桐原さんが副校長を務める広島桜が丘高等学校(写真:同校インスタグラムより)
浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか?また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか?
自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。
今回は、水戸第一高等学校から2浪して東大に3回挑戦するも、僅差で受からず中央大学法学部に進学。浪人期間に教育格差をなくしたいという意識が芽生え、大学進学後にYouTubeチャンネル『PASSLABO』を立ち上げて「くまたん」の名前で活動。大学卒業と同時に広島桜が丘高等学校の副校長になった桐原琢さんにお話を伺いました。
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「24歳で高校の副校長になった人」と聞いて、みなさんはどういったイメージを持たれるでしょうか。
受験戦争を勝ち抜いてきた、ものすごいエリートだと思われる人もいるかもしれません。しかし彼には2浪して東大に3回挑戦するも受からず、最終年は最低合格点からわずか1点足りなかった、というつらい経験がありました。
現在につながる彼の教育に対する熱意・意識が芽生えたのは、浪人時代の経験からだったそうです。
今回は若き副校長の素顔に迫っていきます。
桐原さんは茨城県水戸市に生まれました。桐原さんは1人っ子で、両親がいろんな仕事を掛け持ちしながら、愛情いっぱいに育ててくれたそうです。
「小さいころからずっと両親が共働きで、小学校6年生までは母方の祖父母の家でずっと暮らしていました。両親はともに高卒で、仕事で苦労していたこともあり、私に将来苦労してほしくないからと愛情をたくさん注いで育ててくれました」
小学生のときの桐原さんは、先生の言うことは絶対守る優等生だったそうです。国語や数学などの主要教科の成績も3段階評価ですべて3でした。そんな彼は、地元の公立中学校が荒れていたこともあり、両親の勧めで私立の水戸英宏中学校を受験し、進学することになります。
中学3年生になると、茨城県内有数の進学校である水戸第一高等学校に行きたいと思い、「人生でいちばん勉強した」というほどの猛勉強を重ねます。
「『全国高校入試問題正解』という英語・数学・国語・理科・社会の47都道府県の入試問題が全部入っている冊子があるのですが、夏休みだけで全国の全科目の問題を解ききりました。それでも、水戸第一高等学校のA判定は一度も取ったことがありませんでした」
5教科500点満点で、420~430点取れたら合格のボーダーラインと言われる高校で、桐原さんが取っていたのはいつも410~420点だったそうです。志望校を下げるか悩んでいたそうですが、母親に背中を押されたこともあり、本番は自己最高の460点を取って合格しました。
しかし、この成功体験が桐原さんに慢心を呼び起こさせます。
水戸第一高等学校に入ってからの桐原さんは、「天狗になってしまった」と当時を振り返ります。
「自分はすごい人間だと勘違いして、勉強をしなくなりました。高2の冬くらいからようやく周囲が志望校を決め出したので、第1志望を東京大学に設定したのです。県内で1~2番の高校である水戸第一高等学校に入ったときに周囲から褒められたのですが、またすごい目で見られたい、優越感に浸りたいという、それだけの理由でした」
しかし「やればできる」と思い込んでいた彼は、勉強に力を入れることができませんでした。高3の模試でほとんどE判定だった彼は、センター試験も750/900点と東大受験者の中では低めの点数に終わります。
「模試で問題が解けなかったこともあり、この時点で自分は『東大に落ちるだろうな』と思っていました。戦う前からもう、心が折れていたんです」
結局、現役時の桐原さんの東大受験は最低合格点から40~50点足りず不合格。滑り止めの早稲田大学文学部も落ちてしまいました。
「東大を受ける自分すごいでしょっていう見栄ばかりで、プライドが邪魔をした高校生活でした。もっと真面目に受験勉強しておけばよかったなと思います」
