「せめて妻の命だけでも助かってくれ」45歳妻が妊娠7ヶ月で帝王切開…59歳の“高齢パパ”が語る、高齢出産までの壮絶な道のり から続く
56歳で初めての子供に恵まれ、出産と育児に奮闘した日々を綴った著書『56歳で初めて父に、45歳で初めて母になりました 生死をさまよった出産とシニア子育て奮闘記』(ワニ・プラス)を上梓した、夕刊フジ編集長・中本裕己氏(59)。
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そんな中本氏に、高齢出産ゆえにシミュレーションできなかった保険、今後の就労や健康にまつわる不安、56歳で父となったことで変化した価値観などについて、話を聞いた。(全2回の2回目/1回目から続く)
56歳で初めて父になった夕刊フジ編集長の中本裕己さん 原田達夫/文藝春秋
◆◆◆
――出生届は子供が生まれて14日以内に提出しないといけませんが、中本さんのパートナーは出産から16日間入院されていました。この間に、ひとりで出生届を準備したり、お子さんとパートナーのいる病院に行ったり、仕事もされたりと、なかなか大変だったのではないかと。
中本裕己さん(以下、中本) 20代、30代の頃は、事件を取材するとなると、1日でいろんなとこを回らなきゃいけなかったんですよ。そんな感じで、火事場の馬鹿力みたいなものが出ました。病院に行かなきゃいけないけど、出生届を筆頭に役所関係をやらないといけないし、制度でもらえるお金は申請して全部もらいたいし。そういうこと考えて集中的に当たっていくのは、まさに取材ですよね。
今日背負ってきたリュックって、僕が妻にクリスマス・プレゼントかなにかであげたものなんです。講師の仕事で、いろいろ資料を持ち運びするのに便利だろうって。
だけど、僕が病院、役所、家を行ったり来たりするなかで、このリュックを使ってみたらとても楽で。書類をパンパンになるぐらいに詰め込んで、役所は「あの書類がいる、この書類がいる」ってなるから、ファイリングをしてなにかあってもサッと出せるようにしていました。――それまでリュックを使うことは。中本 ブリーフケース派だったんですけど、リュックじゃないとどうしようもないなって。頑丈で、乱暴に扱ってもヘタりませんしね。遅かれ早かれ、リュック派に転じるだろうなとは思っていました。ブリーフケースじゃ両手が空かないし、哺乳瓶やオムツは入りませんからね。自分がオムツを換えたりする姿は全く想像できていなかった――お子さんは7月7日に誕生し、9月27日に退院されます。誕生時の体重が1203グラムだったそうですが、退院したときも体は小さかったですか?中本 めちゃくちゃ小さかったです。「まだこんな小さいのに家に帰されるのか」と思いましたから。――ベビー服のサイズで苦労したのではないかと。中本 妻が買っておいたベビー服はどれもブカブカでしたね。あとオムツのサイズがなかった。うちの子のサイズは4Sなんだけど、普通の店では売ってないから最初のうちは東大病院の売店で買ってました。だんだん体も大きくなって、普通のサイズを通販で買うようになりましたけど。――親になったからには、オムツを換えたり、沐浴させたり、背負ってあちこち移動したりしなければなりませんが、そうした自分の姿を想像できていましたか?中本 まったく想像はできていなかったですけど、「なんだか、やってみたらできたな」って感じで。ウンチの始末なんて、自分でもどこかでイヤだなとは考えていたと思うんですよ。でも、やってみたらぜんぜんで。そりゃあ臭いけど、そういうものだし、やるのは当たり前だし、自分の子供のものだったらなんとも思わないですし。 ウンチやオシッコだけじゃなく、戻しますからね。高熱を出したときに抱えていたら盛大に戻されて「ウゲッ」となったけど、すぐに「後で着替えて消毒すりゃいいや」ってなりましたし。そのあたりは、子供が親にしてくれたという感じですよね。細く長く生きるためにいろんな医療保険に加入――お子さんができる前は「ふたりで楽しく生きていければいいな」と、先のことは深く考えていなかったとおっしゃっていましたが、家族が増えるとそうも言ってられないですよね。経済的な面では、具体的にどのような対策を?中本 ふたりだった頃は、そんなに意識して貯金していませんでしたね。妊娠がわかる前に妻と話し合って、医療保険は厚くはしましたけど。細く長く、遊びながら生きていくなら、元気じゃないといけないからって妻に強く言われたので、いろんな医療保険に入ってたんですよ。 仕事柄、ファイナンシャルプランナーの方々に話を聞いていて、そのたびに「医療保険なんていらねぇんだよ。日本の医療制度は優れているから、入っても無駄」って言われていたんですよ。それもあったので医療保険を減らして、その分を息子の学資に回そうと考えて。 で、ファイナンシャルプランナーに聞いてたんですけど、56歳と45歳で子供をもうけた夫婦が大学卒業までの学資を貯めるシミュレーションが保険会社にはないんですよ(笑)。65歳以降の仕事のプランを働きながら考えなければいけない現実――どうされました?中本 そもそも年齢的に学資保険には入れないんです。この年齢で、向こう20年働くという人生の設計図がないってことなんですよね。 なので、ファイナンシャルプランナーには、学資保険に相当する分を積み立てられる外資型の投資のプランを出してもらいました。――そうした面からも、高齢出産夫婦の現実を突きつけられる。中本 それは、これからが本番ですよ。現況としては僕と妻の稼ぎで不安はないですけど、11月に60歳になるので定年なんです。いまの会社は雇用延長制度があるので、65歳までは働ける可能性があり、できればお世話になりたいと思っています。社会保険や福利厚生があるならば、なおさらですね。子育てにはベースが必要なので。――本の帯にも「息子が成人するとき、おとうさんは76歳!」とありますが、65歳以降も働かないとまずいわけですよね。中本 65歳から先は、さすがにどうなるかわからない。それを働きながら考えなきゃいけないんですよ。60代後半や70代の方でも、うちの社と契約して出入りしている編集者もいます。でも、そこに僕がいられるかわからないし、やっぱり60代後半から仕事ってなかなかないんで。とりあえず、いろんな方と仲良くなって、広く薄く稼がせてもらえたらなっていう。 最初のほうでも話しましたけど、僕が主夫として子育てを中心にしてやっていく考えもありますしね。あわよくばですけど、家でできる書き仕事をもらえれば、送り迎えも弁当を作るのも僕ひとりでやれますから。そんなうまいこといくかわからないですけどね。子供と追いかけっこをするとゼェゼェハァハァしちゃう――お子さんは2歳になりますが、育児をされていて体力的にキツいものがありますか? 健康面でも気をつけないといけない年代でもあると思いますが。中本 いろんな数値が悪いですけど、一番悪いのが尿酸値。要するに痛風ですね(笑)。一度痛くなって、いまは予防的な薬を飲んでいますけど、痛風って脳梗塞や心筋梗塞を引き起こす可能性が高いですから。 なので、酒の量や飲む機会を減らしました。ほぼ毎日、僕が息子を風呂に入れているんですけど、外で会合があって飲むことになっても、だいたい21時、遅くとも22時には帰るようにしています。それで解決するわけではないですけど、深酒をしなくなったのでいいのかなって。 体力的な面では、土日に公園で子供と追いかけっこをすると、もうゼェゼェハァハァしちゃいますね。でも、多少は運動になっているわけだからいいかなと。あと、子供を抱っこしたり、高い高いして持ち上げてると、肩がほぐれているような気がするんですよ。すべて都合のいいように解釈してるんだけど(笑)。足立区に引っ越したが、保育園にすんなりと入ることができず――長く住んでいた文京区から足立区へ移られたそうですが、子育てするうえでの環境を考えてのことですか?中本 文京区から出たのは、家が狭くて家賃も高かったからです。僕らが住んでいるのは足立区の綾瀬で、一昔前はガラが悪いみたいなイメージがありましたけど、いまはぜんぜん違うんですよ。家賃の相場も低いし、子供のいる家庭が多いから保育園も数がありますし、公園も多くて歩道も広いし、とにかく人が温かいんですよね。 越そうかどうか考えていたとき、何度か綾瀬の下見に行ったんですよ。コロナ禍だったのもあったけど、平日の夜に歩いても危険な雰囲気はまったくなくて。住んで1年以上経っていますが、快適ですね。――保育園には、すんなりと。中本 いや。妻が心筋炎と帝王切開で入院して、その後もリハビリがあったので働けない時期があったんです。で、僕だけ働いていたんですけど、基本的に共働きじゃないとはねられちゃう。でも預けないと働けない、という矛盾があるんですよ。なので、葛飾区に越境して認可外の保育施設で預かってもらって。 その間に妻が働いて共働きの実績ができたので、足立区の保育園に通えるようになりました。保育園のお迎えに行ってショックだった出来事――現在のスケジュールは、どういった感じでしょう。中本 妻は、朝から夕方までの講師の仕事が週に3、4回あって。 6時30分くらいに起きて、朝ご飯を食べて、僕が掃除とゴミ出しをして、息子を起こして、登園の準備をして。