青森県五所川原市にある太宰治記念館「斜陽館」(写真:KAZE/PIXTA)
学校の授業では教えてもらえない名著の面白さに迫る連載『明日の仕事に役立つ 教養としての「名著」』(毎週木曜日配信)の第25回は、文豪・太宰治の盗作疑惑に迫ります。
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太宰治の名作小説を読んでいると、想像以上に「盗作疑惑」の多いことに驚く。
例えば、有名なフレーズ「生れて、すみません」。太宰の『二十世紀旗手』の副題として掲載されたこの文章は、小説を読んだことがない人ですら、なんとなく知っている方も多いのではないか。
『二十世紀旗手』そのものはかなり難解で支離滅裂な文章も多い小説なので、たくさんの人に読まれる作品ではないかもしれないが、このあまりにもインパクトの大きい副題――「生れて、すみません」によってその寿命を延ばしたともいえる。
だがこのフレーズ。実は盗作疑惑が存在するのである。前回紹介した、太宰の親友・山岸外史は、太宰が亡くなってから彼のことを書いた評伝『人間太宰治』(筑摩書房)にこのときの騒動について詳しく描かれている。
山岸の従兄弟の寺内寿太郎は、詩人を目指していた。岩手に住んでいた彼は、「遺書」というタイトルで、この「生れて、すみません」という詩を作っていた。だが、その詩が世に出る前に、山岸を介して、太宰の目にとまった。山岸がこの詩について話していたとき、太宰は「なかなかいい句だね」とぽつりとつぶやいたという。そしていつのまにか太宰の新作『二十世紀旗手』の副題に使われていたのだ。
寺内は青い顔をして山岸のところへやってきた。「自分の句が太宰の新作の副題として、今月の『改造』に載っているのだ」と。山岸は苦笑しながら「君も、遺書までとられたのでは、もう自殺もできないだろう」「太宰が、遺書までとって人助けしたという解釈はできんカネ」と太宰をかばおうとする。
……甘い。甘すぎる。太宰に対してあまりにも甘いこの親友の存在が、おそらく太宰治という作家の寿命を延ばしていたことは確かなのだろうな、と私は評伝を読むたび思う。それがいいことなのか悪いことなのか、もはやわからないけれど。
山岸はこのことを太宰に問い詰めたらしいが、「あの句は山岸君のかと錯覚するようになっていたのですよ」としれっと言うのであった。
山岸と太宰の仲だったら、会話に出た言葉はどちらが文学に使用してもいいルールになっていたらしい。いやいや、太宰、絶対に山岸の句じゃないってわかってただろう~!!と全力でツッコミを入れたいが、太宰の隠れ身の速さはすごかった。
結局、山岸は「太宰はこの日、一作だけではあったが、ある先輩作家の代作をやった話などをしたところをみると、このころの太宰には、すこしルーズなところもあったような気がするのである」とこのときの騒動を締めくくっている。少しどころかかなりルーズだろう。代作をやった相手って誰なんだ!と読者としてはツッコミが止まらないのだが……。
さて、ほかにも有名な作品で盗作疑惑があがっている小説がある。
太宰の代表作の1つである『斜陽』は太宰の愛人・太田静子の「斜陽日記」が元ネタであり、ファンに愛されることの多い短篇『トカトントン』も読者の手紙を下敷きにしている。『正義と微笑』は後に俳優となった堤康久の日記が元ネタである。
ちなみに『斜陽』の有名なフレーズ「人間は恋と革命のために生まれて来たのだ」は、太田静子の日記「革命と恋、この二つを、世間の大人たちは、愚かしく、いまわしいものとして、私達に教えたのだ。この二つのものこそ、最も悲しく、美しくおいしいものであるのに、人間は恋と革命のために生まれて来たのであるのに」という一文をもじったものである。
太田の日記は現在『斜陽日記』として朝日文庫で出版されているので、たくさんの人の目に触れる機会が多いのは幸いだ。
このように、太宰の盗作疑惑を見ていると、世の中の文学がいかに、薄い氷の上を歩くように、正義なんてない場所で生まれていたのか、愕然とする。とくに愛人の日記を文学に昇華していたなんて、今だったら考えられない。女性の尊厳を何だと思っているんだ、と私が友人だったらとっちめてしまう。だが心中を繰り返していた太宰の生涯を見ると、倫理なんて考える余地もなかったのだろうな……と思えてしまうのも本当である。
さてそんな太宰の、やっぱり盗作疑惑がある小説を、最後に紹介して終わろう。
あさ、眼をさますときの気持は、面白い。かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突然、でこちゃんに、がらっと襖をあけられ、日の光がどっと来て、でこちゃんに、「見つけた!」と大声で言われて、まぶしさ、それから、へんな間の悪さ、それから、胸がどきどきして、着物のまえを合せたりして、ちょっと、てれくさく、押入れから出て来て、急にむかむか腹立たしく、あの感じ、いや、ちがう、あの感じでもない、なんだか、もっとやりきれない。(太宰治『女生徒』角川文庫、KADOKAWA)
太宰治がつづった、1人の少女の物語である。なんて太宰は少女の些細な機微を描くのがうまいんだろう、と思いつつ読んだ読者も多いだろう。
しかし実際は、太宰が彼のファンの少女の日記を改編したものだったのだ。当時、太宰のファンであった有明淑という実在の「女生徒」は、自身の日記を太宰に送りつけていた。そう、太宰はその日記をもとに、『女生徒』を完成させたのである!
