引退説がくすぶってきた神戸山口組の寺岡修若頭(73=友会会長)が、まずは組織から脱退の意向を固めたようだ。元山口組系義竜会会長の竹垣悟氏(現在は暴力団組員の更生を支援するNPO法人「五仁會」を主宰)に、その経緯などについて解説してもらった。
【写真】6代目山口組「司組長」の誕生会に招かれた銀座の有名ママ、自宅を銃撃された井上組長による破門状など「8月22日、寺岡若頭が侠友会の人間を集めて、神戸山口組を出ると宣言しました。これに傘下組織の組長12~13人とその若い衆ら計30名前後が付き従って、神戸山口組を抜けました」

と、竹垣氏。「寺岡若頭は7年前の神戸山口組の発足当初は、ど真ん中で井上組長を支えてきた人物です。しかしここ最近は解散推進派に転じていましたから、今回の決断には“いよいよか”という印象がありますね」神戸山口組の井上邦雄組長 6代目山口組との抗争が苛烈を極める中、劣勢に立たされ続ける神戸山口組の将来を案じた寺岡組長は、組織の解散を進めた方がさまざまな意味でベターだと判断。そうなるべく具体的な手を打ってきたとされる。「道仁会(本部:福岡県久留米市)の小林哲治会長を通じ、井上組長に“白旗を上げてもらう”作戦もその1つでした」解散の説得が不調に終わり しかし、寺岡若頭の尽力もむなしく、説得工作は不調に終わったという、「井上組長は寺岡若頭を伴って小林会長のもとを訪ね、“これまで色々とご尽力をいただきましたが、思うところあって、神戸山口組の解散、自らの引退につきましては、すべて白紙ということになりました”と伝えたということでした。窓口になってきた寺岡若頭の顔は丸つぶれで、それによって両者の関係は決裂したと聞きました」 それ以降、寺岡若頭は脱退のタイミングをはかってきたようだ。今年6月にがんで亡くなった、神戸山口組の仲村石松若頭補佐(享年66、3代目古川組組長)の49日法要に顔を見せなかったのも、すでに脱退の意向を固めていたからと見られる。「クーデターといえるほど急進的ではなかったとはいえ、親分に引退・解散を迫るようなことは生半可な気持ちではできません。当然、腹を括ったうえで進退をかけたものであり、うまく行かなかったからには自ら身を退く他ないということでしょう。今回、寺岡若頭に加えて同じ友会の薮内秀宝若頭(神戸山口組若中)、そして徳誠会の大瀧一門会長(神戸山口組若頭補佐)が組織を脱退するようで、井上組長は絶縁処分を下しました」さらなる脱退希望者の名が「友会が本部を置く淡路島に彼らは根を張り、社会にも溶け込んでいるので、彼らだけがシノいで行くぶんには何ら問題ないと聞いています。しばらくは一本独鈷(独立組織)として行動し、しかるべきタイミングで寺岡若頭は引退し、残った面々を6代目山口組傘下に移籍するように手はずを整えると見ています。寺岡若頭を除けば、6代目側と盃を交わしている者はいないはずなので、そういった動きに障壁はないでしょう」 他方、「ど真ん中で支えてきた」というナンバー2を失った井上組長としては、まさに崖っぷちの状況だろう。「もう1人の最高幹部である入江禎副組長が率いる2代目宅見組も、配下に抱える組員は30人くらいとされており、神戸山口組全体で見ても200人程度ではないかと見られます」 この他にも、神戸山口組を脱退したいという直参の名が複数あがっていることもあり、櫛の歯が欠けたような状態で、勢力のさらなる弱体化が囁かれる状況だ「寺岡若頭は、5代目山口組の宅見勝若頭にヒットマンを向かわせた中野会の中野太郎会長に引退の引導を渡した張本人です。当時、寺岡若頭は6代目山口組の若頭補佐でしたが、人生において1度ならず2度までも、組織や組織にいた人間に引退を進言するとは、皮肉な役回りだなと感じましたね」 神戸山口組の設立は2015年8月27日とされている。山口組の分裂から7年目の夏に、また1つ大きな動きがあったことは間違いないだろう。デイリー新潮編集部