その間に妻は、息子に食事をさせて、仕事に出る準備をして、一方の僕はリモートで編集局長などと今日の紙面をどうするか打ち合わせしながら、子供の面倒も見ると。で、夫婦で登園させて、妻は仕事に、僕は家に戻って家事の残りをやって、リモートで仕事をします。 で、昼に時差出勤して、会社じゃないとできない仕事をして、残業して、軽く呑んで。その間に妻がお迎えして、ご飯を食べさせて、僕が帰ってきてお風呂に入れると。 夜は23時あたりで寝ますけど、子供が寝付けなかったり、僕が調べ物をするときは1時くらいに寝ます。――保育園で同年代のお父さんを見掛けたりは。中本 いやぁ、みんな若いですね。一度、お迎えに行ってショックだったことがあって。息子の帰りの準備をしていると年長の子が近づいていろいろ話しかけてくるんですけど、そこで「なんで、おじいちゃんが来てるの?」とか「なんで、髪の毛ないの?」とか聞かれて。また無邪気に聞いてくるもんだから、かえって傷ついちゃってね(笑)。父親にできなかった恩返しを子どもに――56歳で父になったからこその意識や視点の変容はありますか?中本 それは日々実感しますね。しゃがんで子供と同じ目線になってみたら「こんなに保育園の園庭って広いのか」「こんなに空が大きいのか」って、「見るものすべてが大きく見えるんだな」とハッとしたりね。 あと、息子が夕方に出てきた月に気づいて「あっ」って指差したのを妻が見て、涙が出そうになったらしいんですって。その純粋さが刺さったというか。で、僕もそれを聞かされて涙が出そうになって(笑)。 あらかわ遊園や花やしきに連れていくと、見るものすべてが新鮮らしくてキョロキョロして、喜び方もすごいんですよね。帰ってきてからも、「また行きたい」と何度も言う。そういう姿を見ると、なんだか自分まで子供に戻ったような感覚に陥りますね。まぁ、これはどの親も同じように感じているでしょうけどね。――「子供に戻った感覚」に加えて、「自分の親もこんな思いで子育てしていたのか」とも思いますよね。中本 自分の親に感謝する気持ちが、やっとこの歳になって生まれますね。僕の親父は、僕が19歳のときに52歳で亡くなったんですけど、頑固でカミナリ親父で怖いイメージしかなくて。 でも、僕が小さかった頃に親子で祭りに行って撮った写真なんかを見ると、怖かったはずの親父がニコニコしながら僕と一緒に写っているんですよ。親父は僕のことを大事にしてたんだろうなって。その恩を返しようにも早くに亡くなってしまったので、親父の代わりに子供に返すしかないなって考えています。どんなことがあっても、長い人生から見れば「たかが、これしきのことで」って感じ――お子さんとの年齢差が56歳って、やはり凄いことですよね。中本 そうですね。これだけ離れちゃってると、逆にギャップが興味になるというか。新鮮に感じすぎちゃって、一緒に子供番組を食い入るように見たりしますね。さっきも話しましたけど、自分も小さな子供になったような感じでいろいろと楽しめるんですよ。――そうしたお話を聞くと、56歳という余裕をもって子育てができていそうですね。中本 慌てない余裕というよりは、くよくよしない余裕はありますね。まだ子供は小さいので、癇癪を起こしたり、ダダをこねたりすることがあって、こっちもさすがに叱らざるをえない場面があるんです。そこではピリピリしますけど、しばらくしたら家族3人で笑い合っている、みたいな。どんなことがあっても、長い人生から見れば「たかが、これしきのことで」って感じですよね。 家で仕事しているときに子供に邪魔されると、やっぱりイライラはしますけど「子育てに比べたら、仕事なんて」となる。これが、もしも20代、30代だったら、そう思えたのかなって。子育ては今後を生きていくうえでの支え――19歳のときにお父様を失くしたけど、どうにかこうにか生きてこられたと本に書かれています。その経験が、今後も続く子育てを続けるうえでのバックボーンや原動力になっているのでは?中本 僕自身はそうだけど、それを息子に押しつけるわけにはいかないし、そんな苦労はさせたくないですね。僕のほうが先に死んでしまうわけなので、そのせいで息子に大変な思いをさせるとしても、ある程度までしっかり育てればがんばってくれるんじゃないか、という願望なんです。だから、息子の自我が目覚めるまではしっかりとサポートしてあげなきゃって。 とにかく、子供を育てるのが今後を生きていくうえでの支えになっていますね。撮影=原田達夫/文藝春秋(平田 裕介)
だけど、僕が病院、役所、家を行ったり来たりするなかで、このリュックを使ってみたらとても楽で。書類をパンパンになるぐらいに詰め込んで、役所は「あの書類がいる、この書類がいる」ってなるから、ファイリングをしてなにかあってもサッと出せるようにしていました。
――それまでリュックを使うことは。
中本 ブリーフケース派だったんですけど、リュックじゃないとどうしようもないなって。頑丈で、乱暴に扱ってもヘタりませんしね。遅かれ早かれ、リュック派に転じるだろうなとは思っていました。ブリーフケースじゃ両手が空かないし、哺乳瓶やオムツは入りませんからね。
――お子さんは7月7日に誕生し、9月27日に退院されます。誕生時の体重が1203グラムだったそうですが、退院したときも体は小さかったですか?
中本 めちゃくちゃ小さかったです。「まだこんな小さいのに家に帰されるのか」と思いましたから。
――ベビー服のサイズで苦労したのではないかと。中本 妻が買っておいたベビー服はどれもブカブカでしたね。あとオムツのサイズがなかった。うちの子のサイズは4Sなんだけど、普通の店では売ってないから最初のうちは東大病院の売店で買ってました。だんだん体も大きくなって、普通のサイズを通販で買うようになりましたけど。――親になったからには、オムツを換えたり、沐浴させたり、背負ってあちこち移動したりしなければなりませんが、そうした自分の姿を想像できていましたか?中本 まったく想像はできていなかったですけど、「なんだか、やってみたらできたな」って感じで。ウンチの始末なんて、自分でもどこかでイヤだなとは考えていたと思うんですよ。でも、やってみたらぜんぜんで。そりゃあ臭いけど、そういうものだし、やるのは当たり前だし、自分の子供のものだったらなんとも思わないですし。 ウンチやオシッコだけじゃなく、戻しますからね。高熱を出したときに抱えていたら盛大に戻されて「ウゲッ」となったけど、すぐに「後で着替えて消毒すりゃいいや」ってなりましたし。そのあたりは、子供が親にしてくれたという感じですよね。細く長く生きるためにいろんな医療保険に加入――お子さんができる前は「ふたりで楽しく生きていければいいな」と、先のことは深く考えていなかったとおっしゃっていましたが、家族が増えるとそうも言ってられないですよね。経済的な面では、具体的にどのような対策を?中本 ふたりだった頃は、そんなに意識して貯金していませんでしたね。妊娠がわかる前に妻と話し合って、医療保険は厚くはしましたけど。細く長く、遊びながら生きていくなら、元気じゃないといけないからって妻に強く言われたので、いろんな医療保険に入ってたんですよ。 仕事柄、ファイナンシャルプランナーの方々に話を聞いていて、そのたびに「医療保険なんていらねぇんだよ。日本の医療制度は優れているから、入っても無駄」って言われていたんですよ。それもあったので医療保険を減らして、その分を息子の学資に回そうと考えて。 で、ファイナンシャルプランナーに聞いてたんですけど、56歳と45歳で子供をもうけた夫婦が大学卒業までの学資を貯めるシミュレーションが保険会社にはないんですよ(笑)。65歳以降の仕事のプランを働きながら考えなければいけない現実――どうされました?中本 そもそも年齢的に学資保険には入れないんです。この年齢で、向こう20年働くという人生の設計図がないってことなんですよね。 なので、ファイナンシャルプランナーには、学資保険に相当する分を積み立てられる外資型の投資のプランを出してもらいました。――そうした面からも、高齢出産夫婦の現実を突きつけられる。中本 それは、これからが本番ですよ。現況としては僕と妻の稼ぎで不安はないですけど、11月に60歳になるので定年なんです。いまの会社は雇用延長制度があるので、65歳までは働ける可能性があり、できればお世話になりたいと思っています。社会保険や福利厚生があるならば、なおさらですね。子育てにはベースが必要なので。――本の帯にも「息子が成人するとき、おとうさんは76歳!」とありますが、65歳以降も働かないとまずいわけですよね。中本 65歳から先は、さすがにどうなるかわからない。それを働きながら考えなきゃいけないんですよ。60代後半や70代の方でも、うちの社と契約して出入りしている編集者もいます。でも、そこに僕がいられるかわからないし、やっぱり60代後半から仕事ってなかなかないんで。とりあえず、いろんな方と仲良くなって、広く薄く稼がせてもらえたらなっていう。 最初のほうでも話しましたけど、僕が主夫として子育てを中心にしてやっていく考えもありますしね。あわよくばですけど、家でできる書き仕事をもらえれば、送り迎えも弁当を作るのも僕ひとりでやれますから。