太宰は少女の気持ちがわかるわけでもなんでもなく、がっくりきてしまう話だが、意外とのこの元ネタとなる日記と『女生徒』を見比べると面白いことがわかってくる。
関根順子氏が『太宰治「女生徒」論 : 消された有明淑の語り』(「東洋大学大学院紀要」51巻2014年)に有明淑の日記と『女生徒』を比較した論文を寄稿しているのだが、その思想の差異を比較するとかなり面白い。
娘全体、希望が、思想が、すべて結婚にかけられてる/のだから。/今更ながら結婚なんてそんなに大きいものかしらと思う。(「日記」(六月二日))
子供、夫だけへの生活ではなく、自分の生活を持って生きて行くの/が、本当の女らしい女なのではないだろうか。(「日記」(七月三一日))
けれども、私がいま、このうちの誰かひとりに、にっこり笑って見せると、たったそれだけで私は、ずるずる引きずられて、その人と結婚しなければならぬ破目におちるかも知れないのだ。女は自分の運命を決するのに、微笑一つで沢山なのだ。(『女生徒』)
この可愛い風呂敷を、ただちょっと見つめてさえくださったら、私は、その人のところへお嫁に行くことに決めてもいい。(太宰治『女生徒』角川文庫、KADOKAWA)
主張としては同じなのだが、女性の人生における「結婚」が希望になりすぎている現状をシニカルに見つめる有明の日記。
それに対し、太宰の小説は、「結婚」に至る運命を皮肉っぽく語りながら、しかしどこかそんな少女をロマンティックに描いている。そう、実際の「女生徒」であった有明の語りよりも、「女生徒」にロマンを託した太宰の語りのほうが、よっぽど乙女らしい言葉づかいなのだ。
太宰は随所に、元ネタの日記よりも、少女らしい言葉づかいを付け加える。まるで過剰な少女らしさをそこに忍ばせる。それは世間を嫌っていて、潔癖で、生きづらくて、皮肉っぽくて、それでいて寂しがりやな少女の言葉たちだった。
そう、日記と小説の差異を読んでいるとこう思えてくるのだ。
「もしかして、太宰治は、自分の生きづらさをエンタメとして書くために、少女の言葉を使ったのだろうか?」と。
そんな仮説と共に太宰の小説『女生徒』を読むと、たしかに少女の身体に仮託された、太宰の息苦しさが見て取れる。
あんまり遠くの山を指さして、あそこまで行けば見はらしがいい、と、それは、きっとその通りで、みじんも嘘のないことは、わかっているのだけれど、現在こんな烈しい腹痛を起しているのに、その腹痛に対しては、見て見ぬふりをして、ただ、さあさあ、もう少しのがまんだ、あの山の山頂まで行けば、しめたものだ、とただ、そのことばかり教えている。きっと、誰かが間違っている。わるいのは、あなただ。(『女生徒』)
生きづらい、という言葉を、太宰は思春期の少女の言葉に託す。しかしこれは思春期の少女ではなく、まぎれもなく、太宰治というひとりの成人男性が語った言葉なのである。
今、苦しくてしょうがないのに、「山頂まで行けばいいんだから」「今はがまんしろ」と沢山の人に言われる、つらさ。「とにかく走れ」と言い続ける『走れメロス』の作家が書いたとは思えない文章である。
その言葉を太宰治はおそらく生身の自分として語ることはできず、結局、少女の言葉としてしか、世に出すことができない。「女々しい」とも思われそうな意見を、少女に託せば、発信することができる。『女生徒』は、そう解釈可能な小説なのだ。
世間の道徳に反することをやらかして、心中を何度も失敗していたプライベートの太宰治。その一方で、小説家としてはキャッチーな文章が上手で、文章の切れ味が鋭くて、いまだに青少年の心をつかみ続けている作家、太宰治。
プライベートの自分と小説家の自分の狭間で、彼は自分の身体に託すことのできない弱い本音を、少女や愛人や青少年の作った言葉に、ある意味、仮託していた。
彼の本当の言葉は、男性の身体で語ることができなかったのかもしれないと思うと、なんだか太宰治の精神構造が見えてくる気がするのだ。
(三宅 香帆 : 文筆家)