年賀状発行枚数のピークは2003年だったそうです。今ではメールやSNSなどですます人も増え、年賀状の数は年々減る一方だといいます。しかしなぜ日本人は年賀状を送るようになったのでしょう。TBSのアーカイブには「意外なスーパースター」が年賀状書きに追われている姿がありました。(アーカイブマネジメント部 疋田智)【写真を見る】今年は年賀状、書きますか? それとも? …日本人が年賀状を送るようになったわけ【TBSアーカイブ秘録】■きっかけは「戦後復興と消息の確認」年賀状自体は、古くは平安時代からあったというのが定説になっています。もちろん年賀を手紙にしたためるのは一部の貴族。遠方の親戚や知り合いに雅(みやび)な挨拶方法として送っていたといいます。現在のようなスタイルになり「特別なはがき」という存在になったのは、林正治さん(当時42歳)という人抜きには語れません。林さんは郵便局の人ではありません。大阪の心斎橋で洋品雑貨会社を営む実業家(なおかつ水彩画家)でした。その彼が当時お役所だった郵政省に提案したのがお年玉付き年賀ハガキです。

戦後間もない昭和24(1949)年、林さんは「年賀状が戦前のように復活すれば、お互いの消息もわかり、うちひしがれた気分から立ち直るきっかけともなる」と考え、お年玉のクジつきというアイデアを思いつきます。郵政省は紆余曲折の末、これを採用しました。(日本郵便グループ『JPcast』による)当時のポスターを見ると、特等の「高級ミシン」を筆頭に「純毛洋服生地」「学童用本革グローブ」「学童用洋傘」「葉書入れ手箱」など、当時の庶民の需要がみてとれますね。林さんのアイディアが、戦後復興の思いに燃える日本人の気分にフィットしたのでしょう。お年玉つき年賀ハガキは大ヒット、戦後の文化として認知されていきます。しかし林さんのアイディアだけではありません。郵政省も郵政省で、全国キャラバンでキャンペーンを繰り広げたのです。■郵政省の年賀状キャンペーンTBSのアーカイブには1949年の名古屋の風景が残っていました。彼女たちはお年玉つき年賀ハガキを宣伝するために組織された「ミスお年玉」。道行く人に「年賀状を出しましょう」とビラを配ります。戦争が終わってまだ4年。明るい洋装の娘さんたちはさぞやまぶしかったことでしょう。こうした努力もあって、年賀状の扱いは倍々ゲームで伸びていきました。■スーパースターが年賀状に囲まれてお年玉つき年賀ハガキ発売の翌々年、元日早々年賀ハガキに埋もれているスーパースターがいました。「野球の神様」「赤バットの川上」こと読売巨人軍・故川上哲治さんです。読売ジャイアンツの常勝監督にして首位打者。これは川上哲治さんがプライベートの姿を見せた非常に珍しいフィルムです。妻子に囲まれて正月を送る川上さんのもとに、次々と年賀状が届きます。川上さんが手に持っているのも紐で括られた年賀状の束です。その数ぜんぶで1万50通。1枚1枚にさらさらと返事を書く姿も映っていますが、さすがの川上さんもギブアップだったことでしょう。 ■プリントゴッコが年賀状を変えたその後、高度成長も終わり、石油ショックも乗り越え、日本が安定成長にかかる頃「日本の年賀状史」に残る一大発明品がリリースされます。それが理想科学工業の「プリントゴッコ」でした。年々増える年賀状の枚数を一気にかたづける家庭内印刷機、「プリントゴッコ」は、1977年に発売されると、爆発的なヒットを記録します。ピカッと光るインスタント製版と、押すだけでできる簡単印刷がキモでした。タモリさんや所ジョージさんなどが出演した「プリントゴッコでねんがじょー♪」のCMを憶えている方も多いのではないでしょうか。■やがて年賀状は冬の時代にしかし、インターネットの普及にともない、年始の挨拶は「メール」や「SNS」に急速に移行していきます。年賀ハガキの発行枚数も2003年をピークに年々減少し、今年はピークの半分以下の16億4000万枚まで減ってしまいました。プリントゴッコも2012年に消耗品の発売を終え、完全撤退に。さて、今年もあとわずか、年賀状はすでに書き終えましたか? それともこれから? またはネットで済ませるか…。ちなみに「プリントゴッコ」発売元の理想科学は、現在も「オフィス用・世界最速のカラープリンター」をリリースするなど、デジタルプリンターの世界企業として意気軒昂です。
