《ルネを殺したのは、食べる為、彼女がとてもおいしそうだったから、食べたくて殺したのです》
【画像】「何でやの、何で分かってくれんのよ…」“やせっぽちの少年”佐川氏が“殺人鬼”に変貌したワケ これは、世界を震撼させた“ある殺人鬼”が書いた手紙の一節だ。この手紙は「週刊文春」(1983年4月28日号)に掲載された。 手紙の差出人は、1981年にフランス・パリでオランダ人留学生の女性をカービン銃で射殺し、その遺体を遺棄したとして逮捕された日本人留学生の佐川一政氏(当時32)。この事件の詳細が明らかになると、世界は震撼した。

佐川氏は女性の遺体を屍姦したのち、一部を生のまま、あるいはフライパンで調理して食べていたのだ。逮捕された佐川氏 AFLO 佐川氏は現地警察の取り調べに対し犯行を認めたが、精神鑑定で「心神喪失状態」とされ不起訴に。日本へと送還された後も刑事責任を追及されることなく、手記『霧の中』を皮切りに作家へと転身した。 しかし2013年には脳梗塞の疑いで都内の病院に入院し、2015年には寝たきりの状態となった。そして今年12月1日、肺炎のため都内の病院で先月24日に死去していたことが遺族らから公表された。 病床の佐川氏を長年介護してきたのが、実弟の純氏。事件から38年――。純氏は介護の最中にあった2019年に、兄に関するエピソードなどを綴った『カニバの弟』(東京キララ社)を上梓している。 佐川氏とは仲の良い兄弟だったという純氏。しかし純氏には“兄の異常性”が見えていたという。本書から一部を抜粋して紹介する。◆◆◆ 幼い頃の8ミリフィルムが残っている。 映画『カニバ』をご覧になった方はお分かりのように、僕たちは仲の良い兄弟だった。兄が“うしさん”僕が“とらさん”に成りきって転げ回るふたり。兄は常に弟をかばい、たくましい兄でいたかった。僕は弟としては何にも考えずにやってきた。 兄というものは、あるいは姉というものは、という意識を、みんな抱えて生まれてくるのだろうか。それとも環境にそう育てられるのだろうか。それは分からないが、兄貴は兄らしく振る舞おうとしているな、と。小さい頃は感じなかったが、大人になってから、そんな風に考えるようになった。 兄が自分の体が同世代と比べて劣ることを意識、無意識に関わらず考えるようになったのは自明の理だ。しかし、思春期を迎えた兄の劣等感はいかばかりだったか、と思う。僕はその辺りに関して、あまり意識していなかった。それに兄弟間にライバル心も芽生えてくる頃だ。その辺の意識が複雑に絡み合ってくると、つまらないことがきっかけでケンカをする。そうなると、体の中にくすぶっている感情がむき出しになる。男同士のいがみ合いは、醜い。包丁を持って追い回されたきっかけは…… 年を経て、僕たち兄弟に様々なトラブルが発生するようになる。僕はどちらかと言えば感情を表に出さないタイプだが、その一方兄貴は思ったことをすぐ口に出す性格だ。大学生の頃のある日、両親が遠方に行っていて留守にしていた。僕は洗濯機を回していた。洗濯が終わってカゴに洗濯物を移していたら、そこに兄貴がやってきた。すると、おもむろに次の汚れ物を洗濯機の中に投入して洗濯を開始したのだ。「今、洗濯が終わったばかりなんだからさあ」 僕がたしなめるように言ったのが、兄貴の逆鱗に触れた。包丁を持って僕を追っかけ回したのだ。僕は「殺される!」と思い、必死で自分の部屋に逃げ込み鍵をかけた。彼は怒鳴りながらドアを叩いていた。しばらくして静かになったと思ったら、リビングの方から「ガン!ガン!ガン!」とただ事ではない音が響いてきた。「しまった!」と咄嗟に思った。リビングにはチェロをおいてきたのだ。兄貴はチェロの表板に向かってありったけの力で鉄製の譜面台を振り下ろしていた。翌日、恐る恐るチェロを見ると、表板には亀裂が入り大きく損傷していた。自由が丘にある楽器修理専門店に持っていったが「修復不可能です」と言われてしまった。まあ、チェロが僕の身代わりになってくれた、と思えば腹も立たないか。「なんでもっと兄ちゃんを怒らないの?」 チェロと兄貴に関するエピソードをもうひとつ。ある日の夕方、兄から電話があった。「純ちゃんのことをよく知ってるZさんが、ほら何度か食べにいった魚が泳いでいるお店あるよね、あそこに6時半頃に来るらしいので、純ちゃんも行っておいてね」 雨が降りしきる中、時間通りにその店に行くが、待てど暮らせどZさんは来ない。1時間待ったが来なかった。雨は降り続いていた。帰宅しドアを開けると……僕が大事にしていたチェロと、カーク・レイナートのリトグラフ2枚がなくなっているではないか。 そのチェロは大量生産ではなく、手作りの楽器だった。