったく違いますね」
指導主事に率直な感想を言ったところ、柔らかい表情でクスリと笑った。
「その中学生の頃に学んでいた英語を、今、小学5年生が学んでいるんですよ」
あまりにも子どもたちが流暢な英語を話すので忘れていたが、目の前で授業を受けているのは紛れもない小学生である。自分たちが中学生の頃に学んでいた授業を、すでに小学生で勉強しているとなれば、彼らが大人になった時には、どれほどの英語力がついているのか。
自分が40年前に学んだ英語とは、質も量も違いすぎると思った。