そんなうまいこといくかわからないですけどね。子供と追いかけっこをするとゼェゼェハァハァしちゃう――お子さんは2歳になりますが、育児をされていて体力的にキツいものがありますか? 健康面でも気をつけないといけない年代でもあると思いますが。中本 いろんな数値が悪いですけど、一番悪いのが尿酸値。要するに痛風ですね(笑)。一度痛くなって、いまは予防的な薬を飲んでいますけど、痛風って脳梗塞や心筋梗塞を引き起こす可能性が高いですから。 なので、酒の量や飲む機会を減らしました。ほぼ毎日、僕が息子を風呂に入れているんですけど、外で会合があって飲むことになっても、だいたい21時、遅くとも22時には帰るようにしています。それで解決するわけではないですけど、深酒をしなくなったのでいいのかなって。 体力的な面では、土日に公園で子供と追いかけっこをすると、もうゼェゼェハァハァしちゃいますね。でも、多少は運動になっているわけだからいいかなと。あと、子供を抱っこしたり、高い高いして持ち上げてると、肩がほぐれているような気がするんですよ。すべて都合のいいように解釈してるんだけど(笑)。足立区に引っ越したが、保育園にすんなりと入ることができず――長く住んでいた文京区から足立区へ移られたそうですが、子育てするうえでの環境を考えてのことですか?中本 文京区から出たのは、家が狭くて家賃も高かったからです。僕らが住んでいるのは足立区の綾瀬で、一昔前はガラが悪いみたいなイメージがありましたけど、いまはぜんぜん違うんですよ。家賃の相場も低いし、子供のいる家庭が多いから保育園も数がありますし、公園も多くて歩道も広いし、とにかく人が温かいんですよね。 越そうかどうか考えていたとき、何度か綾瀬の下見に行ったんですよ。コロナ禍だったのもあったけど、平日の夜に歩いても危険な雰囲気はまったくなくて。住んで1年以上経っていますが、快適ですね。――保育園には、すんなりと。中本 いや。妻が心筋炎と帝王切開で入院して、その後もリハビリがあったので働けない時期があったんです。で、僕だけ働いていたんですけど、基本的に共働きじゃないとはねられちゃう。でも預けないと働けない、という矛盾があるんですよ。なので、葛飾区に越境して認可外の保育施設で預かってもらって。 その間に妻が働いて共働きの実績ができたので、足立区の保育園に通えるようになりました。保育園のお迎えに行ってショックだった出来事――現在のスケジュールは、どういった感じでしょう。中本 妻は、朝から夕方までの講師の仕事が週に3、4回あって。 6時30分くらいに起きて、朝ご飯を食べて、僕が掃除とゴミ出しをして、息子を起こして、登園の準備をして。その間に妻は、息子に食事をさせて、仕事に出る準備をして、一方の僕はリモートで編集局長などと今日の紙面をどうするか打ち合わせしながら、子供の面倒も見ると。で、夫婦で登園させて、妻は仕事に、僕は家に戻って家事の残りをやって、リモートで仕事をします。 で、昼に時差出勤して、会社じゃないとできない仕事をして、残業して、軽く呑んで。その間に妻がお迎えして、ご飯を食べさせて、僕が帰ってきてお風呂に入れると。 夜は23時あたりで寝ますけど、子供が寝付けなかったり、僕が調べ物をするときは1時くらいに寝ます。――保育園で同年代のお父さんを見掛けたりは。中本 いやぁ、みんな若いですね。一度、お迎えに行ってショックだったことがあって。息子の帰りの準備をしていると年長の子が近づいていろいろ話しかけてくるんですけど、そこで「なんで、おじいちゃんが来てるの?」とか「なんで、髪の毛ないの?」とか聞かれて。また無邪気に聞いてくるもんだから、かえって傷ついちゃってね(笑)。父親にできなかった恩返しを子どもに――56歳で父になったからこその意識や視点の変容はありますか?中本 それは日々実感しますね。しゃがんで子供と同じ目線になってみたら「こんなに保育園の園庭って広いのか」「こんなに空が大きいのか」って、「見るものすべてが大きく見えるんだな」とハッとしたりね。 あと、息子が夕方に出てきた月に気づいて「あっ」って指差したのを妻が見て、涙が出そうになったらしいんですって。その純粋さが刺さったというか。で、僕もそれを聞かされて涙が出そうになって(笑)。 あらかわ遊園や花やしきに連れていくと、見るものすべてが新鮮らしくてキョロキョロして、喜び方もすごいんですよね。帰ってきてからも、「また行きたい」と何度も言う。そういう姿を見ると、なんだか自分まで子供に戻ったような感覚に陥りますね。まぁ、これはどの親も同じように感じているでしょうけどね。――「子供に戻った感覚」に加えて、「自分の親もこんな思いで子育てしていたのか」とも思いますよね。中本 自分の親に感謝する気持ちが、やっとこの歳になって生まれますね。僕の親父は、僕が19歳のときに52歳で亡くなったんですけど、頑固でカミナリ親父で怖いイメージしかなくて。 でも、僕が小さかった頃に親子で祭りに行って撮った写真なんかを見ると、怖かったはずの親父がニコニコしながら僕と一緒に写っているんですよ。親父は僕のことを大事にしてたんだろうなって。その恩を返しようにも早くに亡くなってしまったので、親父の代わりに子供に返すしかないなって考えています。どんなことがあっても、長い人生から見れば「たかが、これしきのことで」って感じ――お子さんとの年齢差が56歳って、やはり凄いことですよね。中本 そうですね。これだけ離れちゃってると、逆にギャップが興味になるというか。新鮮に感じすぎちゃって、一緒に子供番組を食い入るように見たりしますね。さっきも話しましたけど、自分も小さな子供になったような感じでいろいろと楽しめるんですよ。――そうしたお話を聞くと、56歳という余裕をもって子育てができていそうですね。中本 慌てない余裕というよりは、くよくよしない余裕はありますね。まだ子供は小さいので、癇癪を起こしたり、ダダをこねたりすることがあって、こっちもさすがに叱らざるをえない場面があるんです。そこではピリピリしますけど、しばらくしたら家族3人で笑い合っている、みたいな。どんなことがあっても、長い人生から見れば「たかが、これしきのことで」って感じですよね。 家で仕事しているときに子供に邪魔されると、やっぱりイライラはしますけど「子育てに比べたら、仕事なんて」となる。これが、もしも20代、30代だったら、そう思えたのかなって。子育ては今後を生きていくうえでの支え――19歳のときにお父様を失くしたけど、どうにかこうにか生きてこられたと本に書かれています。その経験が、今後も続く子育てを続けるうえでのバックボーンや原動力になっているのでは?中本 僕自身はそうだけど、それを息子に押しつけるわけにはいかないし、そんな苦労はさせたくないですね。僕のほうが先に死んでしまうわけなので、そのせいで息子に大変な思いをさせるとしても、ある程度までしっかり育てればがんばってくれるんじゃないか、という願望なんです。だから、息子の自我が目覚めるまではしっかりとサポートしてあげなきゃって。 とにかく、子供を育てるのが今後を生きていくうえでの支えになっていますね。撮影=原田達夫/文藝春秋(平田 裕介)
――ベビー服のサイズで苦労したのではないかと。
中本 妻が買っておいたベビー服はどれもブカブカでしたね。あとオムツのサイズがなかった。うちの子のサイズは4Sなんだけど、普通の店では売ってないから最初のうちは東大病院の売店で買ってました。だんだん体も大きくなって、普通のサイズを通販で買うようになりましたけど。
――親になったからには、オムツを換えたり、沐浴させたり、背負ってあちこち移動したりしなければなりませんが、そうした自分の姿を想像できていましたか?
中本 まったく想像はできていなかったですけど、「なんだか、やってみたらできたな」って感じで。ウンチの始末なんて、自分でもどこかでイヤだなとは考えていたと思うんですよ。でも、やってみたらぜんぜんで。そりゃあ臭いけど、そういうものだし、やるのは当たり前だし、自分の子供のものだったらなんとも思わないですし。
ウンチやオシッコだけじゃなく、戻しますからね。高熱を出したときに抱えていたら盛大に戻されて「ウゲッ」となったけど、すぐに「後で着替えて消毒すりゃいいや」ってなりましたし。そのあたりは、子供が親にしてくれたという感じですよね。