まず面持ちがいい。美しい。そして当然であるが音が魅力的だ。購入当時の値段は100万円ちょうどだった。ずっとアマチュアオーケストラの演奏会の本番で弾いてきた。だから楽器に対する愛情も強い。恋人みたいなものだ。僕はすぐに警察に電話をした。ところが、犯人は兄貴だった。その頃、兄貴はお金に困っていたようだ。 母親からは「なんでもっと兄ちゃんを怒らないの?」と言われたが、僕は仕方ないと思っている。その後もいろいろとあったけれど、そういう人なんだからと諦めている。だからといって兄貴のことを嫌いにはなれない、今は。 兄貴は僕のことを“タヌキ”に違いない、としばしば言うことがあった。彼の中には常に僕に対するやっかみがあるのだ。まず、中学受験で僕は慶應の志木高校に、一方兄貴は地元の県立鎌倉高校にそれぞれ入学した。その時点で彼は僕に対する劣等意識を持ち始めた。弟は寮生活になんとか耐えられるが、体の弱い兄貴は無理だと親は判断したようだ。あらゆる手を尽くせば(裏口入学?)志木高校に入れることはできたらしいが、その選択を親はしなかった。 兄貴は神奈川県立鎌倉高校に入学したものの公立の、受験一辺倒の学校の体質に馴染めなかったという。体調も思わしくなく、度々自家用車で学校へ送ってもらっていた。今でこそ車で学校に送り迎えする親はいるだろうが、当時は周りから稀有な存在として見られてバッシングを受けていた。兄弟に共通していた“コンプレックス” その後、兄は大学へと進学することになる。その頃できたばかりの和光大学で、その一期生となる。時を同じく、弟は慶應大学の文学部に入学する。 僕と違って兄貴は語学に関して大変な努力家だった。大学だけでなく、フランス語の会話を極めたいと、御茶ノ水にあるアテネ・フランセに通っていた。彼はこれまで自分の体のことを揶揄する大人たちへの反発心から、文学や語学などの能力を身につけようと努力したのだった。兄貴は和光大学を卒業後、まだ勉強がし足りないということで関西学院大学大学院へ行く。その後がパリ留学だ。 僕たち兄弟はコンプレックスの塊だ。僕も前腕に全然筋肉がつかないというコンプレックスをずっと抱えたまま今に至る。母に「お父ちゃんのどこを好きになったの?」と聞いたときに、「腕の筋肉ががっちりしているのがよかった」と言っていたし、やっぱり世の女性は男性の筋肉が好きなんだろう。 この劣等感の話は兄貴の話と対になっていて、兄貴はああいう身体だから、非常にそういう劣等感を感じていて、あの事件に繋がってしまった。そして僕にもそんな劣等感が募っていた。でも僕の場合は兄貴みたいにはならなかった。 やっぱり、どんな性癖を持っていても人を殺めちゃいけない。ただ、兄貴みたいに「食べたい」という欲望を達成するためには殺すしかないのか? いや、そうではないと思う。なにも殺さなくてもいいじゃないか。それを今さら兄貴に言ったところでなにも始まらないけど。でも、殺さずに食べる方法はあったんじゃないかと、未だに思う。性的に歪んでいるのはふたりとも同じだとしても、兄貴と僕は違う。人殺しは絶対にいけない。『まんがサガワさん』のあの絵も僕は大嫌いだ。復刊するそうだが、遺族の心境を考えると堪らない。なんであんなものをわざわざ出すのか。たぶん根本敬さんも応援してくれてたんでしょうけど。喧嘩の翌日には「謝り状」が送られてきた パリ大学の修士課程まで終えた後に帰国して、どこかに就職すればいいものを、再びパリの大学に行ってしまった。それが間違いの元だった。フランスに渡ってから、兄貴の周りにはパリ大学の仲間が自然に集まってきていた。あの事件さえなければ、フランス人の友達に囲まれて楽しい人生を謳歌したに違いない。勿体ないことをしたものだ。 兄が起こした事件の後、しばらく経つとマスコミの執拗な取材も徐々になくなり、そのうち両親が亡くなり、今は兄弟ふたりだけになってしまった。 兄貴を介護するようになる前までは喧嘩も良くした。何か虫の居所が悪くなると、彼は僕を責めた。原因がまったく分からないのだ。そして翌日になると、ファックスで“謝り状”を送ってくるのだった。やはり僕に対するやっかみが、終わってなかったのだ。 ところが、病気になり弱い立場になると、流石に僕に対する矛を収めたようだった。母は兄に対して十二分の愛情を注いでいたのだが、兄貴がその想いを裏切るようなことをしていた。「何でやの、おかあちゃんがこれだけいっちゃんのことを思っているのに、何で分かってくれんのよ」 そう言って母はよく嘆いていた。僕が喘息のときに診てもらっていた心療内科の医師から「今、お兄さんの矛先はご両親に向いてるけど、万が一ご両親が亡くなったら、それがあなたに向かうから、くれぐれも注意していた方がいい」と言われたことがあった。まあ、それも兄自身が脳梗塞や糖尿病になって、さらに誤嚥性肺炎で入院した今、それどころではなくなった。 ある日、兄貴が病室で一言「小さい頃は、弟の純ちゃんを守ってあげたかったんだ 」と僕に言った。「ウソやって言って、ねぇ」女子留学生を殺害して食べた猟奇的殺人犯の家族が背負った“十字架”《被害妄想、現実逃避する母、弟の恋愛はことごとく破談…》 へ続く(佐川 純/Webオリジナル(特集班))
