面倒を見てくれた親を今度は自分が面倒を見る。“当たり前の恩返し”のように思えるけれど、それはある日、突然やって来るのだ。親が認知症になったら何が待ち受けているのか。変わりゆく姿から目を背けずにいられるのか。認知症の親と暮らす人たちの家を訪ねた。知られざる在宅介護の現場で親に尽くす家族のホンネを聞く。
◆【ケース1】うんちの臭いは丸1日鼻に残っています
田中未樹さん/50歳 職業/配送ドライバー 介護歴/6年3兄弟の三男。家族を持つ兄たちに代わり介護を受け持つ。交際約10年の恋人がいるが、結婚は考えていない
親の認知症は決して他人ごとではない。昨年9月、総務省統計局の発表によれば65歳以上の高齢者人口は3627万人。人口割合では29.1%を占めた。
内閣府の調査では’25年には65歳以上の高齢者のうち5人に1人が認知症になると予想。40~50代では働きながら認知症の親を介護するケースが多く、その負担も大きい。
配送ドライバーの田中未樹さん(50歳)も認知症の母を介護する一人だ。発症のきっかけは自転車事故だった。
「6年前、当時82歳の母はチャリで転んで頭を強打。一時は意識不明になり、高次脳機能障害と診断されました。認知症の診断も出て、退院後は僕と父の二人三脚で介護です」
◆「最初は辛かったけど、もう慣れました」
取材班が家に上がるなり、田中さんは冗談っぽく「母がうんちするときはすぐ避難してください」と何度も言った。
「最初は自分の母親の股を見るのも洗うのも辛かったけど、もう慣れました。でも、うんちの臭いは慣れない。鼻にこびりついて、一日中残ります。ベッドから数歩離れたトイレに移動させる際に床にこぼれたときは本当悲惨ですよ(笑)」
介護の辛苦を話す田中さんだが、その快活さのせいか悲壮感はない。取材中も母に柿を食べさせ「おいしい?」と語りかける。母はうなずき、無表情で平らげた。トイレ介助や寝支度の際も母の体を軽々と抱き上げて手際よくこなす。そんな田中さんは、過去の過ちもあけすけに語った。
「認知症初期の母はすべてに反抗的で、僕もついカッとなって手を上げようとしたこともありました。でもある日、父に籐の枕で叩かれた母が流血しているのを見て、暴力はダメだと我に返りました」
◆飲み仲間にも母のことは言ってます。気持ちが軽くなるんですよ
持病のあった父は昨年8月に死去。ともに介護をする“戦友”を失った辛さは拭えない。
「家に愚痴る相手がいないのは意外ときついです。母はデイサービスから帰るといまだに父の名前を呼んでますよ」
介護の息抜きは、金曜夜に飲み歩くことだ。しかし認知症の親を置いて飲みに出かけて心配ではないのだろうか。
「母は歩けないので徘徊は気にしなくていいんです。僕は配送業なので平日は飲めない代わりに、金曜だけは母が眠ったのを確認してから外出します。飲み仲間にも母の認知症のことは言ってます。話すと気持ちが軽くなるんですよ」
◆恋人との結婚や同棲は考えにくい
そう笑う田中さんのスマホが鳴る。恋人から電話だった。
「10年近い付き合いですが、母のことがあるので、結婚や同棲は考えにくいです。介護を手伝わせるのも悪いですし」
◆【ケース2】母の認知症が恥ずかしく誰にも話せず頼れない
金村 豊さん(仮名)/55歳 職業/データベースエンジニア 介護歴/9年介護の喜びは、母の笑顔を見ること。「認知症患者は一日一回笑わせるといいと聞いたので私も心がけています」

金村さんがお茶を注いでくれたのはプラカップだった。
「コップも食器も母が割ってしまうので使い捨てにしてます。火の元も心配で、ガスコンロをIHに替えました」
話を聞きながら、ふと後ろを振り返ると、襖に大書された「府中に住んでいる」の文字が目に入った。母から何度も弟家族の居場所を聞かれ、思わず書き殴ったそうだ。
◆始まりは「物盗られ妄想」だった
’13年、金村さんの母は83歳で認知症を発症。始まりは「物盗られ妄想」だった。
「『お金がなくなってる!』と訴え、何度も財布や通帳を確かめてました。パーキンソン病の父と一緒に通っていたデイサービスのスタッフからも『様子がおかしい』と言われたので検査を受けたんです」
◆施設に入れたらかわいそうだと思ってしまう
最初は介護費用が不安だったが、’16年に亡くなった父が残したアパートの家賃収入と遺族年金で、週6で通うデイサービスの料金10万円は十分賄えた。しかし特別養護老人ホーム、通称「特養」には入れないという。
「母の感情はしっかり残ってます。他愛ないことで笑い、怒る。そんな母を施設に入れたらかわいそうだと思うんです。離れて暮らす弟は、私が共倒れしないためにも施設に入れるべきだと考えてるでしょうが、私はまだ大丈夫。がんばれるうちはがんばりたい」
◆感情豊かな母をできる限り自宅で見てやりたい