細く長く生きるためにいろんな医療保険に加入――お子さんができる前は「ふたりで楽しく生きていければいいな」と、先のことは深く考えていなかったとおっしゃっていましたが、家族が増えるとそうも言ってられないですよね。経済的な面では、具体的にどのような対策を?中本 ふたりだった頃は、そんなに意識して貯金していませんでしたね。妊娠がわかる前に妻と話し合って、医療保険は厚くはしましたけど。細く長く、遊びながら生きていくなら、元気じゃないといけないからって妻に強く言われたので、いろんな医療保険に入ってたんですよ。 仕事柄、ファイナンシャルプランナーの方々に話を聞いていて、そのたびに「医療保険なんていらねぇんだよ。日本の医療制度は優れているから、入っても無駄」って言われていたんですよ。それもあったので医療保険を減らして、その分を息子の学資に回そうと考えて。 で、ファイナンシャルプランナーに聞いてたんですけど、56歳と45歳で子供をもうけた夫婦が大学卒業までの学資を貯めるシミュレーションが保険会社にはないんですよ(笑)。65歳以降の仕事のプランを働きながら考えなければいけない現実――どうされました?中本 そもそも年齢的に学資保険には入れないんです。この年齢で、向こう20年働くという人生の設計図がないってことなんですよね。 なので、ファイナンシャルプランナーには、学資保険に相当する分を積み立てられる外資型の投資のプランを出してもらいました。――そうした面からも、高齢出産夫婦の現実を突きつけられる。中本 それは、これからが本番ですよ。現況としては僕と妻の稼ぎで不安はないですけど、11月に60歳になるので定年なんです。いまの会社は雇用延長制度があるので、65歳までは働ける可能性があり、できればお世話になりたいと思っています。社会保険や福利厚生があるならば、なおさらですね。子育てにはベースが必要なので。――本の帯にも「息子が成人するとき、おとうさんは76歳!」とありますが、65歳以降も働かないとまずいわけですよね。中本 65歳から先は、さすがにどうなるかわからない。それを働きながら考えなきゃいけないんですよ。60代後半や70代の方でも、うちの社と契約して出入りしている編集者もいます。でも、そこに僕がいられるかわからないし、やっぱり60代後半から仕事ってなかなかないんで。とりあえず、いろんな方と仲良くなって、広く薄く稼がせてもらえたらなっていう。 最初のほうでも話しましたけど、僕が主夫として子育てを中心にしてやっていく考えもありますしね。あわよくばですけど、家でできる書き仕事をもらえれば、送り迎えも弁当を作るのも僕ひとりでやれますから。そんなうまいこといくかわからないですけどね。子供と追いかけっこをするとゼェゼェハァハァしちゃう――お子さんは2歳になりますが、育児をされていて体力的にキツいものがありますか? 健康面でも気をつけないといけない年代でもあると思いますが。中本 いろんな数値が悪いですけど、一番悪いのが尿酸値。要するに痛風ですね(笑)。一度痛くなって、いまは予防的な薬を飲んでいますけど、痛風って脳梗塞や心筋梗塞を引き起こす可能性が高いですから。 なので、酒の量や飲む機会を減らしました。ほぼ毎日、僕が息子を風呂に入れているんですけど、外で会合があって飲むことになっても、だいたい21時、遅くとも22時には帰るようにしています。それで解決するわけではないですけど、深酒をしなくなったのでいいのかなって。 体力的な面では、土日に公園で子供と追いかけっこをすると、もうゼェゼェハァハァしちゃいますね。でも、多少は運動になっているわけだからいいかなと。あと、子供を抱っこしたり、高い高いして持ち上げてると、肩がほぐれているような気がするんですよ。すべて都合のいいように解釈してるんだけど(笑)。足立区に引っ越したが、保育園にすんなりと入ることができず――長く住んでいた文京区から足立区へ移られたそうですが、子育てするうえでの環境を考えてのことですか?中本 文京区から出たのは、家が狭くて家賃も高かったからです。僕らが住んでいるのは足立区の綾瀬で、一昔前はガラが悪いみたいなイメージがありましたけど、いまはぜんぜん違うんですよ。家賃の相場も低いし、子供のいる家庭が多いから保育園も数がありますし、公園も多くて歩道も広いし、とにかく人が温かいんですよね。 越そうかどうか考えていたとき、何度か綾瀬の下見に行ったんですよ。コロナ禍だったのもあったけど、平日の夜に歩いても危険な雰囲気はまったくなくて。住んで1年以上経っていますが、快適ですね。――保育園には、すんなりと。中本 いや。妻が心筋炎と帝王切開で入院して、その後もリハビリがあったので働けない時期があったんです。で、僕だけ働いていたんですけど、基本的に共働きじゃないとはねられちゃう。でも預けないと働けない、という矛盾があるんですよ。なので、葛飾区に越境して認可外の保育施設で預かってもらって。 その間に妻が働いて共働きの実績ができたので、足立区の保育園に通えるようになりました。保育園のお迎えに行ってショックだった出来事――現在のスケジュールは、どういった感じでしょう。中本 妻は、朝から夕方までの講師の仕事が週に3、4回あって。 6時30分くらいに起きて、朝ご飯を食べて、僕が掃除とゴミ出しをして、息子を起こして、登園の準備をして。その間に妻は、息子に食事をさせて、仕事に出る準備をして、一方の僕はリモートで編集局長などと今日の紙面をどうするか打ち合わせしながら、子供の面倒も見ると。で、夫婦で登園させて、妻は仕事に、僕は家に戻って家事の残りをやって、リモートで仕事をします。 で、昼に時差出勤して、会社じゃないとできない仕事をして、残業して、軽く呑んで。その間に妻がお迎えして、ご飯を食べさせて、僕が帰ってきてお風呂に入れると。 夜は23時あたりで寝ますけど、子供が寝付けなかったり、僕が調べ物をするときは1時くらいに寝ます。――保育園で同年代のお父さんを見掛けたりは。中本 いやぁ、みんな若いですね。一度、お迎えに行ってショックだったことがあって。息子の帰りの準備をしていると年長の子が近づいていろいろ話しかけてくるんですけど、そこで「なんで、おじいちゃんが来てるの?」とか「なんで、髪の毛ないの?」とか聞かれて。また無邪気に聞いてくるもんだから、かえって傷ついちゃってね(笑)。父親にできなかった恩返しを子どもに――56歳で父になったからこその意識や視点の変容はありますか?中本 それは日々実感しますね。しゃがんで子供と同じ目線になってみたら「こんなに保育園の園庭って広いのか」「こんなに空が大きいのか」って、「見るものすべてが大きく見えるんだな」とハッとしたりね。 あと、息子が夕方に出てきた月に気づいて「あっ」って指差したのを妻が見て、涙が出そうになったらしいんですって。その純粋さが刺さったというか。で、僕もそれを聞かされて涙が出そうになって(笑)。 あらかわ遊園や花やしきに連れていくと、見るものすべてが新鮮らしくてキョロキョロして、喜び方もすごいんですよね。帰ってきてからも、「また行きたい」と何度も言う。そういう姿を見ると、なんだか自分まで子供に戻ったような感覚に陥りますね。まぁ、これはどの親も同じように感じているでしょうけどね。――「子供に戻った感覚」に加えて、「自分の親もこんな思いで子育てしていたのか」とも思いますよね。中本 自分の親に感謝する気持ちが、やっとこの歳になって生まれますね。僕の親父は、僕が19歳のときに52歳で亡くなったんですけど、頑固でカミナリ親父で怖いイメージしかなくて。 でも、僕が小さかった頃に親子で祭りに行って撮った写真なんかを見ると、怖かったはずの親父がニコニコしながら僕と一緒に写っているんですよ。親父は僕のことを大事にしてたんだろうなって。その恩を返しようにも早くに亡くなってしまったので、親父の代わりに子供に返すしかないなって考えています。どんなことがあっても、長い人生から見れば「たかが、これしきのことで」って感じ――お子さんとの年齢差が56歳って、やはり凄いことですよね。中本 そうですね。これだけ離れちゃってると、逆にギャップが興味になるというか。新鮮に感じすぎちゃって、一緒に子供番組を食い入るように見たりしますね。さっきも話しましたけど、自分も小さな子供になったような感じでいろいろと楽しめるんですよ。――そうしたお話を聞くと、56歳という余裕をもって子育てができていそうですね。中本 慌てない余裕というよりは、くよくよしない余裕はありますね。まだ子供は小さいので、癇癪を起こしたり、ダダをこねたりすることがあって、こっちもさすがに叱らざるをえない場面があるんです。そこではピリピリしますけど、しばらくしたら家族3人で笑い合っている、みたいな。どんなことがあっても、長い人生から見れば「たかが、これしきのことで」って感じですよね。 家で仕事しているときに子供に邪魔されると、やっぱりイライラはしますけど「子育てに比べたら、仕事なんて」となる。これが、もしも20代、30代だったら、そう思えたのかなって。子育ては今後を生きていくうえでの支え――19歳のときにお父様を失くしたけど、どうにかこうにか生きてこられたと本に書かれています。その経験が、今後も続く子育てを続けるうえでのバックボーンや原動力になっているのでは?中本 僕自身はそうだけど、それを息子に押しつけるわけにはいかないし、そんな苦労はさせたくないですね。僕のほうが先に死んでしまうわけなので、そのせいで息子に大変な思いをさせるとしても、ある程度までしっかり育てればがんばってくれるんじゃないか、という願望なんです。だから、息子の自我が目覚めるまではしっかりとサポートしてあげなきゃって。 とにかく、子供を育てるのが今後を生きていくうえでの支えになっていますね。撮影=原田達夫/文藝春秋(平田 裕介)
――お子さんができる前は「ふたりで楽しく生きていければいいな」と、先のことは深く考えていなかったとおっしゃっていましたが、家族が増えるとそうも言ってられないですよね。経済的な面では、具体的にどのような対策を?