これは、世界を震撼させた“ある殺人鬼”が書いた手紙の一節だ。この手紙は「週刊文春」(1983年4月28日号)に掲載された。
手紙の差出人は、1981年にフランス・パリでオランダ人留学生の女性をカービン銃で射殺し、その遺体を遺棄したとして逮捕された日本人留学生の佐川一政氏(当時32)。この事件の詳細が明らかになると、世界は震撼した。
佐川氏は女性の遺体を屍姦したのち、一部を生のまま、あるいはフライパンで調理して食べていたのだ。
逮捕された佐川氏 AFLO
佐川氏は現地警察の取り調べに対し犯行を認めたが、精神鑑定で「心神喪失状態」とされ不起訴に。日本へと送還された後も刑事責任を追及されることなく、手記『霧の中』を皮切りに作家へと転身した。
しかし2013年には脳梗塞の疑いで都内の病院に入院し、2015年には寝たきりの状態となった。そして今年12月1日、肺炎のため都内の病院で先月24日に死去していたことが遺族らから公表された。
病床の佐川氏を長年介護してきたのが、実弟の純氏。事件から38年――。純氏は介護の最中にあった2019年に、兄に関するエピソードなどを綴った『カニバの弟』(東京キララ社)を上梓している。
佐川氏とは仲の良い兄弟だったという純氏。しかし純氏には“兄の異常性”が見えていたという。本書から一部を抜粋して紹介する。
◆◆◆
幼い頃の8ミリフィルムが残っている。
映画『カニバ』をご覧になった方はお分かりのように、僕たちは仲の良い兄弟だった。兄が“うしさん”僕が“とらさん”に成りきって転げ回るふたり。兄は常に弟をかばい、たくましい兄でいたかった。僕は弟としては何にも考えずにやってきた。
兄というものは、あるいは姉というものは、という意識を、みんな抱えて生まれてくるのだろうか。それとも環境にそう育てられるのだろうか。それは分からないが、兄貴は兄らしく振る舞おうとしているな、と。小さい頃は感じなかったが、大人になってから、そんな風に考えるようになった。 兄が自分の体が同世代と比べて劣ることを意識、無意識に関わらず考えるようになったのは自明の理だ。しかし、思春期を迎えた兄の劣等感はいかばかりだったか、と思う。僕はその辺りに関して、あまり意識していなかった。それに兄弟間にライバル心も芽生えてくる頃だ。その辺の意識が複雑に絡み合ってくると、つまらないことがきっかけでケンカをする。そうなると、体の中にくすぶっている感情がむき出しになる。男同士のいがみ合いは、醜い。包丁を持って追い回されたきっかけは…… 年を経て、僕たち兄弟に様々なトラブルが発生するようになる。僕はどちらかと言えば感情を表に出さないタイプだが、その一方兄貴は思ったことをすぐ口に出す性格だ。大学生の頃のある日、両親が遠方に行っていて留守にしていた。僕は洗濯機を回していた。洗濯が終わってカゴに洗濯物を移していたら、そこに兄貴がやってきた。すると、おもむろに次の汚れ物を洗濯機の中に投入して洗濯を開始したのだ。「今、洗濯が終わったばかりなんだからさあ」 僕がたしなめるように言ったのが、兄貴の逆鱗に触れた。包丁を持って僕を追っかけ回したのだ。僕は「殺される!」と思い、必死で自分の部屋に逃げ込み鍵をかけた。彼は怒鳴りながらドアを叩いていた。しばらくして静かになったと思ったら、リビングの方から「ガン!ガン!ガン!」とただ事ではない音が響いてきた。「しまった!」と咄嗟に思った。リビングにはチェロをおいてきたのだ。兄貴はチェロの表板に向かってありったけの力で鉄製の譜面台を振り下ろしていた。翌日、恐る恐るチェロを見ると、表板には亀裂が入り大きく損傷していた。自由が丘にある楽器修理専門店に持っていったが「修復不可能です」と言われてしまった。まあ、チェロが僕の身代わりになってくれた、と思えば腹も立たないか。「なんでもっと兄ちゃんを怒らないの?」 チェロと兄貴に関するエピソードをもうひとつ。ある日の夕方、兄から電話があった。「純ちゃんのことをよく知ってるZさんが、ほら何度か食べにいった魚が泳いでいるお店あるよね、あそこに6時半頃に来るらしいので、純ちゃんも行っておいてね」 雨が降りしきる中、時間通りにその店に行くが、待てど暮らせどZさんは来ない。