そう語る金村さんだが「すべてを数分後に忘れてしまう母」への虚しさも吐露した。
「いい服着せても、外食に連れ出しても何も覚えてないし、私のことも『アキ』と呼ぶんです。母の妹の名前ですよ。だから過剰にケアしても虚しい。それで必要以上に世話をするのはやめました。自分なりにバランスを取ってるつもりでも、ふと我に返って落ち込むことがあります。『俺の人生これなのか』って。でもまぁ悩んでも仕方ないので」
家全体に金村さんの徒労感が染み渡っているようだった。取材班が家を後にするとき、母は微笑み、「もう帰るんですか」と声をかけてくれた。最後に彼女の感情の温もりを感じ、金村さんの言っていたことが少しわかった気がした。
◆【ケース3】おじいちゃん子の娘に支えられる在宅介護
吉田 愛さん(仮名)/45歳 職業/看護師 介護歴/2年教会に通うクリスチャン。「育児に悩む私を『神は乗り越えられる試練しか与えない』と母が励ましてくれました」
SNSには認知症介護について語るアカウントが少なくない。吉田愛さん(仮名・45歳)も1年前から父の介護の模様をSNSに投稿している。父の変化を記録するために始めたが、愚痴や弱音も書けてストレス発散にもなるそうだ。吉田さんが父と暮らす一戸建てはよく片づいていた。
「食器はすぐ片づけないと父が変なところにしまっちゃうんです。だから洗い物やゴミは溜めないようにしています」
◆言語での意思疎通が困難になる“失語症”に
昔は酒乱だったという父は、すっかり好々爺の雰囲気で終始財布の中を確かめていた。
「父は20年前、60歳のとき脳梗塞で倒れ、言語での意思疎通が困難になる失語症と診断されました。それでお酒もやめ、以前より穏やかになったんです。私がシングルマザーの看護師なので、よく両親が娘の面倒を見てくれました。娘は今もおじいちゃん子です」
◆認知症で癇癪を起こすことが増えた父
7年前に母は他界。2年前から父に認知症の症状が表れた。吉田さんは自宅マンションと実家を往復して様子を見たが、一昨年の末に同居を始めた。

◆自分の時間をつくれず、ストレスで目眩も
吉田さんは父の不機嫌に対応できるようになってきたが、ショートステイでは、他の利用者を叩くことがあるそうだ。トラブルが増え、利用を禁止されるのは、吉田さんが夜勤に出られなくなるため死活問題だ。自分の時間をつくれずストレスで目眩もあり、悩みは尽きない。しかし困ったときは娘が助けてくれる。
「23歳の娘も働き始めたばかりで大変なのに、よく家に帰ってきてくれる。彼女の前向きな性格に助けられますね」
介護に協力的な娘の存在が吉田さんの大きな支えだ。
◆【ケース4】介護をしすぎてしまい、頭の中は母のことばかり
高山邦男さん/63歳 職業/タクシードライバー 介護歴/10年製薬会社や病院勤務を経てタクシードライバーに。「会社勤めに疲れて転職したが介護には都合がよかった」
昨年8月、タクシードライバーの高山邦男さん(63歳)は認知症の母を10年にわたる在宅介護の末に看取った。
「最後の数週間は母が死ぬことが受け入れ難く、延命治療も検討しました。でも結局は自宅で看取った。草木が枯れるような自然な死に方でした」
約15年前から母は「記憶がなくなる」と話していたが、本格的に症状が出たのは10年前。料理好きだった母が米を炊かなくなり、レトルト米と宅配のおかずに頼るようになってしまったのだ。
「最初の頃はボケてしまった母を受け入れられず、昔の母と話したいと思っていました」
◆母を寝かしつけてから、夜中にタクシーを走らせる日々
認知症と診断されてしばらくたち、高山さんは実家に戻った。やがて父はがんで死去。母と二人きりの生活になった。
「施設に預けると進行が早まると聞いたので、介護サービスを利用しながら一緒に生活をしました。母を寝かしつけてから、夜中にタクシーを走らせる日々でしたね」
◆母を第一に考え、コロナ禍を機に休職
しかし高山さんはコロナ禍を機に休職。コロナにかかり、母にうつすことを心配したからだ。無収入になったが父の遺族年金で暮らした。そして母はこの2年で弱っていった。
「認知症が進んだ母はまず歩けなくなりました。やがてトイレや食事も一人では難しくなり、無意味な言葉しか話せなくなった。初夏にはゼリーやアイスクリームくらいしか食べられず、真夏に力尽き、亡くなりましたね」
◆母を亡くした喪失感と向き合う日々
高山さんは歌人でもある。「ポンコツに なつてしまつた 母だけど 笑顔がぼくの こころを救ふ」のように、枯れゆく母を詠んだ短歌も数多い。
「母親中心の生活が長かった証しです。介護をしすぎて、頭の中が母のことばかりになっていたのかな。だから今はまだ、すごく寂しいです」
心の整理をつけるのは難しい。それでも淡々と前に進む彼らの笑顔は強くてやさしかった。
取材・文/週刊SPA!編集部