年賀状発行枚数のピークは2003年だったそうです。今ではメールやSNSなどですます人も増え、年賀状の数は年々減る一方だといいます。しかしなぜ日本人は年賀状を送るようになったのでしょう。TBSのアーカイブには「意外なスーパースター」が年賀状書きに追われている姿がありました。(アーカイブマネジメント部 疋田智)
【写真を見る】今年は年賀状、書きますか? それとも? …日本人が年賀状を送るようになったわけ【TBSアーカイブ秘録】■きっかけは「戦後復興と消息の確認」年賀状自体は、古くは平安時代からあったというのが定説になっています。もちろん年賀を手紙にしたためるのは一部の貴族。遠方の親戚や知り合いに雅(みやび)な挨拶方法として送っていたといいます。現在のようなスタイルになり「特別なはがき」という存在になったのは、林正治さん(当時42歳)という人抜きには語れません。林さんは郵便局の人ではありません。大阪の心斎橋で洋品雑貨会社を営む実業家(なおかつ水彩画家)でした。その彼が当時お役所だった郵政省に提案したのがお年玉付き年賀ハガキです。

戦後間もない昭和24(1949)年、林さんは「年賀状が戦前のように復活すれば、お互いの消息もわかり、うちひしがれた気分から立ち直るきっかけともなる」と考え、お年玉のクジつきというアイデアを思いつきます。郵政省は紆余曲折の末、これを採用しました。(日本郵便グループ『JPcast』による)当時のポスターを見ると、特等の「高級ミシン」を筆頭に「純毛洋服生地」「学童用本革グローブ」「学童用洋傘」「葉書入れ手箱」など、当時の庶民の需要がみてとれますね。林さんのアイディアが、戦後復興の思いに燃える日本人の気分にフィットしたのでしょう。お年玉つき年賀ハガキは大ヒット、戦後の文化として認知されていきます。しかし林さんのアイディアだけではありません。郵政省も郵政省で、全国キャラバンでキャンペーンを繰り広げたのです。■郵政省の年賀状キャンペーンTBSのアーカイブには1949年の名古屋の風景が残っていました。彼女たちはお年玉つき年賀ハガキを宣伝するために組織された「ミスお年玉」。道行く人に「年賀状を出しましょう」とビラを配ります。戦争が終わってまだ4年。明るい洋装の娘さんたちはさぞやまぶしかったことでしょう。こうした努力もあって、年賀状の扱いは倍々ゲームで伸びていきました。■スーパースターが年賀状に囲まれてお年玉つき年賀ハガキ発売の翌々年、元日早々年賀ハガキに埋もれているスーパースターがいました。「野球の神様」「赤バットの川上」こと読売巨人軍・故川上哲治さんです。読売ジャイアンツの常勝監督にして首位打者。これは川上哲治さんがプライベートの姿を見せた非常に珍しいフィルムです。妻子に囲まれて正月を送る川上さんのもとに、次々と年賀状が届きます。川上さんが手に持っているのも紐で括られた年賀状の束です。その数ぜんぶで1万50通。1枚1枚にさらさらと返事を書く姿も映っていますが、さすがの川上さんもギブアップだったことでしょう。 ■プリントゴッコが年賀状を変えたその後、高度成長も終わり、石油ショックも乗り越え、日本が安定成長にかかる頃「日本の年賀状史」に残る一大発明品がリリースされます。それが理想科学工業の「プリントゴッコ」でした。年々増える年賀状の枚数を一気にかたづける家庭内印刷機、「プリントゴッコ」は、1977年に発売されると、爆発的なヒットを記録します。ピカッと光るインスタント製版と、押すだけでできる簡単印刷がキモでした。タモリさんや所ジョージさんなどが出演した「プリントゴッコでねんがじょー♪」のCMを憶えている方も多いのではないでしょうか。■やがて年賀状は冬の時代にしかし、インターネットの普及にともない、年始の挨拶は「メール」や「SNS」に急速に移行していきます。年賀ハガキの発行枚数も2003年をピークに年々減少し、今年はピークの半分以下の16億4000万枚まで減ってしまいました。プリントゴッコも2012年に消耗品の発売を終え、完全撤退に。さて、今年もあとわずか、年賀状はすでに書き終えましたか? それともこれから? またはネットで済ませるか…。ちなみに「プリントゴッコ」発売元の理想科学は、現在も「オフィス用・世界最速のカラープリンター」をリリースするなど、デジタルプリンターの世界企業として意気軒昂です。