1時間待ったが来なかった。雨は降り続いていた。帰宅しドアを開けると……僕が大事にしていたチェロと、カーク・レイナートのリトグラフ2枚がなくなっているではないか。 そのチェロは大量生産ではなく、手作りの楽器だった。まず面持ちがいい。美しい。そして当然であるが音が魅力的だ。購入当時の値段は100万円ちょうどだった。ずっとアマチュアオーケストラの演奏会の本番で弾いてきた。だから楽器に対する愛情も強い。恋人みたいなものだ。僕はすぐに警察に電話をした。ところが、犯人は兄貴だった。その頃、兄貴はお金に困っていたようだ。 母親からは「なんでもっと兄ちゃんを怒らないの?」と言われたが、僕は仕方ないと思っている。その後もいろいろとあったけれど、そういう人なんだからと諦めている。だからといって兄貴のことを嫌いにはなれない、今は。 兄貴は僕のことを“タヌキ”に違いない、としばしば言うことがあった。彼の中には常に僕に対するやっかみがあるのだ。まず、中学受験で僕は慶應の志木高校に、一方兄貴は地元の県立鎌倉高校にそれぞれ入学した。その時点で彼は僕に対する劣等意識を持ち始めた。弟は寮生活になんとか耐えられるが、体の弱い兄貴は無理だと親は判断したようだ。あらゆる手を尽くせば(裏口入学?)志木高校に入れることはできたらしいが、その選択を親はしなかった。 兄貴は神奈川県立鎌倉高校に入学したものの公立の、受験一辺倒の学校の体質に馴染めなかったという。体調も思わしくなく、度々自家用車で学校へ送ってもらっていた。今でこそ車で学校に送り迎えする親はいるだろうが、当時は周りから稀有な存在として見られてバッシングを受けていた。兄弟に共通していた“コンプレックス” その後、兄は大学へと進学することになる。その頃できたばかりの和光大学で、その一期生となる。時を同じく、弟は慶應大学の文学部に入学する。 僕と違って兄貴は語学に関して大変な努力家だった。大学だけでなく、フランス語の会話を極めたいと、御茶ノ水にあるアテネ・フランセに通っていた。彼はこれまで自分の体のことを揶揄する大人たちへの反発心から、文学や語学などの能力を身につけようと努力したのだった。兄貴は和光大学を卒業後、まだ勉強がし足りないということで関西学院大学大学院へ行く。その後がパリ留学だ。 僕たち兄弟はコンプレックスの塊だ。僕も前腕に全然筋肉がつかないというコンプレックスをずっと抱えたまま今に至る。母に「お父ちゃんのどこを好きになったの?」と聞いたときに、「腕の筋肉ががっちりしているのがよかった」と言っていたし、やっぱり世の女性は男性の筋肉が好きなんだろう。 この劣等感の話は兄貴の話と対になっていて、兄貴はああいう身体だから、非常にそういう劣等感を感じていて、あの事件に繋がってしまった。そして僕にもそんな劣等感が募っていた。でも僕の場合は兄貴みたいにはならなかった。 やっぱり、どんな性癖を持っていても人を殺めちゃいけない。ただ、兄貴みたいに「食べたい」という欲望を達成するためには殺すしかないのか? いや、そうではないと思う。なにも殺さなくてもいいじゃないか。それを今さら兄貴に言ったところでなにも始まらないけど。でも、殺さずに食べる方法はあったんじゃないかと、未だに思う。性的に歪んでいるのはふたりとも同じだとしても、兄貴と僕は違う。人殺しは絶対にいけない。『まんがサガワさん』のあの絵も僕は大嫌いだ。復刊するそうだが、遺族の心境を考えると堪らない。なんであんなものをわざわざ出すのか。たぶん根本敬さんも応援してくれてたんでしょうけど。喧嘩の翌日には「謝り状」が送られてきた パリ大学の修士課程まで終えた後に帰国して、どこかに就職すればいいものを、再びパリの大学に行ってしまった。それが間違いの元だった。フランスに渡ってから、兄貴の周りにはパリ大学の仲間が自然に集まってきていた。あの事件さえなければ、フランス人の友達に囲まれて楽しい人生を謳歌したに違いない。勿体ないことをしたものだ。 兄が起こした事件の後、しばらく経つとマスコミの執拗な取材も徐々になくなり、そのうち両親が亡くなり、今は兄弟ふたりだけになってしまった。 兄貴を介護するようになる前までは喧嘩も良くした。何か虫の居所が悪くなると、彼は僕を責めた。原因がまったく分からないのだ。そして翌日になると、ファックスで“謝り状”を送ってくるのだった。やはり僕に対するやっかみが、終わってなかったのだ。 ところが、病気になり弱い立場になると、流石に僕に対する矛を収めたようだった。母は兄に対して十二分の愛情を注いでいたのだが、兄貴がその想いを裏切るようなことをしていた。