中本 ふたりだった頃は、そんなに意識して貯金していませんでしたね。妊娠がわかる前に妻と話し合って、医療保険は厚くはしましたけど。細く長く、遊びながら生きていくなら、元気じゃないといけないからって妻に強く言われたので、いろんな医療保険に入ってたんですよ。
仕事柄、ファイナンシャルプランナーの方々に話を聞いていて、そのたびに「医療保険なんていらねぇんだよ。日本の医療制度は優れているから、入っても無駄」って言われていたんですよ。それもあったので医療保険を減らして、その分を息子の学資に回そうと考えて。
で、ファイナンシャルプランナーに聞いてたんですけど、56歳と45歳で子供をもうけた夫婦が大学卒業までの学資を貯めるシミュレーションが保険会社にはないんですよ(笑)。
65歳以降の仕事のプランを働きながら考えなければいけない現実――どうされました?中本 そもそも年齢的に学資保険には入れないんです。この年齢で、向こう20年働くという人生の設計図がないってことなんですよね。 なので、ファイナンシャルプランナーには、学資保険に相当する分を積み立てられる外資型の投資のプランを出してもらいました。――そうした面からも、高齢出産夫婦の現実を突きつけられる。中本 それは、これからが本番ですよ。現況としては僕と妻の稼ぎで不安はないですけど、11月に60歳になるので定年なんです。いまの会社は雇用延長制度があるので、65歳までは働ける可能性があり、できればお世話になりたいと思っています。社会保険や福利厚生があるならば、なおさらですね。子育てにはベースが必要なので。――本の帯にも「息子が成人するとき、おとうさんは76歳!」とありますが、65歳以降も働かないとまずいわけですよね。中本 65歳から先は、さすがにどうなるかわからない。それを働きながら考えなきゃいけないんですよ。60代後半や70代の方でも、うちの社と契約して出入りしている編集者もいます。でも、そこに僕がいられるかわからないし、やっぱり60代後半から仕事ってなかなかないんで。とりあえず、いろんな方と仲良くなって、広く薄く稼がせてもらえたらなっていう。 最初のほうでも話しましたけど、僕が主夫として子育てを中心にしてやっていく考えもありますしね。あわよくばですけど、家でできる書き仕事をもらえれば、送り迎えも弁当を作るのも僕ひとりでやれますから。そんなうまいこといくかわからないですけどね。子供と追いかけっこをするとゼェゼェハァハァしちゃう――お子さんは2歳になりますが、育児をされていて体力的にキツいものがありますか? 健康面でも気をつけないといけない年代でもあると思いますが。中本 いろんな数値が悪いですけど、一番悪いのが尿酸値。要するに痛風ですね(笑)。一度痛くなって、いまは予防的な薬を飲んでいますけど、痛風って脳梗塞や心筋梗塞を引き起こす可能性が高いですから。 なので、酒の量や飲む機会を減らしました。ほぼ毎日、僕が息子を風呂に入れているんですけど、外で会合があって飲むことになっても、だいたい21時、遅くとも22時には帰るようにしています。それで解決するわけではないですけど、深酒をしなくなったのでいいのかなって。 体力的な面では、土日に公園で子供と追いかけっこをすると、もうゼェゼェハァハァしちゃいますね。でも、多少は運動になっているわけだからいいかなと。あと、子供を抱っこしたり、高い高いして持ち上げてると、肩がほぐれているような気がするんですよ。すべて都合のいいように解釈してるんだけど(笑)。足立区に引っ越したが、保育園にすんなりと入ることができず――長く住んでいた文京区から足立区へ移られたそうですが、子育てするうえでの環境を考えてのことですか?中本 文京区から出たのは、家が狭くて家賃も高かったからです。僕らが住んでいるのは足立区の綾瀬で、一昔前はガラが悪いみたいなイメージがありましたけど、いまはぜんぜん違うんですよ。家賃の相場も低いし、子供のいる家庭が多いから保育園も数がありますし、公園も多くて歩道も広いし、とにかく人が温かいんですよね。 越そうかどうか考えていたとき、何度か綾瀬の下見に行ったんですよ。コロナ禍だったのもあったけど、平日の夜に歩いても危険な雰囲気はまったくなくて。住んで1年以上経っていますが、快適ですね。――保育園には、すんなりと。中本 いや。妻が心筋炎と帝王切開で入院して、その後もリハビリがあったので働けない時期があったんです。で、僕だけ働いていたんですけど、基本的に共働きじゃないとはねられちゃう。でも預けないと働けない、という矛盾があるんですよ。なので、葛飾区に越境して認可外の保育施設で預かってもらって。 その間に妻が働いて共働きの実績ができたので、足立区の保育園に通えるようになりました。保育園のお迎えに行ってショックだった出来事――現在のスケジュールは、どういった感じでしょう。中本 妻は、朝から夕方までの講師の仕事が週に3、4回あって。 6時30分くらいに起きて、朝ご飯を食べて、僕が掃除とゴミ出しをして、息子を起こして、登園の準備をして。その間に妻は、息子に食事をさせて、仕事に出る準備をして、一方の僕はリモートで編集局長などと今日の紙面をどうするか打ち合わせしながら、子供の面倒も見ると。で、夫婦で登園させて、妻は仕事に、僕は家に戻って家事の残りをやって、リモートで仕事をします。 で、昼に時差出勤して、会社じゃないとできない仕事をして、残業して、軽く呑んで。その間に妻がお迎えして、ご飯を食べさせて、僕が帰ってきてお風呂に入れると。 夜は23時あたりで寝ますけど、子供が寝付けなかったり、僕が調べ物をするときは1時くらいに寝ます。――保育園で同年代のお父さんを見掛けたりは。中本 いやぁ、みんな若いですね。一度、お迎えに行ってショックだったことがあって。息子の帰りの準備をしていると年長の子が近づいていろいろ話しかけてくるんですけど、そこで「なんで、おじいちゃんが来てるの?」とか「なんで、髪の毛ないの?」とか聞かれて。また無邪気に聞いてくるもんだから、かえって傷ついちゃってね(笑)。父親にできなかった恩返しを子どもに――56歳で父になったからこその意識や視点の変容はありますか?中本 それは日々実感しますね。しゃがんで子供と同じ目線になってみたら「こんなに保育園の園庭って広いのか」「こんなに空が大きいのか」って、「見るものすべてが大きく見えるんだな」とハッとしたりね。 あと、息子が夕方に出てきた月に気づいて「あっ」って指差したのを妻が見て、涙が出そうになったらしいんですって。その純粋さが刺さったというか。で、僕もそれを聞かされて涙が出そうになって(笑)。 あらかわ遊園や花やしきに連れていくと、見るものすべてが新鮮らしくてキョロキョロして、喜び方もすごいんですよね。帰ってきてからも、「また行きたい」と何度も言う。そういう姿を見ると、なんだか自分まで子供に戻ったような感覚に陥りますね。まぁ、これはどの親も同じように感じているでしょうけどね。――「子供に戻った感覚」に加えて、「自分の親もこんな思いで子育てしていたのか」とも思いますよね。中本 自分の親に感謝する気持ちが、やっとこの歳になって生まれますね。僕の親父は、僕が19歳のときに52歳で亡くなったんですけど、頑固でカミナリ親父で怖いイメージしかなくて。 でも、僕が小さかった頃に親子で祭りに行って撮った写真なんかを見ると、怖かったはずの親父がニコニコしながら僕と一緒に写っているんですよ。親父は僕のことを大事にしてたんだろうなって。その恩を返しようにも早くに亡くなってしまったので、親父の代わりに子供に返すしかないなって考えています。どんなことがあっても、長い人生から見れば「たかが、これしきのことで」って感じ――お子さんとの年齢差が56歳って、やはり凄いことですよね。中本 そうですね。これだけ離れちゃってると、逆にギャップが興味になるというか。新鮮に感じすぎちゃって、一緒に子供番組を食い入るように見たりしますね。さっきも話しましたけど、自分も小さな子供になったような感じでいろいろと楽しめるんですよ。――そうしたお話を聞くと、56歳という余裕をもって子育てができていそうですね。中本 慌てない余裕というよりは、くよくよしない余裕はありますね。まだ子供は小さいので、癇癪を起こしたり、ダダをこねたりすることがあって、こっちもさすがに叱らざるをえない場面があるんです。そこではピリピリしますけど、しばらくしたら家族3人で笑い合っている、みたいな。どんなことがあっても、長い人生から見れば「たかが、これしきのことで」って感じですよね。 家で仕事しているときに子供に邪魔されると、やっぱりイライラはしますけど「子育てに比べたら、仕事なんて」となる。これが、もしも20代、30代だったら、そう思えたのかなって。子育ては今後を生きていくうえでの支え――19歳のときにお父様を失くしたけど、どうにかこうにか生きてこられたと本に書かれています。その経験が、今後も続く子育てを続けるうえでのバックボーンや原動力になっているのでは?中本 僕自身はそうだけど、それを息子に押しつけるわけにはいかないし、そんな苦労はさせたくないですね。僕のほうが先に死んでしまうわけなので、そのせいで息子に大変な思いをさせるとしても、ある程度までしっかり育てればがんばってくれるんじゃないか、という願望なんです。だから、息子の自我が目覚めるまではしっかりとサポートしてあげなきゃって。 とにかく、子供を育てるのが今後を生きていくうえでの支えになっていますね。撮影=原田達夫/文藝春秋(平田 裕介)
――どうされました?
中本 そもそも年齢的に学資保険には入れないんです。この年齢で、向こう20年働くという人生の設計図がないってことなんですよね。
なので、ファイナンシャルプランナーには、学資保険に相当する分を積み立てられる外資型の投資のプランを出してもらいました。
――そうした面からも、高齢出産夫婦の現実を突きつけられる。
中本 それは、これからが本番ですよ。現況としては僕と妻の稼ぎで不安はないですけど、11月に60歳になるので定年なんです。いまの会社は雇用延長制度があるので、65歳までは働ける可能性があり、できればお世話になりたいと思っています。社会保険や福利厚生があるならば、なおさらですね。子育てにはベースが必要なので。
――本の帯にも「息子が成人するとき、おとうさんは76歳!」とありますが、65歳以降も働かないとまずいわけですよね。
