飲食店はこれまで、バブルの崩壊やリーマンショック、新型コロナウイルス蔓延による営業自粛など、度々逆境にたたされてきました。そんな数ある逆境を乗り越えてきたのは、銀座のクラブのオーナーママとして40年間生きてきた伊藤由美さん。接客の最前線に立ちながら、店の経営にも全面的な責任を持つオーナーママの経営者としての「ビジネス哲学」とは。その伊藤さん「折れない心、あきらめない気持ちは、きっと報われるのだ」と言いますが――。
休日の由美ママ。柳川市の北原白秋記念館にて* * * * * * *わずか13坪足らずの小さなお店1983年、23歳だった私が大決心をして銀座の片隅に『クラブ由美』を開業したとき、私にはほとんど何もありませんでした。直前まで雇われママとして勤めていたお店の閉店で背負わされた1500万円の売掛金を何とか返済し、手元に残ったなけなしの貯金をはたいて開業した“初代”の『クラブ由美』は、銀座六丁目の以前、存在した洋菓子店アマンドの地下、わずか13坪足らずの、本当に小さなお店だったのです。最初のうちはグラスの数も足りず、お酒のメーカーさんや酒屋さんにお願いして揃えてもらうほどの状態でのスタートでした。お客さまが初めていらっしゃる際には、「由美ママの店、どこ? 場所がわからないよ?」「本当に銀座にあるの?」「ここは銀座の僻地(へきち)だね」などと、よく言われたものです。そうしたお電話をいただくと、そのたびに近くまでお迎えに出ていました。それでも「自分らしく生きよう、自分の理想の生き方を貫こう」という思いの結晶である自分の城を持てたことは、何にも勝る喜びでした。とはいえ、もちろん、順風満帆などという言葉がすぐにあてはまるほど甘いものではありません。夜の商売の裏側の“闇”を見せつけられた当時の夜の銀座といえば、そのメインストリートは“花の八丁目、並木通り”です。銀座六丁目のアマンドの地下という立地は、同じ銀座でも“街外れ”もいいところ。お店のスタッフを面接したり、スカウトしたときも、「店が小さい」「場所が悪い」などと言われて断られたことが何度もあります。『銀座のママに「ビジネス哲学」を聞いてみたら – 40年間のクラブ経営を可能にした、なるほどマイルール48 – 』(著:伊藤由美/ワニブックス)何とか軌道に乗ってきて現在のビルに移転した後には、スタッフや女の子を他店に大量に引き抜かれて営業もままならなくなるほどの妨害もありました。知らぬ間に100人前もの高級寿司の出前を注文されたことも、勝手に注文された何十人前ものケータリングピザが突然届けられたこともあります。残念なことですが、夜の商売の裏側の“闇”を見せつけられることが何度となくありました。でも「絶対に店を守る」の一心で、逃げずにすべて正面突破してきました。あのときの私は「この店とともに力いっぱい走り続けて、そのまま倒れたって本望」というくらいの情熱と負けん気にあふれていたのです(今もほとんど変わっていませんが)。お客さまの存在があればこそ陰湿なやっかみなどに屈しない。叩かれたって簡単に折れやしない。小さな城を拠点に、その気概ひとつで戦い続けるうちに嫌がらせもなくなり、その後そうしたトラブルとはほとんど無縁になりました。知らぬ間に100人前もの高級寿司の出前を注文されたことも、勝手に注文された何十人前ものケータリングピザが突然届けられたこともあります(写真提供:Photo AC)こうして『クラブ由美』が順風満帆とは言えない航路を進み続けてこられたのは、何よりもお客さまの存在があればこそでした。何もない“ほぼゼロ”状態でオープンし、狭く小さく、場所も悪いという条件のなか、 ホステス時代や雇われママ時代に、私を贔屓(ひいき)にしてくださったお客さま方が、連日、入りきれないほど大勢いらしてくださり、お店の土台を支えてくださったのです。昨今のコロナ禍でも、緊急事態宣言で16~20時までと営業時間が制限されたときに、16時の開店を待って早々と来店してくださるお客さまや、早い時間から同伴してその後の閉店まで過ごしていただけるお客さま。お酒の提供停止時に「お酒はいらないから」とお茶を頼むという形で通ってくださるお客さま。そうした心遣いをいただいたからこそ、今も『クラブ由美』は銀座の街で生き続けていられるのです。「一生懸命」は、きっと報われる「由美ママ、いつも全力で一生懸命だから、何か応援したくなるんだよ」「頑張って続けてきた店、なくなったら困るからね」お客さまからそうした言葉をかけていただくとき、感謝の気持ちとともに「負けずに続けてきてよかった」という思いがあふれてきます。クラブのママ冥利に尽きるとは、まさにこのことなのですね。そして思うのです。自分の夢に真っ直ぐに向き合って、常に全力で、くじけずに前を向いて努力していれば、その姿勢を評価してくれる人が必ずいるのだと。折れない心、あきらめない気持ちは、きっと報われるのだと。大事なのは「誰かが見ていてくれるから」とか、「他人に認めてもらいたいから」とか、そういうことのために頑張るのではなく、「自分が自分自身のために頑張ること、自分自身のために努力する」ことです。自分で自分を応援したくなるくらい努力をする。その姿は自然と周囲にも伝わるはず。ですから誰かの評価は後からついてくるものなのです。※本稿は、『銀座のママに「ビジネス哲学」を聞いてみたら – 40年間のクラブ経営を可能にした、なるほどマイルール48 – 』(ワニブックス)の一部を再編集したものです。
