〈【発達障害】「ミスが多く、人に言われないと行動できない」日本の超エリート「東大法学部卒」なのにクビと降格を経験した20代女性の特殊事情〉から続く
「今、お付き合いをしている女性はいますが、結婚したとしても僕の収入では専業主婦にしてあげられません。早稲田の政経卒でこれかと言われたら、ごめんなさいという感じです」
《写真ページへ移る》タモリ、堺雅人だけじゃない「意外な早稲田出身タレントたち」
高偏差値の早稲田大学の政治経済学部を卒業しながら、仕事はうまくいかず、ついには障害者手帳を取得した三崎達也さん(35歳・仮名)。今も学歴をできるだけ表に出さない生活を送るものの、それでも彼が「早稲田大学が大好きです」と語る理由とは? ライターの姫野桂の新刊『ルポ 高学歴発達障害』(筑摩書房)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)
年収300万・早稲田政経卒の男性が「学歴を隠して」生きる理由とは? getty
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「小さい頃から人付き合いが苦手でいじめの標的にされることが多かったので、自分には何かしらの障害か病気があるとは思っていました。中高生の頃、2回ほど母親に『自分には何か障害があるかもしれないから病院で調べてほしい』と頼みましたが、『お前には何もない』とはねのけられてしまいました」
新宿にある喫茶店で小さなテーブルを挟んで向かい合いながら、早稲田大学卒の三崎達也さんは幼い頃からの違和感を訥々と語ってくれた。
「また、父親が転勤の多い仕事をしていたので、小学校高学年から中学校にかけて3年間だけドイツに住んでいました。現地では日本人学校に通っていたのですが、日本人同士で集まる狭苦しいコミュニティで、結構ギスギスした雰囲気だったんです。どこの日本人学校もそうだとは限りませんが、僕が通っていたところはそうでした。その中でいじめの対象になったり、人間関係でつらい思いをしたりしました」
親の海外勤務が終了し、帰国して高校へと入学することとなる。進学と同時にまたも親が転勤となってしまったため、男子寮に入った。だが、帰国子女ということもあって悪目立ちし、先輩や同級生たちからいじめられたという。特にきつかったのは寮の担当の教員まで一緒になっていじめてきたことだった。
「運動部の生徒が多く、体育会系の先輩や同級生たちからいじめられていました。高校時代はつらかったですが、文芸同好会に加入して新聞の投書欄に投稿して図書カードをもらったり、作文コンクールで賞を取ったりしていました」
大学進学の時期になり、三崎さんは担任から早稲田大学政治経済学部の指定校推薦を勧められる。評定成績が早稲田の指定校の枠にギリギリ達していた。推薦で入れるとは思っていなかったため、まさに「棚からぼたもち」という感じだったという。
「普通に受験していたら玉砕していたと思います。でも、ダメだった場合は死のうかなとも思っていました。なんせ、高3のときのいじめがきつくて。勉強は努力をしていたつもりだったので、それで報われなかったらもうしょうがないなと。まあ、死ぬ度胸もなかったので、結局浪人はしていたかもしれません」
早稲田大学に入ることができた三崎さんは大学生活を楽しみ始める。バンカラとも言われる早稲田の自由な校風を堪能していた。地方から出てきた分、他人の生き方を否定しない都会の空気もひときわ特別に感じられた。サークルには一応入ったが、仲の良かった友人が辞めてしまったり、あたりの強い先輩がいたりで続かなかった。
「それで、結局サークルは辞めてアルバイトに打ち込むことにしました。西武ドームのサービススタッフで、チケットのもぎりをやったり、ファウルボールの笛を吹く係をしたりしていました。ヘマをやって怒られたこともありましたが、自分には合っていたバイトで長く続きました。なので、大学時代に頑張っていたことはこのバイトになります。そのときのバイト仲間にはまだ交流が続いている人もいますし、良い経験になりました」
三崎さんがつまずいたのは就職してからだった。新卒で入った会社で配属されたのは営業職だったが、たくさんある商品の内容から価格、管理の仕方など、覚えなければならないことがあまりに多かった。数字が苦手なため、商品の価格の計算が全くできなかった。マルチタスクが求められる職場でもあり、電話をしながら価格を折衝し、その内容をパソコンに打ち込むことは実に困難だった。やがて、自分は周りの足を引っ張っているのではないかと感じ始めた。