中本 65歳から先は、さすがにどうなるかわからない。それを働きながら考えなきゃいけないんですよ。60代後半や70代の方でも、うちの社と契約して出入りしている編集者もいます。でも、そこに僕がいられるかわからないし、やっぱり60代後半から仕事ってなかなかないんで。とりあえず、いろんな方と仲良くなって、広く薄く稼がせてもらえたらなっていう。
最初のほうでも話しましたけど、僕が主夫として子育てを中心にしてやっていく考えもありますしね。あわよくばですけど、家でできる書き仕事をもらえれば、送り迎えも弁当を作るのも僕ひとりでやれますから。そんなうまいこといくかわからないですけどね。
子供と追いかけっこをするとゼェゼェハァハァしちゃう――お子さんは2歳になりますが、育児をされていて体力的にキツいものがありますか? 健康面でも気をつけないといけない年代でもあると思いますが。中本 いろんな数値が悪いですけど、一番悪いのが尿酸値。要するに痛風ですね(笑)。一度痛くなって、いまは予防的な薬を飲んでいますけど、痛風って脳梗塞や心筋梗塞を引き起こす可能性が高いですから。 なので、酒の量や飲む機会を減らしました。ほぼ毎日、僕が息子を風呂に入れているんですけど、外で会合があって飲むことになっても、だいたい21時、遅くとも22時には帰るようにしています。それで解決するわけではないですけど、深酒をしなくなったのでいいのかなって。 体力的な面では、土日に公園で子供と追いかけっこをすると、もうゼェゼェハァハァしちゃいますね。でも、多少は運動になっているわけだからいいかなと。あと、子供を抱っこしたり、高い高いして持ち上げてると、肩がほぐれているような気がするんですよ。すべて都合のいいように解釈してるんだけど(笑)。足立区に引っ越したが、保育園にすんなりと入ることができず――長く住んでいた文京区から足立区へ移られたそうですが、子育てするうえでの環境を考えてのことですか?中本 文京区から出たのは、家が狭くて家賃も高かったからです。僕らが住んでいるのは足立区の綾瀬で、一昔前はガラが悪いみたいなイメージがありましたけど、いまはぜんぜん違うんですよ。家賃の相場も低いし、子供のいる家庭が多いから保育園も数がありますし、公園も多くて歩道も広いし、とにかく人が温かいんですよね。 越そうかどうか考えていたとき、何度か綾瀬の下見に行ったんですよ。コロナ禍だったのもあったけど、平日の夜に歩いても危険な雰囲気はまったくなくて。住んで1年以上経っていますが、快適ですね。――保育園には、すんなりと。中本 いや。妻が心筋炎と帝王切開で入院して、その後もリハビリがあったので働けない時期があったんです。で、僕だけ働いていたんですけど、基本的に共働きじゃないとはねられちゃう。でも預けないと働けない、という矛盾があるんですよ。なので、葛飾区に越境して認可外の保育施設で預かってもらって。 その間に妻が働いて共働きの実績ができたので、足立区の保育園に通えるようになりました。保育園のお迎えに行ってショックだった出来事――現在のスケジュールは、どういった感じでしょう。中本 妻は、朝から夕方までの講師の仕事が週に3、4回あって。 6時30分くらいに起きて、朝ご飯を食べて、僕が掃除とゴミ出しをして、息子を起こして、登園の準備をして。その間に妻は、息子に食事をさせて、仕事に出る準備をして、一方の僕はリモートで編集局長などと今日の紙面をどうするか打ち合わせしながら、子供の面倒も見ると。で、夫婦で登園させて、妻は仕事に、僕は家に戻って家事の残りをやって、リモートで仕事をします。 で、昼に時差出勤して、会社じゃないとできない仕事をして、残業して、軽く呑んで。その間に妻がお迎えして、ご飯を食べさせて、僕が帰ってきてお風呂に入れると。 夜は23時あたりで寝ますけど、子供が寝付けなかったり、僕が調べ物をするときは1時くらいに寝ます。――保育園で同年代のお父さんを見掛けたりは。中本 いやぁ、みんな若いですね。一度、お迎えに行ってショックだったことがあって。息子の帰りの準備をしていると年長の子が近づいていろいろ話しかけてくるんですけど、そこで「なんで、おじいちゃんが来てるの?」とか「なんで、髪の毛ないの?」とか聞かれて。また無邪気に聞いてくるもんだから、かえって傷ついちゃってね(笑)。父親にできなかった恩返しを子どもに――56歳で父になったからこその意識や視点の変容はありますか?中本 それは日々実感しますね。しゃがんで子供と同じ目線になってみたら「こんなに保育園の園庭って広いのか」「こんなに空が大きいのか」って、「見るものすべてが大きく見えるんだな」とハッとしたりね。 あと、息子が夕方に出てきた月に気づいて「あっ」って指差したのを妻が見て、涙が出そうになったらしいんですって。その純粋さが刺さったというか。で、僕もそれを聞かされて涙が出そうになって(笑)。 あらかわ遊園や花やしきに連れていくと、見るものすべてが新鮮らしくてキョロキョロして、喜び方もすごいんですよね。帰ってきてからも、「また行きたい」と何度も言う。そういう姿を見ると、なんだか自分まで子供に戻ったような感覚に陥りますね。まぁ、これはどの親も同じように感じているでしょうけどね。――「子供に戻った感覚」に加えて、「自分の親もこんな思いで子育てしていたのか」とも思いますよね。中本 自分の親に感謝する気持ちが、やっとこの歳になって生まれますね。僕の親父は、僕が19歳のときに52歳で亡くなったんですけど、頑固でカミナリ親父で怖いイメージしかなくて。 でも、僕が小さかった頃に親子で祭りに行って撮った写真なんかを見ると、怖かったはずの親父がニコニコしながら僕と一緒に写っているんですよ。親父は僕のことを大事にしてたんだろうなって。その恩を返しようにも早くに亡くなってしまったので、親父の代わりに子供に返すしかないなって考えています。どんなことがあっても、長い人生から見れば「たかが、これしきのことで」って感じ――お子さんとの年齢差が56歳って、やはり凄いことですよね。中本 そうですね。これだけ離れちゃってると、逆にギャップが興味になるというか。新鮮に感じすぎちゃって、一緒に子供番組を食い入るように見たりしますね。さっきも話しましたけど、自分も小さな子供になったような感じでいろいろと楽しめるんですよ。――そうしたお話を聞くと、56歳という余裕をもって子育てができていそうですね。中本 慌てない余裕というよりは、くよくよしない余裕はありますね。まだ子供は小さいので、癇癪を起こしたり、ダダをこねたりすることがあって、こっちもさすがに叱らざるをえない場面があるんです。そこではピリピリしますけど、しばらくしたら家族3人で笑い合っている、みたいな。どんなことがあっても、長い人生から見れば「たかが、これしきのことで」って感じですよね。 家で仕事しているときに子供に邪魔されると、やっぱりイライラはしますけど「子育てに比べたら、仕事なんて」となる。これが、もしも20代、30代だったら、そう思えたのかなって。子育ては今後を生きていくうえでの支え――19歳のときにお父様を失くしたけど、どうにかこうにか生きてこられたと本に書かれています。その経験が、今後も続く子育てを続けるうえでのバックボーンや原動力になっているのでは?中本 僕自身はそうだけど、それを息子に押しつけるわけにはいかないし、そんな苦労はさせたくないですね。僕のほうが先に死んでしまうわけなので、そのせいで息子に大変な思いをさせるとしても、ある程度までしっかり育てればがんばってくれるんじゃないか、という願望なんです。だから、息子の自我が目覚めるまではしっかりとサポートしてあげなきゃって。 とにかく、子供を育てるのが今後を生きていくうえでの支えになっていますね。撮影=原田達夫/文藝春秋(平田 裕介)
――お子さんは2歳になりますが、育児をされていて体力的にキツいものがありますか? 健康面でも気をつけないといけない年代でもあると思いますが。
中本 いろんな数値が悪いですけど、一番悪いのが尿酸値。要するに痛風ですね(笑)。一度痛くなって、いまは予防的な薬を飲んでいますけど、痛風って脳梗塞や心筋梗塞を引き起こす可能性が高いですから。
なので、酒の量や飲む機会を減らしました。ほぼ毎日、僕が息子を風呂に入れているんですけど、外で会合があって飲むことになっても、だいたい21時、遅くとも22時には帰るようにしています。それで解決するわけではないですけど、深酒をしなくなったのでいいのかなって。
体力的な面では、土日に公園で子供と追いかけっこをすると、もうゼェゼェハァハァしちゃいますね。でも、多少は運動になっているわけだからいいかなと。あと、子供を抱っこしたり、高い高いして持ち上げてると、肩がほぐれているような気がするんですよ。すべて都合のいいように解釈してるんだけど(笑)。
足立区に引っ越したが、保育園にすんなりと入ることができず――長く住んでいた文京区から足立区へ移られたそうですが、子育てするうえでの環境を考えてのことですか?中本 文京区から出たのは、家が狭くて家賃も高かったからです。僕らが住んでいるのは足立区の綾瀬で、一昔前はガラが悪いみたいなイメージがありましたけど、いまはぜんぜん違うんですよ。家賃の相場も低いし、子供のいる家庭が多いから保育園も数がありますし、公園も多くて歩道も広いし、とにかく人が温かいんですよね。 越そうかどうか考えていたとき、何度か綾瀬の下見に行ったんですよ。コロナ禍だったのもあったけど、平日の夜に歩いても危険な雰囲気はまったくなくて。住んで1年以上経っていますが、快適ですね。――保育園には、すんなりと。中本 いや。妻が心筋炎と帝王切開で入院して、その後もリハビリがあったので働けない時期があったんです。で、僕だけ働いていたんですけど、基本的に共働きじゃないとはねられちゃう。でも預けないと働けない、という矛盾があるんですよ。なので、葛飾区に越境して認可外の保育施設で預かってもらって。 その間に妻が働いて共働きの実績ができたので、足立区の保育園に通えるようになりました。保育園のお迎えに行ってショックだった出来事――現在のスケジュールは、どういった感じでしょう。中本 妻は、朝から夕方までの講師の仕事が週に3、4回あって。 6時30分くらいに起きて、朝ご飯を食べて、僕が掃除とゴミ出しをして、息子を起こして、登園の準備をして。その間に妻は、息子に食事をさせて、仕事に出る準備をして、一方の僕はリモートで編集局長などと今日の紙面をどうするか打ち合わせしながら、子供の面倒も見ると。で、夫婦で登園させて、妻は仕事に、僕は家に戻って家事の残りをやって、リモートで仕事をします。 