年賀状自体は、古くは平安時代からあったというのが定説になっています。もちろん年賀を手紙にしたためるのは一部の貴族。遠方の親戚や知り合いに雅(みやび)な挨拶方法として送っていたといいます。現在のようなスタイルになり「特別なはがき」という存在になったのは、林正治さん(当時42歳)という人抜きには語れません。林さんは郵便局の人ではありません。大阪の心斎橋で洋品雑貨会社を営む実業家(なおかつ水彩画家)でした。その彼が当時お役所だった郵政省に提案したのがお年玉付き年賀ハガキです。
戦後間もない昭和24(1949)年、林さんは「年賀状が戦前のように復活すれば、お互いの消息もわかり、うちひしがれた気分から立ち直るきっかけともなる」と考え、お年玉のクジつきというアイデアを思いつきます。郵政省は紆余曲折の末、これを採用しました。(日本郵便グループ『JPcast』による)当時のポスターを見ると、特等の「高級ミシン」を筆頭に「純毛洋服生地」「学童用本革グローブ」「学童用洋傘」「葉書入れ手箱」など、当時の庶民の需要がみてとれますね。
林さんのアイディアが、戦後復興の思いに燃える日本人の気分にフィットしたのでしょう。お年玉つき年賀ハガキは大ヒット、戦後の文化として認知されていきます。しかし林さんのアイディアだけではありません。郵政省も郵政省で、全国キャラバンでキャンペーンを繰り広げたのです。
TBSのアーカイブには1949年の名古屋の風景が残っていました。彼女たちはお年玉つき年賀ハガキを宣伝するために組織された「ミスお年玉」。道行く人に「年賀状を出しましょう」とビラを配ります。戦争が終わってまだ4年。明るい洋装の娘さんたちはさぞやまぶしかったことでしょう。こうした努力もあって、年賀状の扱いは倍々ゲームで伸びていきました。
お年玉つき年賀ハガキ発売の翌々年、元日早々年賀ハガキに埋もれているスーパースターがいました。「野球の神様」「赤バットの川上」こと読売巨人軍・故川上哲治さんです。
読売ジャイアンツの常勝監督にして首位打者。これは川上哲治さんがプライベートの姿を見せた非常に珍しいフィルムです。妻子に囲まれて正月を送る川上さんのもとに、次々と年賀状が届きます。川上さんが手に持っているのも紐で括られた年賀状の束です。その数ぜんぶで1万50通。1枚1枚にさらさらと返事を書く姿も映っていますが、さすがの川上さんもギブアップだったことでしょう。
その後、高度成長も終わり、石油ショックも乗り越え、日本が安定成長にかかる頃「日本の年賀状史」に残る一大発明品がリリースされます。それが理想科学工業の「プリントゴッコ」でした。
年々増える年賀状の枚数を一気にかたづける家庭内印刷機、「プリントゴッコ」は、1977年に発売されると、爆発的なヒットを記録します。ピカッと光るインスタント製版と、押すだけでできる簡単印刷がキモでした。タモリさんや所ジョージさんなどが出演した「プリントゴッコでねんがじょー♪」のCMを憶えている方も多いのではないでしょうか。
しかし、インターネットの普及にともない、年始の挨拶は「メール」や「SNS」に急速に移行していきます。年賀ハガキの発行枚数も2003年をピークに年々減少し、今年はピークの半分以下の16億4000万枚まで減ってしまいました。プリントゴッコも2012年に消耗品の発売を終え、完全撤退に。
さて、今年もあとわずか、年賀状はすでに書き終えましたか? それともこれから? またはネットで済ませるか…。