「エクセルが苦手で、学生時代もエクセルやワードの講義は避けていたくらいなのでパソコンが全然使えなかったんです。『自分で勉強しなよ』と言われたこともあったのですが、当時住んでいたのが社員寮だったので、同期たちの目が気になってパソコンスクールに通うのも情けなく感じてしまって……」
同期と比較しても学歴ではむしろ優秀であったにもかかわらず、仕事の覚えが悪く、思い悩むこともあった。そんな折に、ネットニュースで「発達障害」の存在を知ることとなる。ADHDの診断が下り、会社は休職することとなった。
「今は障害者手帳を取得して障害者雇用で働いているのですが、当時、障害者手帳を取ろうとしたら、医師の診断書の書き方があまり良くなくて取れなかったんです。発達障害支援センターにも行って『なんとか手帳を取れる方法はありませんか?』と相談したところ、保健所や保健センターの管轄を変えれば取れるかもしれないとのことで、休職していた会社は辞めることにして別の地域に引っ越しました」
発達障害や精神疾患で精神障害者保健福祉手帳を取得する場合、医師の診断書が必要になる。そこには例えば「通院はできるか」「自分で適切な食事ができるか」「金銭管理はできるか」などの項目に対して「できる」「援助があればできる」「できない」といった欄があり、それに対して医師が返答を記入する。
ネットスラングで「精神科ガチャ」というものがある。診てくれる精神科医のアタリとハズレがあり、それによって診断書の書き方も変わってくるということだ。三崎さんの場合、診断書の項目のほとんどに「できる」と記されてしまっていたため手帳が取れなかった可能性があるとのことだった。また、診断書の結果から手帳を交付するか否かは行政の判断によって左右される。
三崎さんは引っ越したのち、派遣のアルバイトをしながら10カ月ほどフリーター生活を送った。そしてその地で無事、精神障害者保健福祉手帳を取得できた。25歳のことだった。
10代の頃から親は三崎さんには「何の障害もない」と決めつけていたが、発達障害と診断が降りたことにより、地元からはるばる母親がやって来て医師の話を聞いてくれたり、ハローワークの専門支援の職員と電話で話してくれた。それでも結局、親から発達障害の理解をしてもらえたのかどうかは微妙なところだという。
手帳を取得してから三崎さんは障害者雇用枠でネットワークの保守管理を行なう会社に入社する。そこでも上司の当たりがきつく、毎日怒鳴られていた。
「結果的にその会社は辞めたのですが、そのとき僕を怒鳴っていた上司は学歴コンプレックスがあったんです。『お前は俺が行きたかった大学を卒業しているのになんでそこまで仕事ができないんだ』と言われたことがあって。その上司がどこの大学卒だったのかはわかりませんが、こっちからしてみれば俺はあんたが行きたかった大学に行ったけどそんなこと知ったこっちゃないし、別に好きでこの会社で働いているんじゃないと思いながら仕事をしていましたね。 学生時代は『早稲田』というブランド名の影響力がどれくらいあるか全然わからなかったのですが、社会に出てからは相手に与えるインパクトがそれなりにあると知り、必要のない限りは大学名を口にしなくなりました。たまに『大学どこ?』と聞かれた際は『馬鹿すぎて忘れちゃいました』とごまかすようにもなりました」 現在、三崎さんはさらに別の会社の障害者雇用枠で働いている。年収は300万円弱だ。大学の同級生たちに目をやると、大手企業に勤めている人が多い。「同級生、先輩、後輩はみんなすごいところに勤めていて、結婚していたり子どもがいたりする人もいます。そういう人たちと巡り会えたことは私の財産ではあるのですが、それに比べて俺はこうか……と思ってしまいます。SNSを見る限り、みんなキラキラ生活ですよ。だから、SNSを開くのは週に1回あるかないかぐらいです。 もちろん、どの人の人生もすべてがキラキラした面だけではないと思うのですが、自分と比べてしまうんです。今、お付き合いをしている女性はいますが、結婚したとしても僕の収入では専業主婦にしてあげられません。