「何でやの、おかあちゃんがこれだけいっちゃんのことを思っているのに、何で分かってくれんのよ」 そう言って母はよく嘆いていた。僕が喘息のときに診てもらっていた心療内科の医師から「今、お兄さんの矛先はご両親に向いてるけど、万が一ご両親が亡くなったら、それがあなたに向かうから、くれぐれも注意していた方がいい」と言われたことがあった。まあ、それも兄自身が脳梗塞や糖尿病になって、さらに誤嚥性肺炎で入院した今、それどころではなくなった。 ある日、兄貴が病室で一言「小さい頃は、弟の純ちゃんを守ってあげたかったんだ 」と僕に言った。「ウソやって言って、ねぇ」女子留学生を殺害して食べた猟奇的殺人犯の家族が背負った“十字架”《被害妄想、現実逃避する母、弟の恋愛はことごとく破談…》 へ続く(佐川 純/Webオリジナル(特集班))
兄というものは、あるいは姉というものは、という意識を、みんな抱えて生まれてくるのだろうか。それとも環境にそう育てられるのだろうか。それは分からないが、兄貴は兄らしく振る舞おうとしているな、と。小さい頃は感じなかったが、大人になってから、そんな風に考えるようになった。
兄が自分の体が同世代と比べて劣ることを意識、無意識に関わらず考えるようになったのは自明の理だ。しかし、思春期を迎えた兄の劣等感はいかばかりだったか、と思う。僕はその辺りに関して、あまり意識していなかった。それに兄弟間にライバル心も芽生えてくる頃だ。その辺の意識が複雑に絡み合ってくると、つまらないことがきっかけでケンカをする。そうなると、体の中にくすぶっている感情がむき出しになる。男同士のいがみ合いは、醜い。
年を経て、僕たち兄弟に様々なトラブルが発生するようになる。僕はどちらかと言えば感情を表に出さないタイプだが、その一方兄貴は思ったことをすぐ口に出す性格だ。大学生の頃のある日、両親が遠方に行っていて留守にしていた。僕は洗濯機を回していた。洗濯が終わってカゴに洗濯物を移していたら、そこに兄貴がやってきた。すると、おもむろに次の汚れ物を洗濯機の中に投入して洗濯を開始したのだ。
「今、洗濯が終わったばかりなんだからさあ」
僕がたしなめるように言ったのが、兄貴の逆鱗に触れた。包丁を持って僕を追っかけ回したのだ。僕は「殺される!」と思い、必死で自分の部屋に逃げ込み鍵をかけた。彼は怒鳴りながらドアを叩いていた。しばらくして静かになったと思ったら、リビングの方から「ガン!ガン!ガン!」とただ事ではない音が響いてきた。
「しまった!」と咄嗟に思った。リビングにはチェロをおいてきたのだ。兄貴はチェロの表板に向かってありったけの力で鉄製の譜面台を振り下ろしていた。翌日、恐る恐るチェロを見ると、表板には亀裂が入り大きく損傷していた。自由が丘にある楽器修理専門店に持っていったが「修復不可能です」と言われてしまった。まあ、チェロが僕の身代わりになってくれた、と思えば腹も立たないか。「なんでもっと兄ちゃんを怒らないの?」 チェロと兄貴に関するエピソードをもうひとつ。ある日の夕方、兄から電話があった。「純ちゃんのことをよく知ってるZさんが、ほら何度か食べにいった魚が泳いでいるお店あるよね、あそこに6時半頃に来るらしいので、純ちゃんも行っておいてね」 雨が降りしきる中、時間通りにその店に行くが、待てど暮らせどZさんは来ない。1時間待ったが来なかった。雨は降り続いていた。帰宅しドアを開けると……僕が大事にしていたチェロと、カーク・レイナートのリトグラフ2枚がなくなっているではないか。 そのチェロは大量生産ではなく、手作りの楽器だった。まず面持ちがいい。美しい。そして当然であるが音が魅力的だ。購入当時の値段は100万円ちょうどだった。ずっとアマチュアオーケストラの演奏会の本番で弾いてきた。だから楽器に対する愛情も強い。恋人みたいなものだ。僕はすぐに警察に電話をした。ところが、犯人は兄貴だった。その頃、兄貴はお金に困っていたようだ。 母親からは「なんでもっと兄ちゃんを怒らないの?」と言われたが、僕は仕方ないと思っている。その後もいろいろとあったけれど、そういう人なんだからと諦めている。だからといって兄貴のことを嫌いにはなれない、今は。 兄貴は僕のことを“タヌキ”に違いない、としばしば言うことがあった。彼の中には常に僕に対するやっかみがあるのだ。まず、中学受験で僕は慶應の志木高校に、一方兄貴は地元の県立鎌倉高校にそれぞれ入学した。その時点で彼は僕に対する劣等意識を持ち始めた。弟は寮生活になんとか耐えられるが、体の弱い兄貴は無理だと親は判断したようだ。あらゆる手を尽くせば(裏口入学?)