「8月22日、寺岡若頭が侠友会の人間を集めて、神戸山口組を出ると宣言しました。これに傘下組織の組長12~13人とその若い衆ら計30名前後が付き従って、神戸山口組を抜けました」
と、竹垣氏。
「寺岡若頭は7年前の神戸山口組の発足当初は、ど真ん中で井上組長を支えてきた人物です。しかしここ最近は解散推進派に転じていましたから、今回の決断には“いよいよか”という印象がありますね」
6代目山口組との抗争が苛烈を極める中、劣勢に立たされ続ける神戸山口組の将来を案じた寺岡組長は、組織の解散を進めた方がさまざまな意味でベターだと判断。そうなるべく具体的な手を打ってきたとされる。
「道仁会(本部:福岡県久留米市)の小林哲治会長を通じ、井上組長に“白旗を上げてもらう”作戦もその1つでした」
しかし、寺岡若頭の尽力もむなしく、説得工作は不調に終わったという、
「井上組長は寺岡若頭を伴って小林会長のもとを訪ね、“これまで色々とご尽力をいただきましたが、思うところあって、神戸山口組の解散、自らの引退につきましては、すべて白紙ということになりました”と伝えたということでした。窓口になってきた寺岡若頭の顔は丸つぶれで、それによって両者の関係は決裂したと聞きました」
それ以降、寺岡若頭は脱退のタイミングをはかってきたようだ。今年6月にがんで亡くなった、神戸山口組の仲村石松若頭補佐(享年66、3代目古川組組長)の49日法要に顔を見せなかったのも、すでに脱退の意向を固めていたからと見られる。
「クーデターといえるほど急進的ではなかったとはいえ、親分に引退・解散を迫るようなことは生半可な気持ちではできません。当然、腹を括ったうえで進退をかけたものであり、うまく行かなかったからには自ら身を退く他ないということでしょう。今回、寺岡若頭に加えて同じ友会の薮内秀宝若頭(神戸山口組若中)、そして徳誠会の大瀧一門会長(神戸山口組若頭補佐)が組織を脱退するようで、井上組長は絶縁処分を下しました」
「友会が本部を置く淡路島に彼らは根を張り、社会にも溶け込んでいるので、彼らだけがシノいで行くぶんには何ら問題ないと聞いています。しばらくは一本独鈷(独立組織)として行動し、しかるべきタイミングで寺岡若頭は引退し、残った面々を6代目山口組傘下に移籍するように手はずを整えると見ています。寺岡若頭を除けば、6代目側と盃を交わしている者はいないはずなので、そういった動きに障壁はないでしょう」
他方、「ど真ん中で支えてきた」というナンバー2を失った井上組長としては、まさに崖っぷちの状況だろう。
「もう1人の最高幹部である入江禎副組長が率いる2代目宅見組も、配下に抱える組員は30人くらいとされており、神戸山口組全体で見ても200人程度ではないかと見られます」
この他にも、神戸山口組を脱退したいという直参の名が複数あがっていることもあり、櫛の歯が欠けたような状態で、勢力のさらなる弱体化が囁かれる状況だ
「寺岡若頭は、5代目山口組の宅見勝若頭にヒットマンを向かわせた中野会の中野太郎会長に引退の引導を渡した張本人です。当時、寺岡若頭は6代目山口組の若頭補佐でしたが、人生において1度ならず2度までも、組織や組織にいた人間に引退を進言するとは、皮肉な役回りだなと感じましたね」
神戸山口組の設立は2015年8月27日とされている。山口組の分裂から7年目の夏に、また1つ大きな動きがあったことは間違いないだろう。
デイリー新潮編集部