朝から晩までパチンコやパチスロを打ち、勝ち金で生活をするパチプロ。気ままな稼業の代名詞とも言われる彼らは、パチプロを辞めた後、どんな人生を送っているのだろうか。今回は元パチプロたちの“その後”の人生に迫ってみた。
◆塾の先生として第二の人生を歩む有名大学中退パチプロ
東海地方で塾を経営する松木祐二さん(仮名・45歳)は、地元の進学校を卒業後、一浪を経て都内の有名私大に進学した。だが、2年で大学を中退。その後、30代半ばまでプロとして食ってきたという。
「浪人時代にパチスロ覚えて、ニューパルサーのリーチ目覚えたりリプレイハズシやったり、設定判別もやりましたね。とにかく攻略ネタが豊富だったし、今よりもホールの状況もよかったので、学校なんて行ってるのが馬鹿馬鹿しくなっちゃったんですよね(苦笑)。学校辞めて専業になって、気がついたら30代半ばまでプロとして食ってました」
松木さんは東京郊外でジグマスタイルで稼ぎ、15年近いパチプロ人生でマイナス収支の年は一度もなく、「一番低かった年がプラス200万円だった」というから立派なものである。では、そんな順調だったパチプロを辞めるきっかけは何だったのだろうか。
「ちょうど東北の震災があって、当時付き合ってたコが将来のこと考えて真面目に働いてほしいって言われたりしてギクシャクし始めて……。親も体調崩して大変だったので、じゃあ一度リセットしようやって彼女とも別れて実家に戻ったんです」
だが、実家に戻ると松木さんは現実を突きつけられることとなる。
「2012年にプロを辞めて実家に帰るんですが、社会人経験なんてないからまともなところじゃ雇ってくれない。地元は自動車関連の工場も多かったので、期間工とか単発のバイトみたいなことしながら正社員になれる道を模索してたんです。その時はもう、すごく悩んでて、パチンコ屋の看板見るだけで『プロなんてなんなきゃよかった』って思ったり。そんな時、親戚の叔父さんと飲みに行ったんですよ。これが転機でしたね」
迷える小羊状態だった松木さんを見かねた叔父が誘った飲みの席で、その後の人生が大きく変わる。
「飲み屋のカウンターで叔父さんと飲んでた時に、『パチンコ以外になんもしてこなかったんか?』って聞かれたんです。それで、中退してからもしばらく家庭教師してたって話したら、叔父さんどころか店の大将まで『えぇっ!!! パチプロが家庭教師!?』ってビックリしたんです。まぁ、パチプロが家庭教師やってるなんて、想像もできなかったんでしょうね(笑)。そしたら『叔父さんが知り合いで塾やってるのがいるから、塾の先生やったらどうだ?』って。そこからはトントン拍子で、塾長を紹介されて……って流れですね」
コンビニのバイトはおろか、ほとんど働いた経験のなかった松木さんだが、唯一のアルバイト経験はなんと家庭教師だったという。
「大学時代、唯一やってたアルバイトが家庭教師だったんですよ。全盛期は4人掛け持ちで、受け持ったコたちはみんな“デキが悪いコ”ばっか(笑)。私、大学を2年で中退してますが、3年生に上がれなくて留年してるんで、都合3年いたんです。その間、家庭教師のバイトだけは続けてて、朝から稼働して夕方から夜にかけて家庭教師。終わったらまたホールに戻って最終回転数とか状況をチェックする毎日でした。
その後、大学は中退したんですが、最後に教えてたコが小学校卒業するまでは続けてたんです。親御さんには大学辞めたことも伝えていたんですが、卒業するまでなんとか続けてほしいって頼まれて、続けることにしました」

叔父に紹介され、面接で履歴書を見せると塾長からは「〇〇大学中退なら、この辺じゃ中堅私大卒業くらいの価値がある!」と言われたんだとか。そのまま松木さんは塾で働くことになり、今に至るという。
「塾長も5年程前に引退されて、塾を譲り受ける形で私が塾を運営しています。私の塾はいわゆる進学塾ではなく、授業についていけないコたちのサポート的な塾です。これも家庭教師時代の経験ですね。勉強ができないコって、やり方や解き方のコツががわからなかったり、なかには発達障害に近いコもいます。私の塾では、デキるコを育てたり受験勉強をさせるんじゃなくて、勉強に興味を持たせることを考えて指導してます。私自身、世間の目からすれば道を踏み外した人間です。でも、別に道なんて踏み外して寄り道すりゃいいんですよ。子供たちには好きな道を歩いて行ける道しるべみたいなものを教えたいと思っています」
なんとも重みのある言葉である。では、最後に思い出の台について聞くと、テンタクルズ(瑞穂製作所・現ユニバーサル)だという。
「この台、当時人気だったタコスロの兄弟機って触れ込みだったんですが、とにかく目押し難易度が高くてリプレイハズシは常にビタ押し、そんな台だから目押しがある程度できる人が打っても辛いんです。そうなると必然的に設定は甘くなってました。でも、私からすればライバルはいない、設定は甘いという天国みたいな状況。毎日抜いてました(笑)。