こうして「どこにも受からなかったから、しょうがない」と思った桐原さんは浪人を決断します。
「学年320人のうち100人くらいは浪人する学校でした。みんな通学路にあった河合塾水戸校に行っていたので、私もそこに入りました」
現役時の失敗を反省した1浪目の桐原さんは、授業にしっかり出て勉強を重ねます。
「河合塾に入ってすぐの授業で、先生が『河合塾のテキストはすごく分析されているので、予習・復習をやれば成績が上がります』とおっしゃっていたんです。だから朝ちゃんと起きて予備校に通いながら、休み時間もずっと予習・復習を徹底していました。すると本当に成績が上がったんです」
夏の河合塾の全統模試で、桐原さんはA~B判定を連発するようになりました。この結果を受けて、少し気が緩んだものの、勉強時間は10時間を下回らないようにしていた桐原さんは、たしかな手応えをつかんでいました。
しかし、12月に入って河合塾の授業が全部終わったとき、彼は自分でどうやって計画を組んで、どう勉強をすればいいのかが、わからなくなってしまったのです。
「とりあえず、なんとなくセンター試験や東大の2次試験の過去問を解いていたのですが、センター試験本番で760/900点程度しか取れなかったことに焦って、急遽明治大学と早稲田大学に出願したんです。
センター試験が終わってから、明治の過去問、明治の入試が終わったら早稲田の過去問を解くことに集中していたら、あっという間に東大文科一類の受験日が来てしまいました。目先の合格に目が眩んで、十分に本命の対策ができずに、東大に合格最低点から8点差で落ちてしまいました」
結局、必死に対策した明治には合格するも、早稲田の法学部に受からなかった桐原さんは2浪をするかどうか、深く悩みました。
「私の高校は1浪したらみんな東大や早慶、旧帝大に受かっていくので、彼らに負けるのが嫌だという気持ちがありました。ここまでやったし、母と父に頭を下げて、東大受験のためにもう1浪させてほしいと頼みました」
そこで彼は、受験に対する自分自身の姿勢を反省することになります。
両親は2浪を止めることはしませんでした。そのかわり、母親が桐原さんにある問いかけをします。それが「なんであなたは大学受験をするの?」「なんで東大なの?」という質問でした。
「そう母親に言われるまで、自分がなんで東大を受けるか考えたことがなかったんです。結局のところ、自分のプライドだという結論に至りました。周囲に流されて、見栄を張っていたから落ちてしまったんです」
自分の姿勢を見直した彼は、もっと素直に自分の将来について考えてみようと思いました。そこで、小学校から仲のよい幼馴染と高校の友人に会って話を聞いてみたことで、人生の方向性が決まったそうです。
「高校を出てすぐ公務員になった社会人2年目の子に話を聞くと、『大卒に命令されるし、給料も安いし、大学に行きたかった』と言っていました。
もう1人の子は後に5浪で大学に入るのですが、弟を大学に行かせるために母親の介護をしながら勉強し、行けるタイミングで大学に進学しようと考えている子でした。その2人の話を聞いて、自分はなんて恵まれているんだろうと思ったんです」
自分の家庭も決して裕福じゃないのに、母親や父親がそれを気づかせないよう、支えてくれていたことに気づいた桐原さん。浪人生活が終わってから、1浪目・2浪目と両親が予備校の費用を借金して負担していたことを知ったそうです。
「自分は恵まれている。教育は生まれた環境から人生逆転するチャンスでもあるのに、生まれた環境から逆転できない人がいるのはおかしい……」
そう思った桐原さんは、国の教育の仕組みを変える人間になりたいと思いました。そこで官僚や政治家になりたいと思い、手始めに官僚になる方法を調べました。
キャリア官僚になるためには国家総合職の試験に通る必要があり、試験の合格者をいちばん輩出している大学・学部を調べたところ、東大法学部、早稲田法学部、中央法学部だったため、この3つを受けようと、明確に意識を変えて、2浪目に臨みました。
2浪目は予備校の先生に言われたとおりに勉強するのをやめ、やってよかった予習・復習の習慣を残しつつ、早い段階からの過去問対策を始めます。