志木高校に入れることはできたらしいが、その選択を親はしなかった。 兄貴は神奈川県立鎌倉高校に入学したものの公立の、受験一辺倒の学校の体質に馴染めなかったという。体調も思わしくなく、度々自家用車で学校へ送ってもらっていた。今でこそ車で学校に送り迎えする親はいるだろうが、当時は周りから稀有な存在として見られてバッシングを受けていた。兄弟に共通していた“コンプレックス” その後、兄は大学へと進学することになる。その頃できたばかりの和光大学で、その一期生となる。時を同じく、弟は慶應大学の文学部に入学する。 僕と違って兄貴は語学に関して大変な努力家だった。大学だけでなく、フランス語の会話を極めたいと、御茶ノ水にあるアテネ・フランセに通っていた。彼はこれまで自分の体のことを揶揄する大人たちへの反発心から、文学や語学などの能力を身につけようと努力したのだった。兄貴は和光大学を卒業後、まだ勉強がし足りないということで関西学院大学大学院へ行く。その後がパリ留学だ。 僕たち兄弟はコンプレックスの塊だ。僕も前腕に全然筋肉がつかないというコンプレックスをずっと抱えたまま今に至る。母に「お父ちゃんのどこを好きになったの?」と聞いたときに、「腕の筋肉ががっちりしているのがよかった」と言っていたし、やっぱり世の女性は男性の筋肉が好きなんだろう。 この劣等感の話は兄貴の話と対になっていて、兄貴はああいう身体だから、非常にそういう劣等感を感じていて、あの事件に繋がってしまった。そして僕にもそんな劣等感が募っていた。でも僕の場合は兄貴みたいにはならなかった。 やっぱり、どんな性癖を持っていても人を殺めちゃいけない。ただ、兄貴みたいに「食べたい」という欲望を達成するためには殺すしかないのか? いや、そうではないと思う。なにも殺さなくてもいいじゃないか。それを今さら兄貴に言ったところでなにも始まらないけど。でも、殺さずに食べる方法はあったんじゃないかと、未だに思う。性的に歪んでいるのはふたりとも同じだとしても、兄貴と僕は違う。人殺しは絶対にいけない。『まんがサガワさん』のあの絵も僕は大嫌いだ。復刊するそうだが、遺族の心境を考えると堪らない。なんであんなものをわざわざ出すのか。たぶん根本敬さんも応援してくれてたんでしょうけど。喧嘩の翌日には「謝り状」が送られてきた パリ大学の修士課程まで終えた後に帰国して、どこかに就職すればいいものを、再びパリの大学に行ってしまった。それが間違いの元だった。フランスに渡ってから、兄貴の周りにはパリ大学の仲間が自然に集まってきていた。あの事件さえなければ、フランス人の友達に囲まれて楽しい人生を謳歌したに違いない。勿体ないことをしたものだ。 兄が起こした事件の後、しばらく経つとマスコミの執拗な取材も徐々になくなり、そのうち両親が亡くなり、今は兄弟ふたりだけになってしまった。 兄貴を介護するようになる前までは喧嘩も良くした。何か虫の居所が悪くなると、彼は僕を責めた。原因がまったく分からないのだ。そして翌日になると、ファックスで“謝り状”を送ってくるのだった。やはり僕に対するやっかみが、終わってなかったのだ。 ところが、病気になり弱い立場になると、流石に僕に対する矛を収めたようだった。母は兄に対して十二分の愛情を注いでいたのだが、兄貴がその想いを裏切るようなことをしていた。「何でやの、おかあちゃんがこれだけいっちゃんのことを思っているのに、何で分かってくれんのよ」 そう言って母はよく嘆いていた。僕が喘息のときに診てもらっていた心療内科の医師から「今、お兄さんの矛先はご両親に向いてるけど、万が一ご両親が亡くなったら、それがあなたに向かうから、くれぐれも注意していた方がいい」と言われたことがあった。まあ、それも兄自身が脳梗塞や糖尿病になって、さらに誤嚥性肺炎で入院した今、それどころではなくなった。 ある日、兄貴が病室で一言「小さい頃は、弟の純ちゃんを守ってあげたかったんだ 」と僕に言った。「ウソやって言って、ねぇ」女子留学生を殺害して食べた猟奇的殺人犯の家族が背負った“十字架”《被害妄想、現実逃避する母、弟の恋愛はことごとく破談…》 へ続く(佐川 純/Webオリジナル(特集班))
「しまった!」と咄嗟に思った。リビングにはチェロをおいてきたのだ。兄貴はチェロの表板に向かってありったけの力で鉄製の譜面台を振り下ろしていた。翌日、恐る恐るチェロを見ると、表板には亀裂が入り大きく損傷していた。自由が丘にある楽器修理専門店に持っていったが「修復不可能です」と言われてしまった。まあ、チェロが僕の身代わりになってくれた、と思えば腹も立たないか。
チェロと兄貴に関するエピソードをもうひとつ。ある日の夕方、兄から電話があった。