難しいし人気ないし一部のプロから抜かれるからすぐに消えたんですが、関西に旅打ちした時にたまたま見つけて、もう嬉しくて嬉しくて、3日間通って抜きまくったら3日目に『すいません。もう、来ないでください』って初めての出禁(笑)。目押しで食えるって実感できた台でしたね」
子供たちのことを嬉しそうに話してくれた松木さんであったが、パチプロ時代の話になるとさらに目を輝かせて話してくれた。
◆4号機撤去と同時に脱パチプロをした建築士
続いて話を伺ったのは、現在48歳の本多拓人さん(仮名)だ。本多さんは大学卒業後、一旦は就職するも1年で退職しパチプロに。2008年に足を洗って父親が経営していた内装業の会社に就職した。
「大学時代にパチスロにどっぷりハマッてセミプロみたいなことをしてたんですよ。ただ、その頃からゆくゆくは実家の仕事を継がなきゃ……ってのは頭にあったんですが、ホールに行けばカネが落ちてるような時代でしょ。オヤジから『早く継げ!』って散々言われたんですが、ノラリクラリとかわしていたんです」
では、そんな本多さんが足を洗うきっかけとは、なんだったのだろうか。
「2005年の冬に実家に帰って正月をのんびりしてたら、いつになくオヤジが深刻な顔して『カネが欲しいならカネをやる、家が欲しいなら買ってやる。週に2日しか働かなくてもいい。とにかく継いでくれないか』って。ちょうどその頃、みなし機撤去と4号機から5号機に移行するって話が出始めた頃で、なんとなくな不安感を抱いていたんですよ。そんな時にオヤジから頭下げられたもんだから、ちょっと真剣に家業を継ぐこと考えなきゃなって」
そして本多さんは父親にこんな提案をしたという。「あと3年は好きにさせてくれ。そしたら必ずオヤジの下で修行するから」と告げたという。
「2006年から2007年にかけては、全国を旅打ちしましたね。思い出の台が打てる店の情報を調べて旅打ちして打ち散らかしました。地方に行ってその土地の状況がいいとしばらく居着いたりして……。沖縄なんか、1週間の予定が1か月くらいいましたから」

「完全に白い灰状態(笑)。それで5号機になってから2か月くらいはパチスロをまったく打たなかった。試しに出たばかりの5号機を打ったのは年が明けた2008年でしたね。なんかもう、いいやって気持ちになって、年明け早々にオヤジの会社に入りました」
◆パチプロとして職人から一目置かれる
父親の会社に二代目として入ったものの、最初は居心地が悪かった本多さんはいう。
「内装屋って、職人さんとヤンチャな若いヤツが多いんですよ。で、そんなとこにいくら社長の息子だからって、35歳までプラプラしてたヤツが入ってきたんだから、みんな気分はよくない。一応、二級建築士の資格を持ってましたけど、実務は何にもデキませんでしたからね」
そんな本多さんを救ったのはパチプロとしての半生だった。
「なんとなく居場所がない雰囲気だったんですが、ある時、昼メシ食いながらみんながパチスロ雑誌を見てパチスロの話をワイワイしてたんです。で、そのうちの1人が『パチスロなんてやんないでしょ?』って話を振ってきたから、思わず『いや、実はここに入るまで15年近くパチスロで食ってて……』って話したら、みんなビックリ(笑)」
実は本多さん、父親にパチプロをしていたと話してなかったのだとか。
「その頃くらいからですね、仕事終わりにみんなで打ちに行ったり飲みに行ったりするようになって仲良くなって……って。でも、ある日、オヤジにバレて『お前、会社辞めてずっとパチプロだったんか!』って怒鳴りつけられました(笑)」
ここ数年の建築、建設ラッシュで今では仕事も順調だという本多さん。そんな本多さんに思い出の台を聞いた。
「いろいろありますけど、3号機のリノ、4号機はイプシロンですね。リノはBIG中の枚数調整と1枚掛けでタコ出しして初めて店から追い出された思い出の一台。イプシロンはハズシもオイシかったんですが、リール制御とゲーム性ですね。半年くらいでなくなっちゃったんですが、ひたすら打ち込みましたね。リプレイの次ゲームでテンパイしたら激アツとか、よく考えてるなぁって」
「人生にはモラトリアムが必要だと思う」と語る本多さん。だが、10年以上のパチプロ生活については「ちょっと長すぎたモラトリアムだった(笑)」とも。しかし、あの生活があったから今の自分がいたとも言う。
今回紹介した元パチプロの2人は、かなり異質ではあるだろう。誰もが第二の人生を謳歌しているとは限らない。実際、表の仕事に戻れず窮々とした生活を続けている元パチプロも筆者の知り合いにはいる。自由に生きた人生の代償を払うのか、自由に生きた人生を糧にするのか……その人次第なのかもしれない。
取材・文/谷本ススム