で、昼に時差出勤して、会社じゃないとできない仕事をして、残業して、軽く呑んで。その間に妻がお迎えして、ご飯を食べさせて、僕が帰ってきてお風呂に入れると。 夜は23時あたりで寝ますけど、子供が寝付けなかったり、僕が調べ物をするときは1時くらいに寝ます。――保育園で同年代のお父さんを見掛けたりは。中本 いやぁ、みんな若いですね。一度、お迎えに行ってショックだったことがあって。息子の帰りの準備をしていると年長の子が近づいていろいろ話しかけてくるんですけど、そこで「なんで、おじいちゃんが来てるの?」とか「なんで、髪の毛ないの?」とか聞かれて。また無邪気に聞いてくるもんだから、かえって傷ついちゃってね(笑)。父親にできなかった恩返しを子どもに――56歳で父になったからこその意識や視点の変容はありますか?中本 それは日々実感しますね。しゃがんで子供と同じ目線になってみたら「こんなに保育園の園庭って広いのか」「こんなに空が大きいのか」って、「見るものすべてが大きく見えるんだな」とハッとしたりね。 あと、息子が夕方に出てきた月に気づいて「あっ」って指差したのを妻が見て、涙が出そうになったらしいんですって。その純粋さが刺さったというか。で、僕もそれを聞かされて涙が出そうになって(笑)。 あらかわ遊園や花やしきに連れていくと、見るものすべてが新鮮らしくてキョロキョロして、喜び方もすごいんですよね。帰ってきてからも、「また行きたい」と何度も言う。そういう姿を見ると、なんだか自分まで子供に戻ったような感覚に陥りますね。まぁ、これはどの親も同じように感じているでしょうけどね。――「子供に戻った感覚」に加えて、「自分の親もこんな思いで子育てしていたのか」とも思いますよね。中本 自分の親に感謝する気持ちが、やっとこの歳になって生まれますね。僕の親父は、僕が19歳のときに52歳で亡くなったんですけど、頑固でカミナリ親父で怖いイメージしかなくて。 でも、僕が小さかった頃に親子で祭りに行って撮った写真なんかを見ると、怖かったはずの親父がニコニコしながら僕と一緒に写っているんですよ。親父は僕のことを大事にしてたんだろうなって。その恩を返しようにも早くに亡くなってしまったので、親父の代わりに子供に返すしかないなって考えています。どんなことがあっても、長い人生から見れば「たかが、これしきのことで」って感じ――お子さんとの年齢差が56歳って、やはり凄いことですよね。中本 そうですね。これだけ離れちゃってると、逆にギャップが興味になるというか。新鮮に感じすぎちゃって、一緒に子供番組を食い入るように見たりしますね。さっきも話しましたけど、自分も小さな子供になったような感じでいろいろと楽しめるんですよ。――そうしたお話を聞くと、56歳という余裕をもって子育てができていそうですね。中本 慌てない余裕というよりは、くよくよしない余裕はありますね。まだ子供は小さいので、癇癪を起こしたり、ダダをこねたりすることがあって、こっちもさすがに叱らざるをえない場面があるんです。そこではピリピリしますけど、しばらくしたら家族3人で笑い合っている、みたいな。どんなことがあっても、長い人生から見れば「たかが、これしきのことで」って感じですよね。 家で仕事しているときに子供に邪魔されると、やっぱりイライラはしますけど「子育てに比べたら、仕事なんて」となる。これが、もしも20代、30代だったら、そう思えたのかなって。子育ては今後を生きていくうえでの支え――19歳のときにお父様を失くしたけど、どうにかこうにか生きてこられたと本に書かれています。その経験が、今後も続く子育てを続けるうえでのバックボーンや原動力になっているのでは?中本 僕自身はそうだけど、それを息子に押しつけるわけにはいかないし、そんな苦労はさせたくないですね。僕のほうが先に死んでしまうわけなので、そのせいで息子に大変な思いをさせるとしても、ある程度までしっかり育てればがんばってくれるんじゃないか、という願望なんです。だから、息子の自我が目覚めるまではしっかりとサポートしてあげなきゃって。 とにかく、子供を育てるのが今後を生きていくうえでの支えになっていますね。撮影=原田達夫/文藝春秋(平田 裕介)
――長く住んでいた文京区から足立区へ移られたそうですが、子育てするうえでの環境を考えてのことですか?
中本 文京区から出たのは、家が狭くて家賃も高かったからです。僕らが住んでいるのは足立区の綾瀬で、一昔前はガラが悪いみたいなイメージがありましたけど、いまはぜんぜん違うんですよ。家賃の相場も低いし、子供のいる家庭が多いから保育園も数がありますし、公園も多くて歩道も広いし、とにかく人が温かいんですよね。
越そうかどうか考えていたとき、何度か綾瀬の下見に行ったんですよ。コロナ禍だったのもあったけど、平日の夜に歩いても危険な雰囲気はまったくなくて。住んで1年以上経っていますが、快適ですね。
――保育園には、すんなりと。
中本 いや。妻が心筋炎と帝王切開で入院して、その後もリハビリがあったので働けない時期があったんです。で、僕だけ働いていたんですけど、基本的に共働きじゃないとはねられちゃう。でも預けないと働けない、という矛盾があるんですよ。なので、葛飾区に越境して認可外の保育施設で預かってもらって。
その間に妻が働いて共働きの実績ができたので、足立区の保育園に通えるようになりました。
保育園のお迎えに行ってショックだった出来事――現在のスケジュールは、どういった感じでしょう。中本 妻は、朝から夕方までの講師の仕事が週に3、4回あって。 6時30分くらいに起きて、朝ご飯を食べて、僕が掃除とゴミ出しをして、息子を起こして、登園の準備をして。その間に妻は、息子に食事をさせて、仕事に出る準備をして、一方の僕はリモートで編集局長などと今日の紙面をどうするか打ち合わせしながら、子供の面倒も見ると。で、夫婦で登園させて、妻は仕事に、僕は家に戻って家事の残りをやって、リモートで仕事をします。 で、昼に時差出勤して、会社じゃないとできない仕事をして、残業して、軽く呑んで。その間に妻がお迎えして、ご飯を食べさせて、僕が帰ってきてお風呂に入れると。 夜は23時あたりで寝ますけど、子供が寝付けなかったり、僕が調べ物をするときは1時くらいに寝ます。――保育園で同年代のお父さんを見掛けたりは。中本 いやぁ、みんな若いですね。一度、お迎えに行ってショックだったことがあって。息子の帰りの準備をしていると年長の子が近づいていろいろ話しかけてくるんですけど、そこで「なんで、おじいちゃんが来てるの?」とか「なんで、髪の毛ないの?」とか聞かれて。また無邪気に聞いてくるもんだから、かえって傷ついちゃってね(笑)。父親にできなかった恩返しを子どもに――56歳で父になったからこその意識や視点の変容はありますか?中本 それは日々実感しますね。しゃがんで子供と同じ目線になってみたら「こんなに保育園の園庭って広いのか」「こんなに空が大きいのか」って、「見るものすべてが大きく見えるんだな」とハッとしたりね。 あと、息子が夕方に出てきた月に気づいて「あっ」って指差したのを妻が見て、涙が出そうになったらしいんですって。その純粋さが刺さったというか。で、僕もそれを聞かされて涙が出そうになって(笑)。 あらかわ遊園や花やしきに連れていくと、見るものすべてが新鮮らしくてキョロキョロして、喜び方もすごいんですよね。帰ってきてからも、「また行きたい」と何度も言う。そういう姿を見ると、なんだか自分まで子供に戻ったような感覚に陥りますね。まぁ、これはどの親も同じように感じているでしょうけどね。――「子供に戻った感覚」に加えて、「自分の親もこんな思いで子育てしていたのか」とも思いますよね。中本 自分の親に感謝する気持ちが、やっとこの歳になって生まれますね。僕の親父は、僕が19歳のときに52歳で亡くなったんですけど、頑固でカミナリ親父で怖いイメージしかなくて。 でも、僕が小さかった頃に親子で祭りに行って撮った写真なんかを見ると、怖かったはずの親父がニコニコしながら僕と一緒に写っているんですよ。親父は僕のことを大事にしてたんだろうなって。その恩を返しようにも早くに亡くなってしまったので、親父の代わりに子供に返すしかないなって考えています。どんなことがあっても、長い人生から見れば「たかが、これしきのことで」って感じ――お子さんとの年齢差が56歳って、やはり凄いことですよね。中本 そうですね。これだけ離れちゃってると、逆にギャップが興味になるというか。新鮮に感じすぎちゃって、一緒に子供番組を食い入るように見たりしますね。さっきも話しましたけど、自分も小さな子供になったような感じでいろいろと楽しめるんですよ。――そうしたお話を聞くと、56歳という余裕をもって子育てができていそうですね。中本 慌てない余裕というよりは、くよくよしない余裕はありますね。まだ子供は小さいので、癇癪を起こしたり、ダダをこねたりすることがあって、こっちもさすがに叱らざるをえない場面があるんです。そこではピリピリしますけど、しばらくしたら家族3人で笑い合っている、みたいな。どんなことがあっても、長い人生から見れば「たかが、これしきのことで」って感じですよね。 家で仕事しているときに子供に邪魔されると、やっぱりイライラはしますけど「子育てに比べたら、仕事なんて」となる。これが、もしも20代、30代だったら、そう思えたのかなって。子育ては今後を生きていくうえでの支え――19歳のときにお父様を失くしたけど、どうにかこうにか生きてこられたと本に書かれています。その経験が、今後も続く子育てを続けるうえでのバックボーンや原動力になっているのでは?中本 僕自身はそうだけど、それを息子に押しつけるわけにはいかないし、そんな苦労はさせたくないですね。僕のほうが先に死んでしまうわけなので、そのせいで息子に大変な思いをさせるとしても、ある程度までしっかり育てればがんばってくれるんじゃないか、という願望なんです。だから、息子の自我が目覚めるまではしっかりとサポートしてあげなきゃって。 とにかく、子供を育てるのが今後を生きていくうえでの支えになっていますね。撮影=原田達夫/文藝春秋(平田 裕介)
――現在のスケジュールは、どういった感じでしょう。
中本 妻は、朝から夕方までの講師の仕事が週に3、4回あって。