「純ちゃんのことをよく知ってるZさんが、ほら何度か食べにいった魚が泳いでいるお店あるよね、あそこに6時半頃に来るらしいので、純ちゃんも行っておいてね」
雨が降りしきる中、時間通りにその店に行くが、待てど暮らせどZさんは来ない。1時間待ったが来なかった。雨は降り続いていた。帰宅しドアを開けると……僕が大事にしていたチェロと、カーク・レイナートのリトグラフ2枚がなくなっているではないか。
そのチェロは大量生産ではなく、手作りの楽器だった。まず面持ちがいい。美しい。そして当然であるが音が魅力的だ。購入当時の値段は100万円ちょうどだった。ずっとアマチュアオーケストラの演奏会の本番で弾いてきた。だから楽器に対する愛情も強い。恋人みたいなものだ。僕はすぐに警察に電話をした。ところが、犯人は兄貴だった。その頃、兄貴はお金に困っていたようだ。
母親からは「なんでもっと兄ちゃんを怒らないの?」と言われたが、僕は仕方ないと思っている。その後もいろいろとあったけれど、そういう人なんだからと諦めている。だからといって兄貴のことを嫌いにはなれない、今は。
兄貴は僕のことを“タヌキ”に違いない、としばしば言うことがあった。彼の中には常に僕に対するやっかみがあるのだ。まず、中学受験で僕は慶應の志木高校に、一方兄貴は地元の県立鎌倉高校にそれぞれ入学した。その時点で彼は僕に対する劣等意識を持ち始めた。弟は寮生活になんとか耐えられるが、体の弱い兄貴は無理だと親は判断したようだ。あらゆる手を尽くせば(裏口入学?)志木高校に入れることはできたらしいが、その選択を親はしなかった。
兄貴は神奈川県立鎌倉高校に入学したものの公立の、受験一辺倒の学校の体質に馴染めなかったという。体調も思わしくなく、度々自家用車で学校へ送ってもらっていた。今でこそ車で学校に送り迎えする親はいるだろうが、当時は周りから稀有な存在として見られてバッシングを受けていた。
その後、兄は大学へと進学することになる。その頃できたばかりの和光大学で、その一期生となる。時を同じく、弟は慶應大学の文学部に入学する。
僕と違って兄貴は語学に関して大変な努力家だった。大学だけでなく、フランス語の会話を極めたいと、御茶ノ水にあるアテネ・フランセに通っていた。彼はこれまで自分の体のことを揶揄する大人たちへの反発心から、文学や語学などの能力を身につけようと努力したのだった。兄貴は和光大学を卒業後、まだ勉強がし足りないということで関西学院大学大学院へ行く。その後がパリ留学だ。
僕たち兄弟はコンプレックスの塊だ。僕も前腕に全然筋肉がつかないというコンプレックスをずっと抱えたまま今に至る。母に「お父ちゃんのどこを好きになったの?」と聞いたときに、「腕の筋肉ががっちりしているのがよかった」と言っていたし、やっぱり世の女性は男性の筋肉が好きなんだろう。
この劣等感の話は兄貴の話と対になっていて、兄貴はああいう身体だから、非常にそういう劣等感を感じていて、あの事件に繋がってしまった。そして僕にもそんな劣等感が募っていた。でも僕の場合は兄貴みたいにはならなかった。 やっぱり、どんな性癖を持っていても人を殺めちゃいけない。ただ、兄貴みたいに「食べたい」という欲望を達成するためには殺すしかないのか? いや、そうではないと思う。なにも殺さなくてもいいじゃないか。それを今さら兄貴に言ったところでなにも始まらないけど。でも、殺さずに食べる方法はあったんじゃないかと、未だに思う。性的に歪んでいるのはふたりとも同じだとしても、兄貴と僕は違う。人殺しは絶対にいけない。『まんがサガワさん』のあの絵も僕は大嫌いだ。復刊するそうだが、遺族の心境を考えると堪らない。なんであんなものをわざわざ出すのか。たぶん根本敬さんも応援してくれてたんでしょうけど。喧嘩の翌日には「謝り状」が送られてきた パリ大学の修士課程まで終えた後に帰国して、どこかに就職すればいいものを、再びパリの大学に行ってしまった。それが間違いの元だった。フランスに渡ってから、兄貴の周りにはパリ大学の仲間が自然に集まってきていた。あの事件さえなければ、フランス人の友達に囲まれて楽しい人生を謳歌したに違いない。勿体ないことをしたものだ。 兄が起こした事件の後、しばらく経つとマスコミの執拗な取材も徐々になくなり、そのうち両親が亡くなり、今は兄弟ふたりだけになってしまった。 兄貴を介護するようになる前までは喧嘩も良くした。何か虫の居所が悪くなると、彼は僕を責めた。原因がまったく分からないのだ。そして翌日になると、ファックスで“謝り状”を送ってくるのだった。やはり僕に対するやっかみが、終わってなかったのだ。 