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1983年、23歳だった私が大決心をして銀座の片隅に『クラブ由美』を開業したとき、私にはほとんど何もありませんでした。
直前まで雇われママとして勤めていたお店の閉店で背負わされた1500万円の売掛金を何とか返済し、手元に残ったなけなしの貯金をはたいて開業した“初代”の『クラブ由美』は、銀座六丁目の以前、存在した洋菓子店アマンドの地下、わずか13坪足らずの、本当に小さなお店だったのです。
最初のうちはグラスの数も足りず、お酒のメーカーさんや酒屋さんにお願いして揃えてもらうほどの状態でのスタートでした。
お客さまが初めていらっしゃる際には、「由美ママの店、どこ? 場所がわからないよ?」「本当に銀座にあるの?」「ここは銀座の僻地(へきち)だね」などと、よく言われたものです。
そうしたお電話をいただくと、そのたびに近くまでお迎えに出ていました。それでも「自分らしく生きよう、自分の理想の生き方を貫こう」という思いの結晶である自分の城を持てたことは、何にも勝る喜びでした。
とはいえ、もちろん、順風満帆などという言葉がすぐにあてはまるほど甘いものではありません。
当時の夜の銀座といえば、そのメインストリートは“花の八丁目、並木通り”です。銀座六丁目のアマンドの地下という立地は、同じ銀座でも“街外れ”もいいところ。
お店のスタッフを面接したり、スカウトしたときも、「店が小さい」「場所が悪い」などと言われて断られたことが何度もあります。
『銀座のママに「ビジネス哲学」を聞いてみたら – 40年間のクラブ経営を可能にした、なるほどマイルール48 – 』(著:伊藤由美/ワニブックス)
何とか軌道に乗ってきて現在のビルに移転した後には、スタッフや女の子を他店に大量に引き抜かれて営業もままならなくなるほどの妨害もありました。
知らぬ間に100人前もの高級寿司の出前を注文されたことも、勝手に注文された何十人前ものケータリングピザが突然届けられたこともあります。
残念なことですが、夜の商売の裏側の“闇”を見せつけられることが何度となくありました。
でも「絶対に店を守る」の一心で、逃げずにすべて正面突破してきました。あのときの私は「この店とともに力いっぱい走り続けて、そのまま倒れたって本望」というくらいの情熱と負けん気にあふれていたのです(今もほとんど変わっていませんが)。
陰湿なやっかみなどに屈しない。叩かれたって簡単に折れやしない。小さな城を拠点に、その気概ひとつで戦い続けるうちに嫌がらせもなくなり、その後そうしたトラブルとはほとんど無縁になりました。
知らぬ間に100人前もの高級寿司の出前を注文されたことも、勝手に注文された何十人前ものケータリングピザが突然届けられたこともあります(写真提供:Photo AC)
こうして『クラブ由美』が順風満帆とは言えない航路を進み続けてこられたのは、何よりもお客さまの存在があればこそでした。
何もない“ほぼゼロ”状態でオープンし、狭く小さく、場所も悪いという条件のなか、 ホステス時代や雇われママ時代に、私を贔屓(ひいき)にしてくださったお客さま方が、連日、入りきれないほど大勢いらしてくださり、お店の土台を支えてくださったのです。
昨今のコロナ禍でも、緊急事態宣言で16~20時までと営業時間が制限されたときに、16時の開店を待って早々と来店してくださるお客さまや、早い時間から同伴してその後の閉店まで過ごしていただけるお客さま。お酒の提供停止時に「お酒はいらないから」とお茶を頼むという形で通ってくださるお客さま。
そうした心遣いをいただいたからこそ、今も『クラブ由美』は銀座の街で生き続けていられるのです。
「由美ママ、いつも全力で一生懸命だから、何か応援したくなるんだよ」
「頑張って続けてきた店、なくなったら困るからね」
お客さまからそうした言葉をかけていただくとき、感謝の気持ちとともに「負けずに続けてきてよかった」という思いがあふれてきます。
クラブのママ冥利に尽きるとは、まさにこのことなのですね。
そして思うのです。自分の夢に真っ直ぐに向き合って、常に全力で、くじけずに前を向いて努力していれば、その姿勢を評価してくれる人が必ずいるのだと。
折れない心、あきらめない気持ちは、きっと報われるのだと。
大事なのは「誰かが見ていてくれるから」とか、「他人に認めてもらいたいから」とか、そういうことのために頑張るのではなく、「自分が自分自身のために頑張ること、自分自身のために努力する」ことです。
自分で自分を応援したくなるくらい努力をする。その姿は自然と周囲にも伝わるはず。ですから誰かの評価は後からついてくるものなのです。
※本稿は、『銀座のママに「ビジネス哲学」を聞いてみたら – 40年間のクラブ経営を可能にした、なるほどマイルール48 – 』(ワニブックス)の一部を再編集したものです。