6時30分くらいに起きて、朝ご飯を食べて、僕が掃除とゴミ出しをして、息子を起こして、登園の準備をして。その間に妻は、息子に食事をさせて、仕事に出る準備をして、一方の僕はリモートで編集局長などと今日の紙面をどうするか打ち合わせしながら、子供の面倒も見ると。で、夫婦で登園させて、妻は仕事に、僕は家に戻って家事の残りをやって、リモートで仕事をします。
で、昼に時差出勤して、会社じゃないとできない仕事をして、残業して、軽く呑んで。その間に妻がお迎えして、ご飯を食べさせて、僕が帰ってきてお風呂に入れると。
夜は23時あたりで寝ますけど、子供が寝付けなかったり、僕が調べ物をするときは1時くらいに寝ます。
――保育園で同年代のお父さんを見掛けたりは。
中本 いやぁ、みんな若いですね。一度、お迎えに行ってショックだったことがあって。息子の帰りの準備をしていると年長の子が近づいていろいろ話しかけてくるんですけど、そこで「なんで、おじいちゃんが来てるの?」とか「なんで、髪の毛ないの?」とか聞かれて。また無邪気に聞いてくるもんだから、かえって傷ついちゃってね(笑)。
父親にできなかった恩返しを子どもに――56歳で父になったからこその意識や視点の変容はありますか?中本 それは日々実感しますね。しゃがんで子供と同じ目線になってみたら「こんなに保育園の園庭って広いのか」「こんなに空が大きいのか」って、「見るものすべてが大きく見えるんだな」とハッとしたりね。 あと、息子が夕方に出てきた月に気づいて「あっ」って指差したのを妻が見て、涙が出そうになったらしいんですって。その純粋さが刺さったというか。で、僕もそれを聞かされて涙が出そうになって(笑)。 あらかわ遊園や花やしきに連れていくと、見るものすべてが新鮮らしくてキョロキョロして、喜び方もすごいんですよね。帰ってきてからも、「また行きたい」と何度も言う。そういう姿を見ると、なんだか自分まで子供に戻ったような感覚に陥りますね。まぁ、これはどの親も同じように感じているでしょうけどね。――「子供に戻った感覚」に加えて、「自分の親もこんな思いで子育てしていたのか」とも思いますよね。中本 自分の親に感謝する気持ちが、やっとこの歳になって生まれますね。僕の親父は、僕が19歳のときに52歳で亡くなったんですけど、頑固でカミナリ親父で怖いイメージしかなくて。 でも、僕が小さかった頃に親子で祭りに行って撮った写真なんかを見ると、怖かったはずの親父がニコニコしながら僕と一緒に写っているんですよ。親父は僕のことを大事にしてたんだろうなって。その恩を返しようにも早くに亡くなってしまったので、親父の代わりに子供に返すしかないなって考えています。どんなことがあっても、長い人生から見れば「たかが、これしきのことで」って感じ――お子さんとの年齢差が56歳って、やはり凄いことですよね。中本 そうですね。これだけ離れちゃってると、逆にギャップが興味になるというか。新鮮に感じすぎちゃって、一緒に子供番組を食い入るように見たりしますね。さっきも話しましたけど、自分も小さな子供になったような感じでいろいろと楽しめるんですよ。――そうしたお話を聞くと、56歳という余裕をもって子育てができていそうですね。中本 慌てない余裕というよりは、くよくよしない余裕はありますね。まだ子供は小さいので、癇癪を起こしたり、ダダをこねたりすることがあって、こっちもさすがに叱らざるをえない場面があるんです。そこではピリピリしますけど、しばらくしたら家族3人で笑い合っている、みたいな。どんなことがあっても、長い人生から見れば「たかが、これしきのことで」って感じですよね。 家で仕事しているときに子供に邪魔されると、やっぱりイライラはしますけど「子育てに比べたら、仕事なんて」となる。これが、もしも20代、30代だったら、そう思えたのかなって。子育ては今後を生きていくうえでの支え――19歳のときにお父様を失くしたけど、どうにかこうにか生きてこられたと本に書かれています。その経験が、今後も続く子育てを続けるうえでのバックボーンや原動力になっているのでは?中本 僕自身はそうだけど、それを息子に押しつけるわけにはいかないし、そんな苦労はさせたくないですね。僕のほうが先に死んでしまうわけなので、そのせいで息子に大変な思いをさせるとしても、ある程度までしっかり育てればがんばってくれるんじゃないか、という願望なんです。だから、息子の自我が目覚めるまではしっかりとサポートしてあげなきゃって。 とにかく、子供を育てるのが今後を生きていくうえでの支えになっていますね。撮影=原田達夫/文藝春秋(平田 裕介)
――56歳で父になったからこその意識や視点の変容はありますか?
中本 それは日々実感しますね。しゃがんで子供と同じ目線になってみたら「こんなに保育園の園庭って広いのか」「こんなに空が大きいのか」って、「見るものすべてが大きく見えるんだな」とハッとしたりね。
あと、息子が夕方に出てきた月に気づいて「あっ」って指差したのを妻が見て、涙が出そうになったらしいんですって。その純粋さが刺さったというか。で、僕もそれを聞かされて涙が出そうになって(笑)。
あらかわ遊園や花やしきに連れていくと、見るものすべてが新鮮らしくてキョロキョロして、喜び方もすごいんですよね。帰ってきてからも、「また行きたい」と何度も言う。そういう姿を見ると、なんだか自分まで子供に戻ったような感覚に陥りますね。まぁ、これはどの親も同じように感じているでしょうけどね。
――「子供に戻った感覚」に加えて、「自分の親もこんな思いで子育てしていたのか」とも思いますよね。
中本 自分の親に感謝する気持ちが、やっとこの歳になって生まれますね。僕の親父は、僕が19歳のときに52歳で亡くなったんですけど、頑固でカミナリ親父で怖いイメージしかなくて。
でも、僕が小さかった頃に親子で祭りに行って撮った写真なんかを見ると、怖かったはずの親父がニコニコしながら僕と一緒に写っているんですよ。親父は僕のことを大事にしてたんだろうなって。その恩を返しようにも早くに亡くなってしまったので、親父の代わりに子供に返すしかないなって考えています。
どんなことがあっても、長い人生から見れば「たかが、これしきのことで」って感じ――お子さんとの年齢差が56歳って、やはり凄いことですよね。中本 そうですね。これだけ離れちゃってると、逆にギャップが興味になるというか。新鮮に感じすぎちゃって、一緒に子供番組を食い入るように見たりしますね。さっきも話しましたけど、自分も小さな子供になったような感じでいろいろと楽しめるんですよ。――そうしたお話を聞くと、56歳という余裕をもって子育てができていそうですね。中本 慌てない余裕というよりは、くよくよしない余裕はありますね。まだ子供は小さいので、癇癪を起こしたり、ダダをこねたりすることがあって、こっちもさすがに叱らざるをえない場面があるんです。そこではピリピリしますけど、しばらくしたら家族3人で笑い合っている、みたいな。どんなことがあっても、長い人生から見れば「たかが、これしきのことで」って感じですよね。 家で仕事しているときに子供に邪魔されると、やっぱりイライラはしますけど「子育てに比べたら、仕事なんて」となる。これが、もしも20代、30代だったら、そう思えたのかなって。子育ては今後を生きていくうえでの支え――19歳のときにお父様を失くしたけど、どうにかこうにか生きてこられたと本に書かれています。その経験が、今後も続く子育てを続けるうえでのバックボーンや原動力になっているのでは?中本 僕自身はそうだけど、それを息子に押しつけるわけにはいかないし、そんな苦労はさせたくないですね。僕のほうが先に死んでしまうわけなので、そのせいで息子に大変な思いをさせるとしても、ある程度までしっかり育てればがんばってくれるんじゃないか、という願望なんです。だから、息子の自我が目覚めるまではしっかりとサポートしてあげなきゃって。 とにかく、子供を育てるのが今後を生きていくうえでの支えになっていますね。撮影=原田達夫/文藝春秋(平田 裕介)
――お子さんとの年齢差が56歳って、やはり凄いことですよね。
中本 そうですね。これだけ離れちゃってると、逆にギャップが興味になるというか。新鮮に感じすぎちゃって、一緒に子供番組を食い入るように見たりしますね。さっきも話しましたけど、自分も小さな子供になったような感じでいろいろと楽しめるんですよ。
――そうしたお話を聞くと、56歳という余裕をもって子育てができていそうですね。
中本 慌てない余裕というよりは、くよくよしない余裕はありますね。まだ子供は小さいので、癇癪を起こしたり、ダダをこねたりすることがあって、こっちもさすがに叱らざるをえない場面があるんです。そこではピリピリしますけど、しばらくしたら家族3人で笑い合っている、みたいな。どんなことがあっても、長い人生から見れば「たかが、これしきのことで」って感じですよね。
家で仕事しているときに子供に邪魔されると、やっぱりイライラはしますけど「子育てに比べたら、仕事なんて」となる。これが、もしも20代、30代だったら、そう思えたのかなって。
子育ては今後を生きていくうえでの支え――19歳のときにお父様を失くしたけど、どうにかこうにか生きてこられたと本に書かれています。その経験が、今後も続く子育てを続けるうえでのバックボーンや原動力になっているのでは?中本 僕自身はそうだけど、それを息子に押しつけるわけにはいかないし、そんな苦労はさせたくないですね。僕のほうが先に死んでしまうわけなので、そのせいで息子に大変な思いをさせるとしても、ある程度までしっかり育てればがんばってくれるんじゃないか、という願望なんです。だから、息子の自我が目覚めるまではしっかりとサポートしてあげなきゃって。 とにかく、子供を育てるのが今後を生きていくうえでの支えになっていますね。撮影=原田達夫/文藝春秋(平田 裕介)
――19歳のときにお父様を失くしたけど、どうにかこうにか生きてこられたと本に書かれています。その経験が、今後も続く子育てを続けるうえでのバックボーンや原動力になっているのでは?
中本 僕自身はそうだけど、それを息子に押しつけるわけにはいかないし、そんな苦労はさせたくないですね。僕のほうが先に死んでしまうわけなので、そのせいで息子に大変な思いをさせるとしても、ある程度までしっかり育てればがんばってくれるんじゃないか、という願望なんです。だから、息子の自我が目覚めるまではしっかりとサポートしてあげなきゃって。
とにかく、子供を育てるのが今後を生きていくうえでの支えになっていますね。
撮影=原田達夫/文藝春秋(平田 裕介)
撮影=原田達夫/文藝春秋(平田 裕介)
(平田 裕介)