ところが、病気になり弱い立場になると、流石に僕に対する矛を収めたようだった。母は兄に対して十二分の愛情を注いでいたのだが、兄貴がその想いを裏切るようなことをしていた。「何でやの、おかあちゃんがこれだけいっちゃんのことを思っているのに、何で分かってくれんのよ」 そう言って母はよく嘆いていた。僕が喘息のときに診てもらっていた心療内科の医師から「今、お兄さんの矛先はご両親に向いてるけど、万が一ご両親が亡くなったら、それがあなたに向かうから、くれぐれも注意していた方がいい」と言われたことがあった。まあ、それも兄自身が脳梗塞や糖尿病になって、さらに誤嚥性肺炎で入院した今、それどころではなくなった。 ある日、兄貴が病室で一言「小さい頃は、弟の純ちゃんを守ってあげたかったんだ 」と僕に言った。「ウソやって言って、ねぇ」女子留学生を殺害して食べた猟奇的殺人犯の家族が背負った“十字架”《被害妄想、現実逃避する母、弟の恋愛はことごとく破談…》 へ続く(佐川 純/Webオリジナル(特集班))
この劣等感の話は兄貴の話と対になっていて、兄貴はああいう身体だから、非常にそういう劣等感を感じていて、あの事件に繋がってしまった。そして僕にもそんな劣等感が募っていた。でも僕の場合は兄貴みたいにはならなかった。
やっぱり、どんな性癖を持っていても人を殺めちゃいけない。ただ、兄貴みたいに「食べたい」という欲望を達成するためには殺すしかないのか? いや、そうではないと思う。なにも殺さなくてもいいじゃないか。それを今さら兄貴に言ったところでなにも始まらないけど。でも、殺さずに食べる方法はあったんじゃないかと、未だに思う。性的に歪んでいるのはふたりとも同じだとしても、兄貴と僕は違う。人殺しは絶対にいけない。
『まんがサガワさん』のあの絵も僕は大嫌いだ。復刊するそうだが、遺族の心境を考えると堪らない。なんであんなものをわざわざ出すのか。たぶん根本敬さんも応援してくれてたんでしょうけど。
パリ大学の修士課程まで終えた後に帰国して、どこかに就職すればいいものを、再びパリの大学に行ってしまった。それが間違いの元だった。フランスに渡ってから、兄貴の周りにはパリ大学の仲間が自然に集まってきていた。あの事件さえなければ、フランス人の友達に囲まれて楽しい人生を謳歌したに違いない。勿体ないことをしたものだ。
兄が起こした事件の後、しばらく経つとマスコミの執拗な取材も徐々になくなり、そのうち両親が亡くなり、今は兄弟ふたりだけになってしまった。
兄貴を介護するようになる前までは喧嘩も良くした。何か虫の居所が悪くなると、彼は僕を責めた。原因がまったく分からないのだ。そして翌日になると、ファックスで“謝り状”を送ってくるのだった。やはり僕に対するやっかみが、終わってなかったのだ。 ところが、病気になり弱い立場になると、流石に僕に対する矛を収めたようだった。母は兄に対して十二分の愛情を注いでいたのだが、兄貴がその想いを裏切るようなことをしていた。
「何でやの、おかあちゃんがこれだけいっちゃんのことを思っているのに、何で分かってくれんのよ」 そう言って母はよく嘆いていた。僕が喘息のときに診てもらっていた心療内科の医師から「今、お兄さんの矛先はご両親に向いてるけど、万が一ご両親が亡くなったら、それがあなたに向かうから、くれぐれも注意していた方がいい」と言われたことがあった。まあ、それも兄自身が脳梗塞や糖尿病になって、さらに誤嚥性肺炎で入院した今、それどころではなくなった。 ある日、兄貴が病室で一言「小さい頃は、弟の純ちゃんを守ってあげたかったんだ 」と僕に言った。「ウソやって言って、ねぇ」女子留学生を殺害して食べた猟奇的殺人犯の家族が背負った“十字架”《被害妄想、現実逃避する母、弟の恋愛はことごとく破談…》 へ続く(佐川 純/Webオリジナル(特集班))
「何でやの、おかあちゃんがこれだけいっちゃんのことを思っているのに、何で分かってくれんのよ」
そう言って母はよく嘆いていた。僕が喘息のときに診てもらっていた心療内科の医師から「今、お兄さんの矛先はご両親に向いてるけど、万が一ご両親が亡くなったら、それがあなたに向かうから、くれぐれも注意していた方がいい」と言われたことがあった。まあ、それも兄自身が脳梗塞や糖尿病になって、さらに誤嚥性肺炎で入院した今、それどころではなくなった。
ある日、兄貴が病室で一言「小さい頃は、弟の純ちゃんを守ってあげたかったんだ 」と僕に言った。
「ウソやって言って、ねぇ」女子留学生を殺害して食べた猟奇的殺人犯の家族が背負った“十字架”《被害妄想、現実逃避する母、弟の恋愛はことごとく破談…》 へ続く
(佐川 純/Webオリジナル(特集班))