夏・秋の東大模試ではA判定を取り、力試しで受けた夏の京大模試では全国1位を獲得するまで力をつけました。
「最後まで苦手だった」と語るセンター試験は780/900点だったものの、事前に決めていた東京大学、早稲田大学、中央大学を受けた桐原さん。
しかし、中央大学は合格したものの、早稲田は補欠が繰り上がらず、東大は最低合格点からわずか1点差で不合格となってしまいました。
それでも、この1年の取り組みで、東大への思いを断ち切ることができたようです。
「もう、これは運命だと思いました。自分は中央大学の法学部に進んで、やりたいことをやろうと吹っ切れました。2浪目は東大に入るのが目的じゃなくて、手段だという意識だったので、中央大学に進むのも政治家や官僚になるための手段だと割り切ることができました」
2浪して東大に惜しくも届かなかった桐原さん。それでも彼は、浪人という経験を決してネガティブには捉えていません。
彼は浪人してよかったこととして「目的と手段を整理して、ゴールを達成するために今何をやるべきかを考えられるようになったこと」、頑張れた理由を「社会をよくしたいという思いと、親へ恩返ししたいという思い」と語ってくれました。
また2浪目で芽生えた「教育を変えたい思い」を、彼は大学に進学してから行動に移しました。
「2浪目にネットで情報を集めていたときに、東京大学の医学部の学生だった宇佐見天彗(すばる)さんという方を知り、英作文の添削をお願いしていました。彼とは教育の力で『地方の教育格差をなくしたい』という共通の思いがあったので、令和元年5月1日にYouTubeチャンネル『PASSLABO』を一緒に立ち上げて、教育に関する動画を発信し続けています」
並行して官僚になるための勉強もしていた桐原さん。大学2年生のときに出会った文部科学省の官僚の方に「実践するためには20年かかる」という現場の話を聞いたことで、すぐに今、現場でやれることをやりたいという思いから官僚への思いを断念します。
その後桐原さんは学校現場を知るために、宇佐美さんが立ち上げた株式会社ペイ・フォワードで、学校内予備校の事業に携わりました。
そして大学4年生になる直前に、取引先の社長から驚きの提案を受けます。それが、広島桜が丘高等学校に「教育アドバイザー」という形で参加してほしいという話でした。
現在の桐原さん(写真:桐原さん提供)
「まさに自分が望んでいた環境だったのですぐに『やります!』と返事しました。4月から定期的に学校に通い、9月からは週3回学校に行って、先生方へのヒアリング・学校現場の勉強・行事の見学・直接生徒と話す、といった関わり方をさせていただきました。現場を見る過程で気づいた課題から改革の骨子を固めて、学校の宣伝や変革の方法を理事長先生にプレゼンしたところ、許可をいただきました。
そうしたら、定員240人で今まで210人しか応募がなかった学校が、今年は320人くらい応募があったんです。その成果もあって『今年から本格的に副校長として学校に入ってほしい』と理事長先生から言っていただきました。大学卒業後のファーストキャリアとして、24歳のときに、私立高校の副校長を選択することにしました」
現在、「25歳の副校長」としてメディアにも出演している桐原さん。最後に彼は、今後の展望を語ってくれました。
「オリンピックのメダリストは100万人に1人の確率なんです。だから、私もそのレベルになりたいと思って、人生の選択を決めたんです。最終的に、40代で100万分の1の存在になろうと決めました。
それも浪人を決断して、強制的にレールを外れることができたからこそ、決断がしやすくなったのだと思います。だから、私は学生と関わるとき、『後悔しない選択をしてほしい』と言っています。もし本当に行きたい学校があるなら成績が足りてなくても受験したほうがいいと思うし、挑戦することから得られることはあると、いつも伝えています」
「やりたいと思って熱意・努力を持てば夢に近づけるんだなと思いました」と語る桐原さん。きっとこれからも、知性と熱意で、教育から世の中を変えていくのだろうと思いました。
(濱井 正吾 : 教育系ライター)