早稲田の政経卒でこれかと言われたら、ごめんなさいという感じです」それでも早稲田は自分のポジティブな部分を作ってくれた だが、同じ大学卒の人たちを羨む一方で、それが何なのかという気持ちもある。自分以外にも高学歴でも障害者雇用で働いている人はいるし、その中でやれることを頑張っていけばいいのではないか、とも感じている。「僕にとって早稲田卒は自分のアイデンティティの一部になっているんです。それを取り上げられたら僕はもう僕じゃなくなるんじゃないかくらいのテンションなんです。社会人になってからは自分が早稲田卒だとわざわざ言うことはないのですが、自分のポジティブな部分を作ってくれたのは早稲田のおかげなんです。 優秀な大学だと褒めてもらえる、認めてもらえることがあるから、自分を肯定できるようになったのだと思います。それに、そこで出会った恩師や良い友人に巡り会えたことが嬉しいんです。だからこそ自分も頑張らないといけないと思っています。学力のステータスがどうこうではなく、私は早稲田大学が大好きです」 早稲田卒であることがアイデンティティとなり、そのことが前向きな自分にがっている。ときには人を羨むこともあったとしても、自分なりの道を歩んでいけることを切に願っている。※当事者への取材原稿についてはプライバシー保護のため氏名や年齢、事実関係を一部変更している箇所があります。(姫野 桂/Webオリジナル(外部転載))
「結果的にその会社は辞めたのですが、そのとき僕を怒鳴っていた上司は学歴コンプレックスがあったんです。『お前は俺が行きたかった大学を卒業しているのになんでそこまで仕事ができないんだ』と言われたことがあって。その上司がどこの大学卒だったのかはわかりませんが、こっちからしてみれば俺はあんたが行きたかった大学に行ったけどそんなこと知ったこっちゃないし、別に好きでこの会社で働いているんじゃないと思いながら仕事をしていましたね。
学生時代は『早稲田』というブランド名の影響力がどれくらいあるか全然わからなかったのですが、社会に出てからは相手に与えるインパクトがそれなりにあると知り、必要のない限りは大学名を口にしなくなりました。たまに『大学どこ?』と聞かれた際は『馬鹿すぎて忘れちゃいました』とごまかすようにもなりました」
現在、三崎さんはさらに別の会社の障害者雇用枠で働いている。年収は300万円弱だ。大学の同級生たちに目をやると、大手企業に勤めている人が多い。
「同級生、先輩、後輩はみんなすごいところに勤めていて、結婚していたり子どもがいたりする人もいます。そういう人たちと巡り会えたことは私の財産ではあるのですが、それに比べて俺はこうか……と思ってしまいます。SNSを見る限り、みんなキラキラ生活ですよ。だから、SNSを開くのは週に1回あるかないかぐらいです。
もちろん、どの人の人生もすべてがキラキラした面だけではないと思うのですが、自分と比べてしまうんです。今、お付き合いをしている女性はいますが、結婚したとしても僕の収入では専業主婦にしてあげられません。早稲田の政経卒でこれかと言われたら、ごめんなさいという感じです」
だが、同じ大学卒の人たちを羨む一方で、それが何なのかという気持ちもある。自分以外にも高学歴でも障害者雇用で働いている人はいるし、その中でやれることを頑張っていけばいいのではないか、とも感じている。
「僕にとって早稲田卒は自分のアイデンティティの一部になっているんです。それを取り上げられたら僕はもう僕じゃなくなるんじゃないかくらいのテンションなんです。社会人になってからは自分が早稲田卒だとわざわざ言うことはないのですが、自分のポジティブな部分を作ってくれたのは早稲田のおかげなんです。
優秀な大学だと褒めてもらえる、認めてもらえることがあるから、自分を肯定できるようになったのだと思います。それに、そこで出会った恩師や良い友人に巡り会えたことが嬉しいんです。だからこそ自分も頑張らないといけないと思っています。学力のステータスがどうこうではなく、私は早稲田大学が大好きです」
早稲田卒であることがアイデンティティとなり、そのことが前向きな自分にがっている。ときには人を羨むこともあったとしても、自分なりの道を歩んでいけることを切に願っている。
※当事者への取材原稿についてはプライバシー保護のため氏名や年齢、事実関係を一部変更している箇所があります。
(姫野 桂/Webオリジナル(外部転載))